ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

古墳がいっぱい 等々力渓谷から多摩川へ

2017年02月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年2月24日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第37回(2017年第8回)、「等々力渓谷から多摩川」ウォーキングに参加した。

荒川沖駅7時40分発の電車を待つ。
この時間にしたのは、通勤時間帯が避けられるということが大きい。
また15両編成というのも魅力である。
上野駅まで30名超がほぼ確実に座っていけるのは嬉しい。


8時48分、終点の上野駅に到着。
数えると、この日は予想を超える35名が乗り合わせていたことが分かった。
『随分乗ってたんだねぇ』
京浜東北線に乗り換えるため4番ホームに向かう。


大井町駅で東急大井町線に乗り換えだ。


東急大井町線
自分も含めて今回が初めてという人がほとんどだった。


東急大井町線は、既に通勤時間帯は過ぎており、
大井町が始発ということもあって楽に座れた。


風邪? それとも花粉症対策?
この時期になるとマスク姿が目立ち、名前を思い出すのに苦労する。


10時ちょうど、スタート地点の等々力駅に到着。
『ようやく着いたのねっ』


駅舎の両脇すれすれを電車が走っているのは、珍しい(と思う)。


『直ぐ目の前を電車が走るってちょっとスリルがあるわねっ』


線路を渡ると等々力渓谷の案内図があった。
『等々力渓谷って駅から近いんだねっ』


10時5分、案内図に従って、最初の角を左折して等々力渓谷へ。


50mほど先を右折し、ゴルフ橋手前右手に等々力渓谷への入口があった。
渓谷に降りる石段が設置されている。


石段を下って行くと・・・


そこはもう等々力渓谷だった。
赤い橋桁のゴルフ橋が印象的である。
等々力渓谷公園の由来
等々力渓谷は、武蔵野台地の南端に位置する延長約1kmの渓谷です。
谷沢川が多摩川と合流する手前で、国分寺崖線を浸食してできました。
「等々力」の地名は、渓谷内にある「不動の滝」の音が響き渡り
「轟いた」ことからついた、との言い伝えがあります。
(世田谷区 あなたのまちの郵便局)


渓谷に沿って歩道が整備されている。
川はほとんど流れていないが、水はそれほど汚れてはいない。
きれいな部類に入るだろう。


後ろを振り返るとゴルフ橋が見える。
『都会のど真ん中にこんな渓谷があるって信じられないよねっ』
大方の皆さんの感想ではなかろうか。


鴨の姿もあった。
頭を川底に突っ込んでしきりに餌を啄んでいた。


『いやぁ なかなか良い所だよねっ』


橋を渡って対岸へ。


しばらく進むと環状八号線が見えてきた。


10時14分、環状八号線下を潜る。
『この川、矢沢川って言うんだ』


矢沢川に沿って少し進むと、


野毛大塚古墳への案内表示があったので階段を上る。


住宅地の中を野毛町公園へ。


いったん環状八号線に出て、環八に沿って100mほど進むと、


玉川野毛町公園があった。
目指す野毛大津古墳は、左側、野球場のバックネット裏にある。


野球場のフェンス脇を進むと・・・


10時24分、野毛大塚古墳に到着した。
『見た感じは円墳みたいだねっ』


皆さんの後を追って古墳の頂上へ。


頂上に着くと、皆さん何やら覗き込んでいる。


古墳から出土した跡の図だった。
第1・第2・第3・第4主体部の出土品とその全体図である。


古墳の頂上には、出土した品とその配置が丁寧に描かれていた。
第1主体部


第3主体部


第4主体部


塚の上から周りを見ると、前方部のようなものが見える。
野毛大塚古墳は、単なる円墳ではなく、前方後円墳だったのだ。


周りの景色


野毛大塚古墳を下りる。


野毛大塚古墳の説明板があった。
野毛大塚古墳は全長82m、後円部の高さ10mの帆立貝式の前方後円墳で、
前方部に近接して小さな造出部が付設されている。
墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は104mである。
三段に構築された墳丘は全体が川原石で覆われ、
円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。
後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、
南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱型木管が納められている。
割竹形木棺からは甲冑、刀剣、鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌、
銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛などが、
箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造品などが、
二基の箱型木棺からは、刀剣、鉄鏃、鉄鎌、石製模造品、玉類などが
それぞれ出土している。
野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する五世紀前半に
築造された古墳である。
出土した多量の武器・武具類や石製模造品は、この古墳が南武蔵の
有力な首長墓であることを示している。
(東京都教育委員会)


前方部から後円部を見上げたところ。


古墳の周りをぐるりと廻って、


野毛大塚古墳を後にした。


環状八号線を戻り、


階段を下って、


10時40分、再び等々力渓谷へ。
左に見えるのは潜水橋(沈下橋)である。


潜水橋の先の小橋を渡り、


少し戻るような形で進むと、


3号横穴の説明があった。


等々力渓谷の周辺では、野毛大塚、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、
古墳時代から奈良時代(7~8世紀)にかけて横穴が造られるようになった。
等々力渓谷の横穴群は、野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに
3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っている。
3号横穴は、谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、
玄室と羨道で構成されている。
泥岩の切石で塞がれた玄室の床には川原石が敷かれ、3体の人骨とともに
1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていた。
(世田谷教育委員会)


3号横穴を覗き込むOさん。


3号横穴の中の様子
玄室に川原石が敷き詰められているのが分かる。
ここで3体の人骨と1対の耳環(イヤリング)と土器が発掘されたのだ。


3号横穴の近くには1号横穴跡や


2号横穴跡の石標が建てられている。


小橋を渡り、再び等々力渓谷の歩道へ戻る。


10時59分、稚児大師御影堂に到着


入口にこの御影堂の建立の案内を記した石板が設置してある。
弘法大師御誕生 一千二百年記念
慶讃大法要 昭和50年4月6日 奉修
稚児大師尊像 制作 芸術院会員 清水多嘉示
堂宇 設計 畠山博茂
慶讃大法要大導師 満願寺第二十六世 龍文


稚児大師像
稚児大師とは弘法大師の幼い時の呼び名である。
おかっぱ頭の少女のようにも見える。


稚児大師御影堂の近くに稲荷堂へ通じる利剣の橋がある。


利剣の橋を渡ったところに弘法大師と観音様の像が建立されている。
参拝記念にと寄付されたものらしい。


稲荷堂の手前右手に小さな湧水滝があった。


龍の口から湧水が流れ落ちている。
これが等々力不動尊発祥のもととなった不動の瀧と言うらしい。


滝の上には、不動明王像があり、睨みを利かせているようにも見えた。


不動の瀧の先に南無不動明王の旗が立つ稲荷堂があり、


ご本尊の不動明王が祀られていた。


稲荷堂を後にして、等々力不動尊への階段を上る。
かなり急な階段である。


等々力不動尊本堂への階段を登る途中、
左手に役の行者の神変窟があった。


石でしっかり覆われた小さな洞窟がある。
奥に鎮座されているのは、役の行者だろうか。


等々力不動尊の舞台を潜ると、


広い境内に出た。
線香の煙が立ちのぼる香閣とその先に不動尊拝殿がある。


11時4分、等々力不動尊の拝殿へ参拝。
等々力不動尊は、真言宗智山派の寺院で、等々力不動尊明王院と称する。
不動尊本堂は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)より
この地に移したと伝えられる。


本堂には、真ん中に銅鑼、両側には鈴のようなものがある。


見慣れない形をした鈴だが、風鈴のような澄み切った音色が境内に響いた。


山門から境内を見たところ。
山門には瀧轟山の扁額が掛っている。
等々力不動尊明王院は、瀧轟山と号し、等々力満願寺の別院である。


境内を一回りして、等々力渓谷に戻る。


日本庭園の「かぶき門」があった。


先頭Gは、日本庭園前を素通りして既に渓谷終点の矢川橋辺りまで進んだようだが・・・
(事前配布した地図には日本庭園は記載されていなかった)
せっかくなので手短かに日本庭園を廻ってみよう。


『毎日こんな庭を散歩できる人が羨ましいわねっ』


きれいに手入れされた孟宗竹の竹林
時間の都合上、日本庭園のほんの一部しか廻れなかったが、再訪の機会があれば、
書院や芝生広場、切通なども廻ってみたい。


11時20分、等々力渓谷の終点、矢川橋に到着。
この辺りは等々力渓谷からさほど離れていないが、最早渓谷の趣は全くない。


多摩川を目指して住宅地を進む。


丸子川に架かる天神橋を過ぎ、左に曲がると、


多摩川の堤防に出た。


『いやぁ これはなかなか素晴らしい眺めだ』


河川敷を進む。
河川敷に下りると風はほとんど受けなくなった。


右手前方に見える高層ビル群は武蔵小杉辺りか?


『河原を歩くのって、気持ちが良いわねっ』


『こんちわっ』 『こんちわっ』


多摩川の堤防にはところどころに桜の木が植えられている。
殆どの木は未だつぼみ以前の状態の中、突然三分咲き状態の木が現れたのにはびっくり。
『染井吉野にしては随分早すぎるよねっ』
『河津桜じゃないのっ?』


しかし、河津桜にしては、少し色が薄い感じがするが・・・


染井吉野にしろ河津桜にしろこの時期にこの場所で
桜を観ることができるとは予想外だった。
桜の木の前で一休みし、


ゴールの東急東横線多摩川駅を目指す。


グラウンドでは、若者たちがソフトボールの練習に励んでいた。


多摩川駅を目指す。


また別の場所でも桜が咲いていた。
やはり三分咲き状態である。
染井吉野の中の数本だけが突然早く咲くことは考え難いので、
やはりこれは河津桜なのだろう。


『この時期に桜が観れて良かったわねっ』
『もうちょっと満開状態だったら言うこと無しなんだけどねっ』


武蔵小杉駅周辺の高層ビル群が次第に近くに見えるようになった。


前方に東急東横線の鉄橋が見えてきた。


『ゴールの多摩川駅はもう直ぐのようねっ』


A球場横を通過
多摩川田園調布緑地には硬式野球用のグラウンドが2面存在しており、
このうち上流側にある硬式専用のA面が巨人が使用していた球場である。


B球場
下流側のB面は硬式・軟式兼用。
現在は草野球、少年野球などを中心に一般利用向けに供用されている。


12時21分、多摩川田園調布緑地の終点、河川敷の終わりだ。


堤防へ上がり、


信号を渡って左側の緩やかな坂道を上って行くと、


多摩川台公園への入口があった。
前方左右を繫いでいるのは虹橋と思われる。


階段を上る。
『最後になってきつい坂が待ってたんだぁ』


左側に7号墳・6号墳と古墳を見上げながら進む。


5号古墳の前に多摩川台古墳群の案内図があった。
多摩川台公園には大型前方後円墳の亀甲山古墳と、
8基の円墳からなる多摩川台古墳群の9基の古墳が並んでいる。
8号墳は、先ほど見えた虹橋を渡った反対側にある。


4号墳、


続けて3号墳横を通過。


2号墳の手前まで来ると、


突然視界が開け、多摩川が一望出来る場所に出た。
『あら~っ ここからの眺めはこの日一番だね~っ』


1号墳を過ぎると、


亀甲山(かめのこやま)古墳の説明板が現れた。
説明によると、
この古墳は、大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群中
最大の前方後円墳である。
発掘作業が行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことや
その古墳の形により、4世紀後半から5世紀前半ころの築造と考えられ、
当時この地方に勢力があった首長の墓と推定されている。
全長107m、前方部の長さ41m、高さ7m、後円部の直径66m、高さ10m。
都内の代表的古墳で、昭和3年に国の史跡に指定されている。
(大田区)


亀甲山古墳へ向かう。


武蔵小杉駅周辺の高層ビル群が目の前だ。


亀甲山古墳周辺はあいにく工事中だった。


工事中の通路を進んで行くと、多摩川駅が見えてきた。
亀甲山古墳は周囲に工事中の柵があって中には入れなかった。
(他に入口があったのかもしれないが、残念ながら見落としたようだ)


12時37分、ゴールの東急東横線多摩川駅に到着
この日は、ここで解散にしたが、横浜や渋谷に向かう人もいなかったため、
とりあえず品川駅まで行こうということに。


13時9分、JR大井町駅に到着。
弧の後、京浜東北線に乗り換え品川駅に向かった。
品川駅であらためて解散し、それぞれ好みの食事処へ。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


等々力渓谷とはどんな所なのか? TVで偶に見たことがある程度だったが、
都会のど真ん中にこのような渓谷があることに驚いた、と言うのが正直な感想である。

稚児大師御影堂・稲荷堂・等々力不動尊・日本庭園など見どころもあり、楽しめた。
野毛大塚古墳や多摩川台古墳群などを身近に見れたのも印象に残る。

都内の代表的古墳である亀甲山古墳は工事中のため見れなかったのは残念だった。
この日歩いた多摩川の堤防は桜の名所でもあるそうなので、
機会を見つけてもう一度訪れたいと思った。

この日の万歩計は、12,000歩を少し超えていた。

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