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ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第十回 (中山道)板橋宿~蕨宿

2016年02月28日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年2月28日(日)

ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所が比較的多いとされる宿場間を選んで歩いている。
ある街道の中から気に入った宿場間を選んで歩くというものである。

「旧街道を歩く」第十回目は、中山道の板橋宿~蕨宿間(約9.6Km)を歩いた。
日本橋~板橋宿間は、第一回目の2015年1月25日に歩いているので、その続きとなる。

この日のスタートは、板橋宿のため、日暮里から山手線に乗り換え、
さらに巣鴨から都営三田線に乗り換え、板橋区役所前で下車。
この日の参加者は5名とやや寂しい人数だ。


都営三田線板橋区役所前駅


首都高中央環状線に沿って少し戻り、板橋宿入口(江戸寄り)へ向かう。


9時10分、見覚えのある板橋宿平尾宿入口に到着。
板橋宿は江戸寄りから平尾宿・仲宿、「板橋」から京寄りを上宿と云う。
ここがこの日のスタート地だ。


不動通り商店街を進む。


9時13分、如意山観明寺に到着
観明寺は、真言宗豊山派の寺院で室町時代の創建と伝わる。


寺の境内に入って直ぐ左手に寛文元年(1661)の庚申塔がある。
青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古だそうで、
昭和58年度に板橋区の指定有形文化財となっている。


観明寺の赤門
加賀藩下屋敷から遷されたと云われる。
もと加賀屋敷の通用門だった。


この稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、
明治になって陸軍造幣廠が建設された際、観明寺に遷座された。


観明寺の本尊は正観世音菩薩
脇本尊は不動明王で、通称「出世不動」と呼ばれ親しまれている。


本堂前に聳える桜の大木は、板橋区の保存樹木である。
『桜が咲くと見事だろうなぁ』
あと1か月もすれば見頃になるだろう。


まん丸い顔をした六地蔵が目を引く。
『可愛らしいけど何だかお地蔵さまのありがたみが感じられないよねっ』


平尾町脇本陣の入口表示


細い路地を50mほど入って行くと、


「板橋宿平尾町脇本陣」の碑があった。
板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡で、豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねていた。
近藤勇が処刑されるまでの間ここに幽閉され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが
逗留したこともある、とのこと。


「板橋三丁目の縁宿広場」の中山道の宿場情報に見入る。
『中山道を全部歩くのは大変だよねっ』


「いたばし観光センター」で何か情報が得られるかも・・・


係の方が親切・丁寧に教えてくれた。
また、板橋のパンフをたくさんいただいた。


江戸時代から板橋宿の名所として名高かった初代の「縁切り榎」
榎は本来、縁結びの木として知られていたものが、板橋の榎は縁を切る木として、
特に離縁を願う女性たちの信仰対象となったのだと云う。


縁切り榎の図
『随分でかい木だったんだぁ』


前田家下屋敷の図
江戸時代に成立した参勤交代制度により、各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜された。
加賀藩前田家は本郷邸を上屋敷、駒込邸を中屋敷、板橋宿に面する平尾邸を下屋敷に定めている。
上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用された。
下屋敷の平尾邸は、約21万8千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、
江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷だった。
邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、
築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開していた。
その規模は本国金沢にある有名な大名庭園兼六園の約7倍の広さがある。
現在、平尾邸の面影は、わずかに加賀公園に残る築山の一部だけとなっている、とのこと。


王子新道で平尾宿が終わるが、その先には仲宿が続いている。


案内には、
これより仲宿商店街、日本橋より二里二十九町九間(十粁五十二米)と書かれていた。


仲宿商店街には、古い家も残っており、昔を偲ぶことが出来る。


日本橋からの距離を尺貫法で表示している和菓子屋。
なかなか粋で趣がある。


板橋宿本陣跡
旧中山道の板橋宿本陣跡の碑が、スーパー「ライフストア」手前の民家脇に立てられていた。
代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡である。
(うっかり見落としてしまい、「板橋」から引き返して撮った)


その向かいには、幕末の異国船打ち払い令を批判し、弾圧を受けた幕末の蘭学者、
高野長英をかくまったという彼の門人水村玄洞宅(現在は石神医院)がある。


10時13分、「板橋」に到着
「板橋」という地名の由来となった旧石神井川に架かる橋。
江戸時代の板橋は木造の太鼓橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)だった。


鎌倉から室町時代の古文書にすでにこの名が見え、江戸時代になると宿場の名となった。
板橋宿は江戸寄りから平尾宿・仲宿、そしてこの橋から京寄りを上宿と云い、
地誌「江戸名所図絵」ではこの橋の周辺が最も賑っていたらしい。


かつての石神井川は、南側に大きくV字状に回り込んでいたため、
昭和47年(1972)の河川改修で直線化し、新しい石神井川に造り替えられ、
現在は遊歩公園になっている。


新石神井川に架かる新しい「板橋」


現在の石神井川


交番の脇の角地に上宿の碑が建てられている。


板橋宿上宿の碑


旧中山道上宿を進む。


縁切り榎
嫁入りの際には縁が短くなることを恐れて、この木の下を通らなかったとか。
幕末、皇女和宮が中山道を下って将軍家茂に降嫁する折もこの榎を避けるように迂回路が造られた。
近代以降は難病との縁切という信仰も広がり、板橋宿の名所となっている。
現在の榎は三代目


榎の一部がコンクリで固められて保存されている。


縁切り榎の神様も祀られている。


10時24分、環七通りを通過。


環七通りを過ぎると商店街も終わり、高層マンションが目立つようになってきた。


首都高5号池袋線と合流し、


しばらく中山道(国道17号)を進むと、


10時44分、南蔵院に到着した。
南蔵院は、江戸時代初期に創建されたと伝わる真言宗智山派の寺院で、
八代将軍徳川吉宗の鷹狩りの際の御膳所(休憩所)だった。


境内には、六地蔵の他に、地蔵菩薩や、


地蔵堂がある。


境内の地蔵には、承応二年(1653)に旧蓮沼村の庚申講中の十人によって建立された、
板橋区内で確認されている203基の庚申塔の中でも二番目に古いとされる、
丸彫り地蔵の庚申地蔵(庚申塔)がある。
江戸時代に地蔵が庚申信仰の礼拝対象であったことを示す代表的な例としても貴重、
ということで、板橋区登録有形民俗文化財(信仰)に指定されている。


南蔵院は、真言宗智山派で、寶勝山蓮光寺と号する。(本尊は十一面観音)
たび重なる荒川の洪水のために、江戸期に坂下二丁目より現在地に移ったと伝えられている。


10時55分、中山道(国道17号)小豆沢バス停を通過。


11時3分、志村一里塚に到着
徳川家康は慶長九年(1604)に諸国の街道に一里塚の設置を命じた。
志村一里塚は、日本橋から数えて3番目の一里塚で、5間(約9m)四方、
高さ1丈(約4m)の塚が道を挟んで2基ずつ築かれた。


志村一里塚は、新中山道整備の際、周囲に石組がなされて保全され、今日に至っている。
都内で現存する一里塚は日光御成道にある西ヶ原一里塚とここだけ、だそうだ。
道路反対側の一里塚


志村一里塚を後にしてさらに進むと、清水坂の手前に富士大山道標と庚申塔がある。
中山道と富士大山道の分岐点に立ち、道標は寛政四年(1792)、庚申塔は安政七年(1860)に
それぞれ志村講中によって建立されたもの。


富士大山道標と庚申塔の先から中山道で最初の難所とされた急勾配である清水坂に入る。


日本橋を発って最初の難関がこの清水坂と云われた。
中山道で唯一富士山の姿を右手に一望できる名所でもあった。


今でもきれいに舗装されたこの板を上るのは息が切れるが、
荷駄を引く牛馬は大変な思いをしたと思われる。


坂の下には板橋と蕨を繫ぐ合の宿があり、茶屋などがあって、この先、
荒川を渡る戸田の渡しが増水で利用できない場合の溜まりの場所としていた。


埼京線線路を潜った先辺りが、合の宿があった所だ。
合の宿は、宿場と宿場のほぼ真ん中に位置する休憩を目的とする施設で、旅籠などの宿泊施設はなかった。、


埼京線線路の先で再び中山道(国道17号)へ合流。


中山道(国道17号)を横断し、反対側へ。


11時46分、三軒屋バス停を通過


11時51分、新河岸川を通過


荒川手前の船渡交差点を右折し、


埼京線・東北上越新幹線の下を通り抜け、150mほど先を左折すると、荒川土手が見える。


荒川土手に上がると・・・


12時6分、荒川だ。
戸田橋を渡ると埼玉県(戸田市)である。


右手の高層ビル群は川口市か?


土手に腰を下して一休み。
『いやぁ 天気が良くて気持ちが良いねぇ』


荒川土手に「戸田の渡し場」の碑が立っている。
荒川には、明治八年(1875)まで橋が無く、舟によって人や物資の運搬を行っていた。
洪水で利用できない時には、合の宿で待機したり、下流の奥州道中の千住大橋へ迂回することもあった。


「戸田の渡し場」は、戸田河岸と呼ばれ、荒川下流から塩・砂糖・雑貨がここで降ろされ、
大根や漬物などこの地の特産物などがここから積み込まれて下っていった物流の基地だった。
対岸の戸田村の名前をとって「戸田の渡し場」と呼ばれた。


12時27分、戸田橋を渡る。


新幹線・埼京線が頻繁に走り抜ける。


橋を渡り切った橋の袂に「歴史のみち 中山道」の案内があった。


案内に従って「歴史のみち」へ行ってみると、


案内されていた地蔵堂があった。
創立は不明だが、戸田市内最古の木造建造物とのこと。


地蔵堂の前に享保十六年(1731)銘が入った青面金剛像の庚申塔がある。
板橋宿の観明寺にあった庚申塔とよく似ている。


「歴史のみち」を進むと、


菖蒲川に突き当たった。
『うわっ 随分濁ってるねぇ』
『気分が悪くなりそうっ』
上流側は戸田競艇場に繋がっていると思われるが・・・


菖蒲川に架かる川岸橋を渡る。


中山道(国道17号)を一つ入った裏通りを歩いていたが、食べ物屋が見つからないので、


中山道(国道17号)に出てみると、幸楽苑があった。
時刻は間もなく13時になろうとしている。
『ラーメンでも食べて行こうっ!』で意見が一致。


この店のラーメンは早くて安いし、こういう時にはうってつけだ。


食事も終わり、再び蕨宿を目指す。


14時8分、蕨市に入った。


14時12分、木戸風の蕨宿標柱が現れた。
戸田の渡しで荒川を渡ってからの旧道は、大半が失われてしまっているが、
ここから先の蕨宿本陣までは、旧街道の面影が残されている。


日本橋から中山道全69宿場の浮世絵図が道の両側に描かれていた。


蕨市立歴史民俗資料館分館
かつて蕨市長だった金子吉衛夫妻没後、蕨市が譲り受け、2003年より一般公開された家屋敷。
(入館無料)


金子家は、明治時代に織物の買継商をしていた。
旧中山道と国道17号の間にあり、敷地面積は516坪と広い。


国道側は庭園になっている。


蕨市立歴史民俗資料館
蕨市の歴史と文化の特色である宿場および織物に関する情報を中心に展示している。
常設コーナー「街道と宿場」は見ておきたい。
(入館無料)


この庚申塔は、寛政四年(1792)に建てられたもので、
正面には青面金剛像・邪鬼・三猿が浮き彫りにされている。
板橋宿の観明寺と戸田の渡しの地蔵堂で見たものと同じだ。


旅籠の様子


江戸時代後期の蕨宿中心部の町並みを再現した模型。
本陣2軒と脇本陣1軒からなる宿場の様子が手に取るように分かる。
(手前が板橋宿方面)


本陣(岡田加兵衛家)の模型
蕨宿本陣は、岡田加兵衛家と岡田五郎兵衛家の2家が代々勤め、
宿場の中央に中山道を挟むように向かい合わせで建っていた。
両家とも門構え・玄関付の屋敷で、加兵衛家跡に蕨宿本陣跡の碑が立っている。


織物
江戸時代末期から、蕨では綿織物業が盛んになり、文政年間(1818~1830)塚越村の5代目高橋新五郎は、
青縞を織って江戸に売り出した。(以下略)


蕨市立歴史民俗資料館の隣に蕨宿本陣跡があった。


蕨宿本陣は、公家・大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には、御休息の場となり、
ついで、明治元年(1868)同三年には、明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。


蕨宿を利用した藩と禄高が展示されていた。
102万石の加賀金沢藩を筆頭に、尾張名古屋藩61万石、紀伊和歌山藩59万石と続き、
下野足利藩1万石まで、20の藩が利用したことになっている。


この日のゴールは、蕨宿本陣までのため、この後京浜東北線の蕨駅へ向かうことにした。
14時56分、蕨市役所前を通過。


JR蕨駅を目指す。


和楽備神社があったので、立寄ってみることに。


和楽備神社本殿
社伝によると、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、
渋川氏が蕨城築城の折、八幡神を祀ったのが最初とされる。


江戸時代には蕨八幡と呼ばれ、明治44年に町内18社を合祀して和楽備神社と改称した。
合祀後の神社名に、祭神名(八幡神)を取ることは、各集落とも承服しない状況であり、
蕨一字では尊厳味がないので、岡田健次郎元町長の知人本居豊穎に依頼し、
万葉仮名から取って、和樂備神社と命名した、とのこと。
本殿にお参りし、この日の無事を報告した。


JR京浜東北線蕨駅


15時23分、蕨駅改札口に到着
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


中山道の板橋宿~蕨宿間約9.6Kmを歩き終わった。
道中見どころもたくさんあり、良い天気に恵まれて一日楽しく歩くことが出来た。
今回でいったん中山道は終わるが、今後も面白そうな宿場を見つけて歩いてみたい。

この日の万歩計は、23,000歩を越えていた。

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特選街道を歩くⅠ 第九回 (青梅街道)新宿追分~荻窪宿

2016年01月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年1月24日(日)

昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで、歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、街道の中から選んだ宿間を歩くものである。

「旧街道を歩く」第九回は、青梅街道の新宿追分~荻窪宿間約9Kmを歩いた。

この日のスタート地は、新宿追分なので、新宿駅南口から東口へ向かうことにした。
参加者は自分も入れて6名である。


9時11分、追分に向けて出発!


『久しぶりだねっ』
新宿南口は、昨年(2015年)3月22日に甲州街道(日本橋~新宿)を歩いて以来なので記憶に新しい。


高島屋の前を通り、新宿南口から東口へ。


新宿四丁目の明治通りを横断。
マルイの先を左折して、


新宿二丁目交差点に到着。
この日のスタート地点である。


9時22分、新宿通りを新宿駅東口に向けて、出発!


新宿追分にある団子の老舗「追分だんご本舗」
串1本から買える、そうだがまだ開店していない。


新宿通りと目地通りの交差点のシンボルと言えば、やはり「伊勢丹」だろう。


「伊勢丹」の斜め向かいに新宿元標があった。
ここが、甲州街道と青梅街道の追分(分岐点)だったところだ。


新宿通り(旧青梅街道)を新宿駅東口方面へ。


ところどころに2日ほど前に降った雪が残っていた。
この日も寒いのでこのまま融けないかもしれない。


新宿駅東口方面へ。


近くにあった地図で最初の目的地、馬水槽を探す。
地図によると、直ぐ近くである。


新宿駅東口周辺を手分けして探すこと数分・・・


ようやく馬水槽を見つけた。
赤大理石製、前面の上部が馬用、下部が犬猫用の水飲み場になっている。
東京上水道の育ての親と云われる中嶋鋭司博士が明治34年に欧米諸国を視察した際に、
ロンドン水槽協会から東京市に寄付されたもの、である。


裏側が人のための水飲み場になっている。


新宿駅西口へ抜ける地下通路の入口に青梅街道の道標がある。


東口と西口を結ぶ通路の入口に旧青梅街道の案内がある。
旧青梅街道の歴史
そのむかし、徳川家康が江戸城普請の際に多摩郡から石灰を運ぶ為に開かれた「成木街道」が
その後に「青梅街道」になった、と案内されている。


また、ここが旧青梅街道の起点となる場所にあたる、とのこと。
新宿追分(新宿三丁目交差点)で甲州街道と分岐し、再度合流する山梨県甲府市山崎交差点が終点となる。
全長およそ167Km、と案内されている。


東口から西口への通路


『青梅街道の宿場名が並んでるよっ』


トンネルを抜けて西口に出ると、


思い出横丁が・・・
かつてはションベン横丁と呼ばれていた飲み屋街だったところだ。
何度か同僚と飲みに行ったことがある。


旧青梅街道の道標に従って進むと・・・


新宿駅西口に出た。
左手には小田急デパート・京王デパートが並んでいる。


旧青梅街道は道路を渡って真っ直ぐだ。


道路を渡って旧青梅街道を進む。


高層ビル街の道路は横断陸橋で渡る。


横断陸橋から見た高層ビル群


次の目的地「策の井跡」(むちのいあと)が、新宿Lタワービルの植栽にあるとあったので
新宿Lタワービル駐車場入り口辺りを探してみる。


10時ちょうど、新宿Lタワービルの植栽の中に策の井跡を見つけた。
この地は、尾張摂津下屋敷があった所で、東照公(徳川家康)が鷹狩りの帰途、
汚れた策を洗ったという伝承による。
現在は枯れてしまったが、江戸時代より名井として知られた、とのこと。


高層ビル群の谷間を青梅街道へ。


新宿警察署前を通過すると、


青梅街道に出た。
次の目的地である常円寺(日蓮宗)を探して路地を進んで行くと・・・


古ぼけたアパートのような建物があった。
既に廃屋となっている。


「ときわ荘」とあるが・・・


『これがあの有名な「ときわ荘」なのかしらねぇ?』
(後で調べたら、有名漫画家が住んでいたという「トキワ荘」とは全く別物だった)


常円寺は、通り過ぎてしまったようなので、「ときわ荘」近くの路地を進んで行くと、
次の目的地成子天神社が目の前に現れた。
少し近道をした感じである。
『路地を歩いて正解だったねっ』


成子天神社山門を潜ると、


菅原道真公ゆかりの牛の像が。
『何となく可愛らしい顔をしてるわねっ』


境内の神輿庫には立派な神輿が保管されていた。


成子天神社拝殿にお参りを済ませる。
学問の神様菅原道真公が祀られている。


山門を潜って参道を進むと鳥居がある。


鳥居の横に鳴子ウリ(マクワウリ)の案内板が・・・
成子天神社周辺は、御用畑としてマクワウリを栽培していて、明治に至るまで特産地として栄えていた。
この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれた。(概略)


長い参道を通って成子天神社の門を出ると、


新宿の高層ビル群が目の前に聳える。


旧青梅街道を進む。


淀橋交差点付近を通過


10時42分、淀橋に到着した。
「淀橋」の名は三代将軍徳川家光が名付けたと云われている。
古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「暇乞いの橋」と云われていた、そうだ。
この辺りで中野長者と云われていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、
他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込んだ。
九郎と橋を渡る時には見えた人が、帰る時には姿が見えなかったことから
その名が付いたと云われている。


江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた徳川家光は、この話を聞き、
『不吉な話でよくない。景色が淀川を想い出させるので、淀橋と改めるよう』に命じ、
これ以降、この名が定まったそうである。
流れているのは、神田川だ。


10時49分、東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅を通過


続いて山手通り交差点を横断


11時4分、明王山宝仙寺に到着。
宝仙寺は、平安後期の寛治年間(1087~94)、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰郷の途中の源義家が、
陣中に護持していた不動明王像を安置するために創建した、と伝わる。


宝仙寺境内


三重塔
寛永十三年に建立された塔が塔の山公園にあったが、戦災で焼失した。
平成4年に再建された三重塔は高さ約20m、飛鳥様式の純木造建築で、心柱は基檀まで貫通している。
塔内には大日如来を中心とした胎蔵界五佛が安置されている。(案内板より)


石臼塚
中野区と新宿区の境を流れる神田川には、江戸時代から水車が設けられ、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ、製粉の一大拠点となり、
中野から東京中のそば店に供給されたため、「中野そば」とまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は、道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て、宝仙寺住職が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、
境内に「石臼塚」を立てて供養した。(案内板より)


中野町役場跡碑
『中野区区役所の前身がここにあったんだねっ』


宝仙寺本堂


御影堂(みえどう)
弘法大師の御影、すなわちお姿を安置してある堂のこと。
安置されている弘法大師像は、座像で後背まで入れて高さ3mある、そうだ。


11時23分、中野消防署前を通過


11時25分、福王山慈眼寺(じげんじ)に到着
真言宗豊山派の寺院で、天文十三年(1544)の創建と伝えられる。
鐘楼がタイ風なのが印象的である。


鐘も小さい。


六地蔵
お地蔵さまは、私たちが六道輪廻の因縁によって地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の
いずれの道にあっても、それぞれに姿を変えて現れ、苦を取り除き幸福へと導いてくれる、というもの。


仏舎利塔
タイ国王立一級寺院ワットスラケットより請来された仏舎利が納められており、
在京のタイ人には、”東京で最初のタイ風仏舎利塔”と呼ばれ信仰を集めているそうだ。
慈眼寺の修補住職は、タイ国バンコク市にある国王立一級寺院ワットスラケットに法縁を得て
上座部仏教の戒律を授かり修行を続けてきた。
やがてワットスラケット寺院より仏舎利を託され、この仏舎利塔を建立した、とのこと。
以来、慈眼寺の法燈を受け継ぐ僧侶は真言宗の受戒・修行はもちろんのこと、合わせて
上座部仏教の受戒・修行を行うことが特色となっている、とのこと。


氷川堂
昔、慈眼寺は旧中野村氷川神社の別当職を兼ねていたが、明治政府の神仏分離令により、神社を政府に返還。
この江戸幕府から明治政府に移る揺籃の時代に、慈眼寺第十五代住職覺順和尚は「氷川坊さん」と呼ばれ、
皆からの信望も厚く、慕われていた。


お堂には、「氷川坊さん」として知られる、慈眼寺第十五代住職覺順法師が奉られている。


時計は11時30分をちょっと回ったところ。
少しばかりお腹が空いたので、茶菓子で凌ごう。


青梅街道鍋屋横丁辺り


鍋屋横丁
人通りはまあまあだが・・・


シャッターが閉まったままの店も多い。
『どこもそんなに楽じゃないんだねっ』


11時45分、中野通りを横断。


『古い家だねぇ』


こちらも古そうな家だが・・・


自動販売機が目障りである。
もう少し離れた場所に設置する配慮が欲しかった。


11時52分、北野神社(西町天神)に到着


北野神社拝殿
祭神は、菅原道真公とのこと。


西町天神公孫樹(銀杏)の大木
この大公孫樹は、江戸時代より聳え立つ大木であり、その威容は、東は追分・鍋屋横丁、
西は高円寺押出・金灯篭周辺から天空高く望見出来た。
また、近在農家の江戸稼業往還の目安、一般休息の場ともなっていた。
しかし、昭和54年10月の台風20号の被害を受け、根株もろとも倒伏した。
蘇生策として躯幹の大部分を切断せざるを得なかったが、地域の人々の努力と熱心な手当てにより、
今では銀杏の実が付くようになった。。(案内板より)


”昭和七年”の和の字が逆に彫られている。
野木偏のノもおかしい。
これはわざと彫ったものだと思われるが、その意図は???


道路反対側に「蚕糸の森記念公園」があったので、立寄ってみることにした。


蚕糸の森公園周辺地図で確認し、


蚕糸の森公園内へ。
明治44年に設置された農林水産省の蚕糸試験場が、昭和54年筑波に移転した跡地に造られた。


滝も造られている。


スズカケ(プラタナス)の大木
『プラタナスもこんな大木になっちゃうんだねっ』


旧守衛所が今は事務所として修復・保存されている。


蚕糸の森公園の正門
青梅街道に面した旧正門の門柱は、歴史を感じさせる。


これは普通の公園総合案内図だが・・・


何やら覗き込んでいるのは・・・


目の不自由な人のための点字の案内図である。
このような案内図を見たのは初めてだ。
さすが杉並区だと感心した。


蚕糸の森公園外れに一対の大きな青銅製の燈籠(常夜灯)が建てられていた。
妙法寺参道入口に建てられたもので、ここを左に入っていくと(600mほど先)妙法寺がある、
そうだが、立寄る時間はない。


12時17分、高円寺陸橋(環状七号線)を通過。


お腹が空いてきた
食べ物屋の看板がやたら目に付きだした。


今は一番混む時間帯なので、ここは我慢してパスしよう。


ここもパスだ。


12時25分、地下鉄新高円寺駅手前にある五日市街道追分(分岐点)を通過。
五日市街道は、ここから玉川上水沿いに五日市に通じる青梅街道の脇街道で、
五日市(現あきる野市)や檜村から江戸に木材や炭などを運ぶために整備された。


12時30分、清見寺(せいけんじ)に到着。


清見寺入口の地蔵菩薩堂にはお地蔵さんが安置されている。
馬橋村・阿佐ヶ谷村の村民が奉納した地蔵石像とのこと。


清見寺本堂
中野区成願寺の末寺で、江戸時代初期に開かれた曹洞宗の寺。
清見寺は、寛永初年(1624)に成願寺6世鉄叟雄鷟和尚が創建したと云われる。
明治末期頃から住職が鍼灸治療としていたと云われ、地元では「馬橋の灸寺」として知られる。


本堂前の3体の大きな石像が印象的である。


12時をかなり過ぎて(12時36分)しまった。
予定では、ゴールの荻窪駅周辺で昼食をと考えていたのだが、
このペースでは、荻窪駅まではもう少し時間がかかりそうなので、
適当な店があれば入ることにした。
とたんに適当な店がなかなか見つからなくなった。


12時56分、杉並郵便局前を通過


12時59分、杉並区役所の向いにお馴染の「大勝軒」があった。
『ここにしようっ!』


野菜ラーメン(700円)を注文。
野菜と言ってももやしだけだが、ボリュームはたっぷりである。


13時37分、昼食も終わり、後はゴールの荻窪駅を目指すだけである。


13時39分、杉並消防署前を通過


道路脇にはあちこちに雪が残っている。
新宿で見たものよりも多い感じだ。


天沼陸橋交差点で青梅街道とも分れ、荻窪駅へ向かう。


荻窪駅を目ざす。


荻窪駅が見えて来た。


13時56分、この日のゴール荻窪駅に到着した。
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


青梅街道の新宿追分~荻窪宿間約9Kmを歩き終わった。
見どころもそこそこにあり、楽しめた。
「ときわ荘」を見つけた時は、大いに喜んだが、有名漫画家が住んでいたと云われる「トキワ荘」とは
全く別物と分かり、がっかりした。
よく考えれば、朽ちたとは言え、当時のアパートが今でも残っているはずがないのだ。

この日の万歩計は、19,000歩を越えていた。

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特選街道を歩くⅠ 第八回 (中山道)藪原宿~贄川宿(2日目)

2015年10月26日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年10月26日(月)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
今回は、日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。
なお、旧東海道の三島宿から京都三条までは、別の機会を見つけて歩くことにしたい。

「旧街道(特選)」第八回は、中山道の藪原宿~奈良井宿~贄川宿(約20Km)を2日間かけて歩いた。

二日目
朝食が7時からなので、朝の散歩に出かけた。
歳をとると、目が覚めるのが早くなる、というのは本当である。
6時30分、辺りはまだ薄暗い。宿場町には人の姿は全く見えない。


奈良井宿の朝は寒かった。
資料とデジカメを持つ手がしばれる。
手袋を持って来なかったのを悔やんだ。
(宿でこの秋一番の冷え込みだったことを聞いた)


先ず、昨日行けなかった長泉寺へ。


玉龍山長泉寺の山門
曹洞宗の寺院である。


山門を入って直ぐ左に鐘楼が建っている。
力強く感じるのは、造りのせいだろうか?


三代将軍家光により宇治採茶使が制度化され、「お茶壺道中」が始まった。
毎年の茶壺は、必ず奈良井宿長泉寺に宿泊していた、と当時の記録がある、そうだ。
長泉寺には拝領の茶壺が残されている、とのこと。


女性陣も早朝散歩だ。
『う~っ 寒いっ』


続いて大宝寺へ。


大宝寺
天正十年(1582)、奈良井領主の奈良井義高が自らの菩提寺として開いたのが始まりとされる。


本堂と観音堂、嵯峨流の庭園の他、昭和七年に発見されたキリシタン禁制時代のマリア地蔵がある。
残念ながらマリア地蔵は見つけることが出来なかった。


7時になったので、宿に戻って朝食だ。


朝食は、9人全員揃って『いただきま~す』


出立しようとした時、「民宿かとう」のお婆さんが別れを告げに出てきた。
とても名残り惜しそうだった。


お爺さんも出てきたので、揃って記念撮影をしよう。
『また来てなぁ』
『いつまでも元気でねっ』


7時56分、贄川駅目指して、いざ出発!


先ずは、木曽の大橋へ行ってみることに。


公園の芝生には霜が降っているのがはっきりと分かる。


木曽の大橋
樹齢300年以上の木曽檜造りで、橋脚のない橋としては有数の大きさを誇る。


橋の中央付近は霜で真っ白だ。


橋の上から鳥居峠方面を望む。
朝日に映えて美しい。
『昨日はあの辺の峠を越えて来たんだねっ』


正面に聳える銀杏は、この方角から推察するに、法然寺か?


再び中央線のトンネルを潜って中山道へ戻る。


杉並木と二百地蔵へ


二百地蔵
聖観音・千手観音・如意輪観音などの観音様の石仏が合わせ祀られている、とのことだが、
顔・形などははっきりしない。
しかし、200体近い観音様の石仏が一か所に集まると圧巻である。
明治期の国道開削・鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められた、そうだ。


お堂の中にもいろんなお地蔵様・観音様が祀られていた。


中山道杉並木
この道は江戸時代に定められた中山道で、江戸時代初期の杉並木が残っている。


胸高直径50Cm以上、17本の老杉の巨木が、往時の街道の風情を偲ばせる。


八幡神社は、奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)


奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇拝された。


奈良井駅


奈良井駅舎内は、無人である。


8時40分、奈良井宿を後にして、中山道を贄川宿を目指す。
後方に見えるのは奈良井駅のホーム。


奈良井駅に、中津川行ワンマン電車が入って来た。
乗り降りする乗客はあまりいない。


中津川行が発車して直ぐ、松本行特急電車が通過した。


中央線に沿って直線の中山道を進む。


奈良井川の清流が太陽に反射して眩しい。


奈良井大橋の手前にある奈良井川橋歩道橋を渡り、


奈良井川に沿って進む。
車が通らないので安心だし、川の流れを観ながら爽快な気分である。


奈良井川に架かる鉄橋をちょうど電車が渡るところだ。
この時間帯は電車の本数も多い。


9時3分、木曽平沢宿入口付近を通過。
漆器の町に相応しい看板である。


ここから木曽平沢宿が始まる。


漆器店がずらりと並ぶ。
『漆器店だらけだねっ』


『漆器がたくさんだね~っ』


いろんな漆器製品が並べられていた。
これは、その一部だけと思われる。


『いやぁ こんなにたくさんの漆器店があるところとは知らなかったなぁ』
皆さん、異口同音に感嘆の言葉が続く。


『歴史を感じさせる店だよねっ』
木曽平沢宿が重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのも納得できる。


家並みの終わる辺り、右手斜め上の石段を上る。


諏訪神社があった。


境内には諏訪神社の象徴である四つの御柱が立てられていた。
下諏訪神社秋宮・春宮のよりは、低くて小さいが、立派な御柱である。


お参りを済ませ、諏訪神社を後にする。


9時28分、塩尻市楢川支所前辺りを通過。


平沢宿を過ぎた辺りの景色
これから一段と紅葉が進むのだろう。


道の駅「木曽ならかわ」が見えてきた。


9時38分、道の駅に併設されている、「木曽くらしの工芸館」中庭に到着。


「木曽くらしの工芸館」内部
いろんな漆器製品がきれいに並べられている。


信州産のワインや酒も販売している。
土産に買って帰りたかったが重くなるので諦めた。


道の駅「木曽ならかわ」
産直の「ならかわ市場」でもある。


土産物などの他に、


野菜や果物(りんご・ぶどう)が売られていた。


奈良井宿を発って2時間、ちょっぴりお腹も空いてきた。
皆で「しなのスイート」をガブリ!


『いやぁ ジューシーでパリッとして美味いっ』
土産に2個(1個は「秋映」で、どちらも1個380円)買った。
リュックが少しばかり重くなった。


国道19号を進む。
車の量が多い。


中央線も国道のすぐ横を走っている。


中山道は、長瀬で国道といったん分かれる。
贄川駅まで約3Kmほどだ。


10時21分、長瀬バス停辺りを通過


柿が鈴なりだ。
『いやぁ これは凄いわっ』
これだけたくさんの実が生っている柿は初めて見た。


『美味しそうっ』と思ったら、『渋柿だった』そうだ。


中央線を潜ると・・・


4本の御柱が寝かせて?あった。
”奉 麻衣廼神社(あさぎぬのじんじゃ)”と書かれている。
先ほどお参りした、木曽平沢の諏訪神社へ奉納される御柱ではないようだ。
(麻衣廼神社は、これから歩く贄川宿の神社である)


奈良井川を渡ると桃岡集落である。


押込の一里塚跡
桃岡地区は、江戸時代に押込村に属していたため「押込一里塚」と呼ばれた。
鉄道と国道19号線の敷設で昔の面影を留めてなく、片側の塚は現在畑になっている。


素戔嗚尊(すさのおのみこと)の扁額の鳥居は初めて見た。


街道の脇にひっそりと佇む馬頭観世音碑
花と栗が供えられていた。


国道19号に合流した。
中山道は、少しばかり網状の鉄板の上を歩くようになっている。


この先食事処がないかもしれないので、ここで蕎麦でも、と思ったが、
『まだ少し早すぎるんじゃない?』の声が・・・
時計は11時10分前、確かに早すぎる。
りんごも食べたことだし、ここは我慢だ。


次に現れた看板は、その名もずばり「食堂S.S」


しかし、「食堂S.S」は、開いているのかいないのか、はっきりしなかったため”パス”
『贄川の駅近くに何か食べる店くらいあるんじゃないっ?』
その言葉に期待したい。


国道19号を進む。


前方道路右側に贄川宿と書かれた案内標識が見えてきた。


贄川宿の入口手前に”贄川のトチ”の案内板があり、栃の大木が見えた。
推定樹齢千年とある。これは見ておいた方が良さそうだ。


近づいて見ると、その大きさは半端ない。
樹高33m、根元周囲17.6mと案内表示されていた。


今まで見てきた中で最大級の巨木である。
『いやぁ これはでかいわっ』
長野県の天然記念物に指定されている。


人と比べるとその大きさが分かる。
『何だかパワーをもらえそうだねっ』


国道19号を渡り、


跨線橋で中央線を跨ぐ。


贄川方面
『ここは単線なんだぁ』
鳥居峠のトンネル出口で見たのは複線だったが・・・


深澤家
行商を家業とした深澤家の屋号は加納屋。
その家は典型的な贄川の商家の姿を留めている。


主屋は街道に面し、背面に中庭、その奥に土蔵2棟が建っている。
国の重要文化財に指定されている。(非公開)


麻衣廼神社(あさぎぬのじんじゃ)の碑
実際の神社は、後方の山の中腹辺りにあるようだ。
(桃岡地区で見た4本の御柱はこの麻衣廼神社に納められる御柱だったのだ)


麻衣廼神社は、ここからは見えない。
手前に観音寺が見えるだけである。


中央線贄川駅方面


贄川関所は明治二年、福島関所とともに廃止され、建物も取り壊された。
現在の建物は、昭和51年、寛永四年の「覚」および明治九年発行「贄川村誌」の「古関図」を元に
忠実に復元されたもの。


内部には上番所・下番所・大名用座敷・中間部屋などがある。
贄川関所は福島関所の支所的な位置付けであった。
あいにく月曜日は休館日だった。(入館料300円)


贄川関所で説明板を見ている最中に、11時26分発の塩尻行電車が行ってしまった。
『あら~っ 行っちゃったぁ』
次の電車は13時35分までない。
2時間以上時間を潰すことになる。


とりあえず贄川駅へ向かう。
国道沿いの贄川宿の看板を通過。


11時43分、この日のゴール贄川駅に到着した。
奈良井宿から約3時間45分が経過していた。


駅前に蕎麦屋「関所亭」があったが、”準備中”で店はまだ開いていなかった。
主人と思しき人が自宅?に戻るところだったので、何とか”そば”を食べさせてもらえないか交渉。
出来れば次の電車に間に合わせて欲しい旨を説明。
最初は『ちょっと無理かも』と言っていたが、『何とかやってみます』と言い残して車で帰って行った。


ここは主人を信用して待つことにしよう。


12時を10分ほど過ぎて主人が戻ってきた。
これから準備すると言う。
蕎麦を打ってきたようだ。


出来るだけ手間がかからず、しかも早く出来るであろう、”もりそば”(600円x3)と
”たぬきそば”(650円x6)を注文。
おつりのいらないようにぴったりの料金を集めて待つことしばし。
”とんとんとんとん”と蕎麦を切ったり、湯を沸かしたりと、主人は一人でせわしなく動き回っている。
店の中で待つこと約30分、


最初に出てきたのはやはり”もりそば”だった。


『お先にいただきま~す』


10分ほど経って”たぬきそば”も出てきた。
これで、全員注文の品が出てきて、『いただきま~す』
電車の時刻まで充分な時間がある。主人に感謝である。
『ごちそうさまでした~っ』
『腰があって、とても美味しかったわっ』


贄川駅ホームで電車を待つ。
反対側のホーム入って来たのは中津川行である。


13時34分、塩尻行電車がやって来た。
時刻表どおりだ。


塩尻には、13時49分に到着。
塩尻13時56分発の特急「あさま20号」に乗り換える。


あさま20号車内
向い合わせに座ってひと時の旅気分を味わう。


車内販売がやって来た。
男性陣は迷うことなく缶ビールを注文。


『かんぱ~いっ』
『お疲れさんでしたぁ』


”中山道(藪原宿から贄川宿)歩き”の2日目も無事終わった。
2日目は、奈良井宿から贄川宿までの平坦な道で楽だった。

早朝の奈良井宿で、静けさのある宿場町の雰囲気を味わうことが出来たように思う。
しかし、この秋一番の冷え込みだったため、厳しい寒さの一端も同時に味わった。

1日目の夜、土浦からわざわざ合流してくれたI子さんの熱意には頭が下がる。
心からお礼を申し上げたい。

木曽平沢宿の漆器店の多さには正直言ってびっくりした。
かみさんとあらためて訪れてみたいと思った。
そのときは、気に入った箸やお椀を見つけることが出来るだろう。

2日間とも快晴で絶好のウォーキング日和に恵まれたことを感謝したい。

この日の万歩計は、19,000歩を越えていた。

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特選街道を歩くⅠ 第八回 (中山道)藪原宿~贄川宿(1日目)

2015年10月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年10月25日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
今回は、日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。
なお、旧東海道の三島宿から京都三条までは、別の機会を見つけて歩くことにしたい。

「旧街道(特選)を歩く」第八回は、中山道の藪原宿~奈良井宿~贄川宿(約20Km)を2日間かけて歩いた。

第一日目
新宿駅で駅弁を買い、8時ちょうど発の「あずさ5号」に乗車。


この日の参加者は、8名。
全員お互い向い合ってゆったりと座れた。
なお、I子さんは、奈良井宿の宿で合流することになっている。


10時31分、塩尻駅に到着。


塩尻から10時50分発の中津川行ワンマン電車(2両)に乗り換える。


中央線は、ガラガラだった。


まるで貸し切りである。
通勤通学時間帯も過ぎているので空いているのだ。


間もなくこの日のスタート地、藪原駅だ。
車内に料金が表示される。


11時26分、塩尻から30分ほどで、藪原駅に到着。


藪原駅に昔の旅姿をした女性がいた。
鳥居峠を越えて奈良井宿まで行くとのこと。
もう10年も続けているらしい。
仲間がカメラを向けると気軽に応じていた。


一緒に歩けるかと思っていたが・・・
その女性は、こちらの態勢が整う前に発ってしまった。
後を追ったが・・・


次第に離されてしまい、そのうち急に姿が見えなくなった。


『ここを入って行ったみたいだねっ』
そこには地下通路があった。


ここを通るとJR線路の下を潜って反対側の中山道に行けるようになっているのだ。


藪原宿の宿場町を進む。


旧式ポストの横に高札場跡の標柱が立てられていた。
高札場は、幕府や領主が定めた法度や掟書などを木の板札に書き、
人目を引くように高く掲げたものである。


11時39分、お六櫛の「萬壽屋」前を通過。
「萬壽屋」は、江戸時代からお六櫛問屋として店を構えている。
現在は、卸のほか、伝統のミネバリやツゲで作るお六櫛などの小売販売もしている。
ミネバリは、御嶽や駒ヶ岳の高知に生える落葉樹のこと


お六櫛を看板として掲げている店も見られる。


防火高塀跡
元禄八年(1695)、薮原宿のほとんどが焼失する大火があった。
その後の防火対策として、宿再建の際に各戸一間につき一寸の割合で提供しあって、
上横水と下横水の二箇所に四ッ辻の広小路を作った。
文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り、
石垣を築き、その上に高い土塀を造って防火壁とした。
これを高塀と呼んでいたという。(説明板)


宿の途中で、中山道は右に折れている。
藪原神社200m、鳥居峠2.2Kmと表示されている。


鳥居峠に向かう前に藪原神社へお参りして行こう。
真っ赤な一の鳥居、


続いて二の鳥居を潜ったその先に、


藪原神社の拝殿があった。
『今日も無事に歩けますように』


鳥居峠を目指す。
しばらく中央線の線路に沿って進む。


飛騨街道追分(分岐点)の標柱が立っていた。
藪原は中山道の宿駅として発達した。
この場所には、十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通ずる
飛騨街道(奈川道)の追分だった。(以下略)


追分を過ぎるとやや急な坂道が始まった。


湧き水で缶ビールを冷やしていた。
『ここじゃ誰も盗む人なんかいないんだろうねっ』


天降社の大モミジ
この大モミジは、胸高80Cmの巨木で秋の紅葉がたいへん美しく、
道行く人たちの目を楽しませている。(以下略)
『まさに今が見頃だよねっ』 


12時15分、鳥居峠まで1.6Km地点を通過
『お昼は峠辺りだねっ』


『こんにちわ~っ』
鳥居峠を越えてきた一団とすれ違った。


林の入口に黄と紅のコントラスト鮮やかな紅葉が・・・
『いやぁ きれいだなぁ』


12時22分、鳥居峠まで1.3Kmの地点。
杖置き場となっている。


杖置き場を過ぎると道は石畳みに変わった。


『良い天気ですねっ』
また、別の一団とすれ違った。
奈良井駅~藪原駅間は、ハイキングコースとしても人気があるようだ。


12時29分、鳥居峠まで1.1Kmのところの鳥居峠の説明板に見入る。
木曽郡の北東鉢盛山と木曽山脈の主峰駒ヶ岳との間を連立する山脈が、中山道によって
横断されるところが鳥居峠で、木曽路の北端楢川村と木祖村の境にある。
海抜1,197mの峻嶺で、木曽川と信濃川上流の奈良井川の分水嶺をなしている。
峠の東麓が楢川村奈良井で、西麓は木祖村藪原であり、頂上は木祖村に属し、
藪原駅から約3Km、奈良井駅から約3.6Kmある。(以下略)


『もう少しで頂上かしらっ?』


頂上への途中、「森林測候所跡地」の標識があったので、道を逸れて寄ってみることにした。


急な坂道を少し上ると「森林測候所跡地」に小さな小屋があった。
休憩所らしい。


小屋の戸を開けるて中に入ると、そこには藪原駅で会った旅姿の女性がいるではないか・・・
ここで、休憩していたようだ。


中には他に家族連れがいて、ちょっと狭かった。
『天気も良いし、ベンチもあるよっ』の声に外に出て広場の方へ。
「森林測候所跡地」である。


広場の周囲だけ真っ白いシラカバの木がたくさん生えていたのが印象に残る。


弁当を広げようとしていたところに、旅姿の女性がやって来て、
『写真を撮って欲しい』と自分のデジカメを差し出した。
彼女の写真を撮り終わり、ついでに記念撮影をお願いしたら、気軽に応じてくれた。
彼女とはここでお別れした。


テーブルで揃って弁当タイムだ。


この日の弁当は、新宿駅で買った”牛べん”(1,080円)である。


13時35分、弁当も終わり、再び鳥居峠を目指す。
鳥居峠の手前に丸山公園の案内標識があったので、丸山公園へ。


100mほど進むと、いろんな石碑が建てられていた。
松尾芭蕉の句碑
木曽の栃 うき世の人の 土産かな


月雪花の句碑
碑の頭部は欠けているが、建立時の記念句集から次の三句が読みとれる。
雪ならば 動きもせふに 山桜」 道元居
染め上し 山をみよとか 二度の月」 以雪庵
雪白し 夜はほのほのと あけの山」 雪香園


鳥居峠古戦場跡の碑
戦国時代の終わり頃、天文十八年(1549)と天正十年(1582)に木曽氏の軍勢が甲斐の武田軍を
この峠で迎え討ったことや、峠の様子などが書かれている。
藪原の「青木原」、奈良井の「葬り沢」など、時代を偲ぶ地名が記されている。
明治三十二年八月、木祖村の有志によって建立されたもの。


間もなく鳥居峠の筈だ。


13時50分、鳥居峠に到着した。
御嶽神社の鳥居が立っていた。
鳥居の笠木・貫が今にも落ちそうで危険なため、鳥居の下は通行禁止となっていた。
(実は峠はもう少し先の「峰の茶屋」だったことが後で分かった)


御嶽神社には御嶽山謡拝所があるらしい。
謡拝所へはロープ脇を通る回り道の細い道がある。


50mほど先に御嶽を謡拝する御嶽神社があった。
峠の名の由来となった神社とのことである。


『御嶽山見えるっ?』


遥か彼方に御嶽山が見えた。
『あれが御嶽山だねっ』


皆でしばらく御嶽山を眺めていた。
時折山頂左側に白い雲のような噴煙が見えたが、風に流され直ぐに見えなくなった。


鳥居峠の栃ノ木群は、木祖村の天然記念物になっている。


栃ノ木の古木”子産みの栃”


14時10分、「峰の茶屋」に到着
ここが鳥居峠(1,179m)だったことが後で分かった。


「峰の茶屋」から奈良井宿らしき家並みが見えた。
『奈良井宿みたいだねっ』


奈良井宿を目指す。


鳥居峠の一里塚跡碑があった。
鳥居峠は、標高1,197m、木曽川と奈良井川の分水嶺である。
江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町である奈良井宿と藪原宿の境をなし、
旅人には難所として知られていた。


戦国時代に木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から御嶽を謡拝し、戦勝を祈願した。
その功あって勝利を得ることが出来たので、峠に鳥居を建てた。
以来、この峠は「鳥居峠」と呼ばれるようになったと云う。
この一里塚は、古老の話や古地図、文献などによって「ほぼ この辺り」としたもの、とのこと。
『塚の跡がないのはそのためだったんだぁ』 納得である。


峠の所々に鮮やかな紅葉を観ることができた。
まさに今が見頃である。
『ほんと きれいだねっ』


奈良井宿を目指して峠を下る。


14時36分、「中の茶屋」に到着。


本沢自然探勝園「葬り沢」の説明に見入る。


「葬り沢」
天正十年(1582)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。
この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたと云われ、戦死者を葬った場として、葬り沢と呼ばれる。
『ここの戦で、事実上武田勢が滅びたんだぁ』


奈良井宿を目指す。


一部石畳の所を下ると、


舗装された道路に出た。


舗装道路を少しばかり歩いていると・・・


中央線の線路だ。
真下に線路が見えるということは、ここはトンネルの真上なのだ。


奈良井宿の町並みを見下ろす。
『奈良井宿は目の前だねっ』


楢川歴史民俗資料館
鎮神社境内にある史料館。
奈良井宿の生活にかかわる民具や祭礼用具、古文書など歴史資料を展示している。
また、宿札や蝋燭入れ・朱傘など、昔日の街道旅にまつわる品々を展示している、とのこと。


15時7分、鎮神社に到着。
元和元年(1615)、疫病が流行したため、上総国香取神宮から経津主神を勧請して祀っている。


鳥居の後ろにご神木の杉の大木がある。


鎮神社に無事到着したことを報告した。
鳥居峠へ向かう人も安全祈願をするという。


いよいよ奈良井宿である。


宿の入口近くに高札場があった。


当時と同じように高札が掲げられていた。


中村邸
奈良井宿の典型的な民家造りが今に残る。
江戸時代には漆櫛の問屋だった家で、間口が狭く奥に深い。
入口から土蔵のある中庭まで土間が通り、店・勝手・中の間・座敷と続く。
天保年代(1830~43)の建物で、資料館となっている。


鈎の手
道が大きく曲がっている。
鈎の手は妻籠宿でも見かけた。


鈎の手を曲がった右側にひっそりと佇む荒沢不動尊。


長泉寺入口付近
日暮れが早くあまり時間がないので、長泉寺は明日訪れることにした。


上問屋資料館
奈良井宿の上問屋は、慶長年間(1602)から明治維新まで270年間継続して問屋を勤めていた。
時には庄屋も兼務していた。
その永い間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示している、とのこと。


かなめや
そばとご飯に地元の山菜などを加えて煮込んだ、深い味わいの「そば雑炊」が売り。、
木曽は、信州の中でも有数のそばの産地である。
古い民家を利用した食事処で木曽の滋味を味わいたい、ところだが・・・
それはまた次の機会にしよう。。


伊勢屋
文政元年に建てられた当時は、下問屋も務めていたという老舗の旅籠。
昔のままの部屋で過ごすと江戸時代にタイムトリップした気分になる。
(予約しようとしたが、この日は満室だった)


本陣跡
今は駐車場になっている。


塗櫛の店松阪屋
寛政年間、お六櫛に漆を施したものが街道を行く旅人の評判になり、やがて江戸や京に出荷されるようになった。
松坂屋には今も工房で作られた塗櫛やお六櫛が各種ある。


徳利屋
かつて脇本陣を務めた原家は、屋号を徳利屋と云い、昭和10年代まで旅籠を営んでいた。
泉鏡花や島崎藤村、正岡子規も宿泊したという。
現在は食事処を併設している。生そば・五平餅が売り。


奈良井宿も次第に日が暮れてきた。


15時42分、この日の宿「民宿かとう」に到着した。


「民宿かとう」の玄関


二階から玄関を見たところ。


夕食は17時30分からになっている。
一風呂浴びた後、缶ビールで喉を潤す。
『お疲れさまでしたぁ』


『風呂上がりの一杯は、やっぱ美味しいねっ』


全員揃ったところで先ずは『かんぱ~いっ』
写真は隣り合わせた宿泊客に撮ってもらった。


二人は北九州市と北海道岩見沢市に住むお友達だそうで、
この日は名古屋で合流し、レンタカーで上高地へ向い、
周辺18Kmを歩いてきたとのことで、健脚である。
(写真は二人の同意を得て載せています)


この日の料理
夕食時にのる野菜はすべて自家農園で栽培。
お袋の味が自慢の家庭的なお宿である。
これに蕎麦が付く。


美味しい料理に話が弾む。
お隣さんともすっかり意気投合である。


いったん部屋に戻って話の続きでまた盛り上がる。


『ビールの後はお酒に限るねっ』


I子さん(中)も無事到着し、話に加わる。

『明日も頑張って歩きましょうっ』

”中山道(藪原宿から奈良井宿)歩き”の1日目が無事終わった。
藪原駅で見かけた旅姿の女性も無事歩き終えて家路に就いたことだろう。

中山道鳥居峠越えの道は、それほど険しい場所もなく、標識もしっかりとしていて、とても歩き易かった。
何よりも雲一つない快晴の天気に恵まれたことが、旅を楽しめた大きな要因である。
鳥居峠の景色も素晴らしく、街道の秋を存分に味わうことができた。

奈良井宿は”日本一の宿場町”と謳うだけあって、立寄り場所も見所も多い。
街道歩きが終わったら、別の機会にもう一度訪れてみたい。

明日は、奈良井宿から贄川宿・贄川駅を目指す。
明日も天気は良さそうだ。

この日の万歩計は、15,000歩に達していた。

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特選街道を歩くⅠ 第七回 (中山道)馬籠宿~妻籠宿(2日目)

2015年09月28日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年9月28日(月)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。

「旧街道(特選)」第七回は、中山道の落合川駅~落合宿~馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅間(約25Km)を
2日間かけて歩くというものである。
2日目のこの日は、馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅までを歩いた。

2日目の朝、「馬籠茶屋」の前から馬籠宿石屋坂を見る。
今日も良い天気、どんな景色に巡り会えるのか、楽しみである。


朝食は7時30分からとなっている。


『昨夜はお腹いっぱいだったけど、朝になるとまた食べれるもんだねぇ』


支払いを済ませ、8時18分、妻籠宿目指して出発だ。
ちなみに支払いは、夕食時のビールも入れて、平均9,000円ほどだった。
納得の料金である。


馬籠宿内を歩く。
店はまだ開いてない。人影は見えない。


展望台へ向かう。


展望台から馬籠宿方面を望む。


恵那山は雲に覆われていて山頂は見えない。
『昨日のうちに見ておいて良かったねっ』


”行き止り 回り道”の表示に従って妻籠宿へ向かう。
案内表示も英語併記、それだけ外国人が多いということだろう。


坂道を下ると、車道に合流した。
熊除けの鐘は、街道のあちこちに設けられている。


道路を横断し、10分ほど進むと、


また、道路に出た。
この辺りは、道路が街道を縫うように走っている。


古びた水車がゆっくりと回っていた。
ゆったりと時が流れるのを感じる。


中山道は、水車小屋を横に見ながら、梨子ノ木坂に続いていた。


梨子ノ木坂から7分ほど歩くと、「樹梨」という食事処があった。
”栗こわめし”が名物のようだが、まだ店は開いていないようだ。


さらに進むと、道端に蒸かしたさつま芋が1本100円で売られていた。
まだ腹は空いていなかったが、1本買ってみた。
Mさんと半分個して食べたが、甘くて美味かった、


9時17分、大きな木の下に木札が立っているのが目に入った。


十辺舎一九の狂歌碑だった。
木曽谷の名物、栗強飯を歌っている。
渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物


馬籠峠の近く、古い家が立ち並ぶ小さな集落を進む。


『けっこう古い家だよねぇ』
峠地区の集落のほぼ中央にある今井家住宅。
明治前期の建築というから、約130年~140年ほど前ということになる。
景観重要建造物に指定されている。


9時25分、熊野神社前を通過。
明治天皇が休憩された処でもある。


緩やかな坂道を上って行くと・・・


岐阜県と長野県との県境標識が見えてきた。
峠の先は、南木曽町である。


9時30分、馬籠峠に到着した。
この峠が馬籠宿と妻籠宿の境となる。
馬籠宿を出発して1時間10分が経過していた。
”栗おこわが有名”と紹介されていた「峠の茶屋」の戸は、固く閉まっていた。


馬籠峠頂上(801m)で一休み。


9時40分、妻籠宿目指して出発だ。
妻籠宿まで、5.5Kmと表示されている。


『やっぱ下りは楽で良いねぇ』
少し下ると石畳はなくなり、砂が敷き詰められた道になった。


『行き倒れの人の墓なのかねぇ』
左端の大きな石には「南無阿弥陀仏」の字が見える。


9時51分、一石栃立場茶屋に到着した。
この付近は、妻籠と馬籠の中間に位置し、往時は7軒ほどの家があって栄えていた。
今では牧野家住宅一軒のみが残っている。


中に入ると、牧野家の主人と思しき人がお茶を入れてくれた。
訊けばこここには住んではいないと言う。
麓の妻籠から通っているのだそうだ。


『お茶が美味しいねっ』
(寸志を忘れないところは、さすがKさん)


家の前の枝垂れ桜(撮影日:2013/5/1)


この日の枝垂れ桜
次に来る機会があれば、4月末から5月初旬が良さそうだ。


一石栃の白木改番所跡
木曽から移出される木材を取り締まるために設けられたもので、檜の小枝に至るまで、
許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重だったと言われている。


4.7Km先の妻籠宿を目指す。


檜の並木の中を進んで行くと・・・


さわらの大樹があった。
推定樹齢300年、胴回り5.5m、樹高41m、材積34㎥。
この木一本で約300個の風呂桶を作ることが出来る、そうである。
このさわらの下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっているが、このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)という。
昔から山の神(天狗)が腰掛けて休む場所と信じられており、傷つけたり切ったりすると祟られると言われていた。


10時20分、一石栃口の道標を通過。
距離は短いが石畳が敷かれていた。


妻籠宿への街道は、沢を渡り、


男埵(おたる)の国有林を進む。
中山道男埵山一帯は風致保護林に指定され、檜(ひのき)・椹(さわら)・明檜(あすひ)・高野槙・鼠子(ねずこ)の
いわゆる木曽の五木が、鬱蒼と生い茂っている。
これらの大木は、江戸時代は停止木として、明治になってからは官林、
さらに明治22年以降は御料林として保護されてきた。


崩れ易い箇所には、木道が敷かれているので安心して通れる。


10時36分、街道から少し逸れるが、雄滝・雌滝の案内があった。
戻ってきた人に訊くと滝まで数分とのことなので、行ってみることに。


中山道から逸れること4分、雄滝に到着した。
滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が残り、吉川英治「宮本武蔵」にも登場する滝。
滝の前に立つと、冷たい風が吹き付け真に爽快な気分。


雄滝の右手数十mのところには雌滝が豪快に流れ落ちている。
『滝まで見られたとは、最高だねっ』


中山道まで戻り、10時48分、再び妻籠宿を目指す。
妻籠宿まで3.2Kmだ。


若い外国人カップルが身軽な恰好で瞬く間に追い抜いていった。
バッグなどの大きな荷物は、希望する場所まで運ぶサービス業があるらしい。


大妻籠に近い茶屋のような民家前を通過


下り坂を下りて行くと、牛頭観音の説明板があった。


説明には、
石の多い急な坂道を思い荷物を運ぶため黒牛が利用された。
その黒牛の供養塔で、中山道に祀られた唯一の石仏である。
山の斜面に小さな牛頭観音が安置されていた。


N.Yから来たという男性。
8週間の休暇をもらって日本を旅しているそうだ。
奥さん(山口県出身の日本人)は、N.Yで働いているとのこと。


漬け込んだクルミを取り出し、


水車でクルミを洗うのだそうだ。


大妻籠の民家が静かに佇んでいる。
以前見た妻籠宿によく似た風景である。


11時24分、大妻籠の看板に到着。
『立派な旅籠だよねっ』


大妻籠の家並みを抜け、妻籠宿へ向かう。


道標
”右志ん道”、”左旧道つまご”と刻まれている。


田んぼがあるのどかな旧街道


『美味そうな柿だなぁ』
実りの秋である。


広い駐車場に出た。
この日は月曜日、車は殆ど止まっていなかった。


11時44分、駐車場脇の「妻籠宿」のでっかい看板が迎えてくれた。


妻籠宿の街並み入口


妻籠宿入口を入ると、右手に古い旅籠「八起」があったが、戸は閉じたままだった。


11時50分、関西電力妻籠発電所を通過。
妻籠宿の景観に合わせた木製の黒い塀に囲まれ、建物や鉄塔類も茶系の景観色が施されている。


妻籠宿の街並みを歩く。


妻籠宿
江戸時代にタイムスリップしたような気分だ。


妻籠宿の中央付近で道が2手に分かれている。
左が旧道である。


2手に分かれた道の右側に延命地蔵がある。
享保十年(1725)の書上げには「地蔵堂」と記されている。
堂内には直径が2mほどもある自然石が安置されている。
この延命岩を別名汗かき地蔵という。


左側が順路と案内されている。
屋根の上に重石が載せられているのが印象的である。


道は大きく右に曲がっている。
江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされ整備され、
宿場の出入り口には必ず桝形が設けられた。
宿場の桝形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が侵入し難いようにしたものである。


桝形のところで延命地蔵堂で2手に分かれた道に合流した。


天然記念物のギンモクセイがあるというので、坂道を上る。
キンモクセイの良い香りの先に、


「妻籠のギンモクセイ」の巨木があった。
案内によると、
栽培した巨木で知られているのは、広島県に2本、大阪府・愛媛県・石川県・和歌山県に各1本で、
ここのものは最も東寄りのものであり、太さからいっても和歌山県のものに比べて優劣がない。
地上30mで、周囲1m91Cm、高さ8m、とのこと。


妻籠のギンモクセイ
『いやぁ これは立派だわっ』


真っ白な花をつけるギンモクセイは、開花するとほのかな香りを放つ。
9月中旬から10月上旬が見頃と言うからまさに今である。


昼飯前に妻籠観光案内所へ。


9人分の「完歩証明書」に押印してもらい、皆さんに手渡した。
『やったねって感じよねっ』


12時26分、観光案内所からほど近い、「俵屋」で昼食にしよう。
「俵屋」の建物は、初代の妻籠郵便局として長年親しまれてきた、そうだ。
俵屋名物の五幣餅は、昭和52年9月12日、天皇・皇后両陛下が妻籠宿行啓の折に召し上がられたそうである。


『お疲れさまでしたっ』


全員、五幣餅と、


ざる蕎麦のセット(1,000円)を注文した。


『お腹が空いてたから美味しいっ』
『五幣餅も美味しかったぁ』


妻籠宿本陣
本陣は島崎藤村の母の生家、江戸時代後期の間取り図を基に建物が復元された。


脇本陣奥谷
屋号を奥谷という林家は、代々脇本陣を務めた家。
現在の建物は、明治時代に建て替えたもの。
江戸期には禁木であった木曽檜がふんだんに使われている。


道端に大釜が展示?されていた。
手作りの味噌作りで大豆を煮たもの、である。


妻籠宿内を進む。


月曜日だからか、観光客はそれほど多くない。


妻籠宿内を進む。


目指す南木曽駅は右側の道だ。


南木曽駅へ向かう。


12時55分、口留番所跡を通過
江戸時代初期、この辺りに口留番所があって、中山道を行く人々を監視していた。


妻籠宿の外れの旅籠「大吉」


南木曽駅まで3.2Kmとある。
今13時1分なので、14時過ぎには到着するだろう。


南木曽駅まで下りだけかと思ったら上り坂もあった。


県史跡妻籠城跡
妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推測される。
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、慶長五年(1600)の関が原の戦いの時も、
軍勢がここを固めたが、元和二年(1616)には廃城となった。
妻籠城は、典型的な山城で、空堀・帯回輪、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁という土塁も備えており、
規模の大きな構えであった。


13時16分、蛇石(へんびいし)脇を通過
中世の中山道は、ここから沢沿いに上っていたが、元禄十六年(1703)に道の付け替え工事が行われて、
妻籠城総堀を通る現在の道になった、とのこと。


蛇石の道標
”右つまご宿、左志ん道下り道”と読み取ることが出来る。


南木曽駅へ向かう。


砂防ダム工事が行われていた。
昨年(2014年7月9日)発生した台風8号による土石流災害の復旧工事と思われる。
一日も早い工事完成を祈りたい。


良寛碑
木曽路にて
この暮の もの悲しきにわかくさの 妻よびたてて 子壮鹿鳴くも
この歌は手まり上人と言われた良寛が、木曽路を通った折に詠まれた二首の内の一首、とあるが、
あいにく良寛の碑は、見つけられなかった。


上久保の一里塚
木曽町内には、十二兼・金知屋・上久保・下り谷の4ヵ所に一里塚があったが、
現在原形をとどめているのはここだけである。両塚とも現存する。
江戸から数えて78里目の塚である。(80里目という説もある)


せん澤道標
”左なきそ駅へ 下り国道へ 右妻籠宿へ”が刻まれている。


13時32分、南木曽駅へ1.3Km地点を通過


13時35分、かぶと観音に到着


木曽義仲が兜の中に納めていた、十一面観音を祀っている。


境内にはお堂の他に


義仲の「袖振り松の水舟」がある。
義仲が弓を射るのに邪魔となった松を巴御前が袖を振り、なぎ払ったと云われる「袖振りの松」は、
松喰虫の被害により平成21年に伐採された。
松は、長さ約7mという通常の倍以上の大きさがある水舟に生まれ変わった、とのこと。


観音様の前で、最後の休憩を摂り、


南木曽駅へ向かう。


南木曽の街並みが見えてきた。


小さな公園にSL-D51が展示されていた。
昭和15年12月23日に日立製作所笠戸工場で製造され、福井機関区を始め、金沢・富山・新庄・横手各機関区を経て、
昭和46年10月5日に木曽福島機関区に配置されたものである。
総走行距離は、2,141,417Kmとあるから地球45周にも及ぶ。


中央本線の線路を横に見ながら南木曽駅を目指す。


14時8分、ゴールの南木曽駅に到着。
思った以上に立派な駅舎である。


南木曽駅の真ん前に土産物店があった。
そこで、冷えた缶ビールを買い、


駅の待合室で祝杯を上げる。


14時41分、中津川行電車がやってきた。


『天気に恵まれて良かったわね~っ』
『「完歩証明書」もいただいて、ほんと最高だったねっ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧街道を歩く(特選)」第七回目 中山道(落合宿~馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅)を無事歩き終えた。
馬籠宿、妻籠宿という中山道のなかでも最も人気があると云われる両宿間を歩き、「完歩証明書」を
貰えたのは、良い思い出になる。

両宿間は外国人にも人気が高いそうだが、なるほどと頷ける。
案内標識が全て英語と韓国語で書かれている点と、トイレが充実している点である。
街道のあちこちにきれいな洋式水洗トイレが整備されているのには、感心した。
宿泊した宿(馬籠茶屋)も全て洋式トイレだった。
安心して歩けるし、泊まれるというものだろう。

次回(11月)は、藪原宿~奈良井宿~贄川宿を計画している。
天気に恵まれることを祈るばかりである。

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