年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

吹嶋剣(福島県)

2011年10月16日 | 福神漬
驥尾団子 第227号 明治16年3月14日号
吹嶋剣
東国にある大剣である。今の所有主はみしま否(見たことが無い)仕舞い込んだままでこの世に通用(ツウヨウ)すればよいのに,近頃はこの大剣(大権)をもって脅し付け自由刀や改進刀を片っ端から絡め上げ(投獄すること)続々東京の本店へ送る。またこの大剣に吏剣(官吏)という小柄(こずか=今のナイフにあたる)が沢山あり、これを以って無知の農民を脅迫し民剣(民権)を圧倒し(圧迫)、一村の家財をわずか800円余でセリ売り(競売)した所もあるという恐ろしき大剣である。

明治16年・福島県令三島通庸はみしまツウヨウとも言われていた。この文が掲載されていた頃はほぼ毎週に近く、若き投書少年長井総太郎(鶯亭金升)は色々なペンネームで團團珍聞く・驥尾団子に投書していた。また同時期に梅亭金鵞が梅亭化生で戯作を驥尾団子に掲載していた。

福島事件の高等法院では裁判の最も争点となったのは圧制・専制政府を転覆するという文章だった。この転覆から天福となり、原胤昭の天福六歌撰の浮世絵配布につながる。
 明治大正の芸能記者であった鶯亭金升は福神漬命名時のエピソードを大手町の三菱商事の会議室で日本缶詰協会の会合があった時話したのは様々な経緯があったからと思われる。福神漬の福には福島県、中に入っているなた豆(刃豆)も寓意を表していると思う。
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どっきりキュウリ

2011年10月15日 | 築地市場にて
10月10日に東京都からキュウリ回収の情報があった。東京市場に出回っているので回収するよう要請があった。よく読むと農薬など過剰であったという。今放射能に消費者が過剰とも言えるくらい反応しているので、よく説明して回収しないと放射能関係で回収していると思われる。世田谷でも騒動があった。ラジウムということで一件落着となったようであるが続々と今後も高数値の放射能が検知され、人々を不安にさせる。
 会社内でも放射能検知器の導入を考えたが、もし数値が出た時の社会的ルールが確立されていない現状では人を不安にするか数値隠しの問題が生じる。横浜で異常な数値を検出したマンションは風評被害で不動産価格が下落するおそれがある。しっかり調べて恐れるしかない。
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南都諸白から

2011年10月14日 | 趣味としての漬物
兵庫県伊丹市史を読んでいたら清酒の変遷が書いてあった。南都諸白(なんともろはく)から伊丹へ、幕末には灘へ上級の酒の地位が移っていたという。日本酒は奈良(南都)の寺院で清酒となった。それまでの濁っていた酒から清い透明な酒となった。南都諸白から酒を搾り出した後の粕から作った漬物が奈良漬となる。今では戦国時代には奈良が酒の名産地であった事は一部の人をのぞくと知られていない。

伊丹は今では空港で知られているが元々酒造業で発展した町であることがわかる。酒造には付随して酒樽製造業、酒を運ぶ輸送業(馬借・水運業)との問題が生じる。更に酒の価格変動とかコメの問題から酒製造制限とか色々な問題が生じていたことが伊丹市史から読み取れる。
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塩業資料室から

2011年10月13日 | 福神漬
水曜日の市場休の時は普段訪問できない資料探しとなる。塩に関する15000冊の書籍を所蔵しているという塩業資料室を訪問した。昔は都内にあった(六本木?)のだが今は神奈川県小田原市酒匂の海岸付近に移転した。東京から当地までいって塩に関する資料を探す人は稀らしい。資料室のあるところを所有しているのが財団法人塩事業センターで海水総合研究所の建物の中にある。聞き損なったのだがこの多分今は海水の汚染を調べているだろう。
 資料室を訪問する前日に電話を入れ、調査の内容を伝える。「行徳塩業と浦賀奉行所との関係」と伝える。電話にでたYさんの話だと行徳塩業の資料はありそうだが浦賀奉行との関係の資料はなさそうであると言っていた。現地まで行って資料がないことは度々あるので一応有りそうな書籍を検索し、取り出してもらった。その中の一冊に日本食塩販売史によると幕末浦賀奉行所を通過した瀬戸内塩はニガリ分の多い差塩で行徳の真塩と比べて関東では好まれていなかったという。その理由としてニガリが出た分目方が減るということであった。そこで行徳で加工して真塩にして販売したという。ニガリ分の多い塩の需要者は漬物製造者であったという。嘉永年間の資料には行徳伊勢宿喜兵衛という文献があった。やっと浦賀と行徳喜兵衛の接点が見つかった。
 嘉永年間問屋組織の再興の動きで、中島三郎助と浦賀塩問屋の間で色々な折衝があった。漬物用の塩として瀬戸内の差塩を使用していた行徳喜兵衛と浦賀の塩問屋は接触があったと思われる。
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ひさしぶりの午前1時出勤

2011年10月12日 | 築地市場にて
急病人のため久しぶりに午前1時過ぎの出勤となる。前回は震災前なので比較すると築地は元気がない。最も水曜日はヒマなせいかもしれない。東京都から来るメールのチェックをする。このところセシウム検出の農産物はキノコ類が多い。気になるのは静岡でも乾燥シイタケから基準値を超すセシウムが検出されたという。この分だと関西まで汚染が行っているのでは無いのだろうか。秋田のフリーマガジンAG18号という雑誌では大阪の方が東京より地上1Mの数値が高い。
 東南アジア諸国での水害報道は今一番気になる。特にタイの水害の被害は車生産にかなりの影響が出たようである。浅漬け茄子はタイから輸入されているのがあるのでどうなる事やら。水産物畜産物加工等もタイからかなり来ているので影響が出るかもしれない。このところの自然災害は想定外の事象が多い気がする。
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なた豆の比喩

2011年10月11日 | 福神漬
驥尾団子 第221号 明治16年1月31日
自由刀(じゆうとう)
これは個人の所有物であったがいつの間にかその存在を失い、忘れた。渡来してきた西洋人が日本人の中にも所有していると聞き、明治5~6年頃から詮索し、ついに探しだしたものである。この刀は古今無二の宝刀で、これを身に付ければその剣利(権利)のために天下の妖魔(明治政府)は首を縮めておののき、尊い天皇もみだりに奪うことはできない。この様な重要な刀(党)を持って近頃全国の有識者はこの刀を大切にすること神のようである。しかし間々この刀を乱用し、愚民を扇動する者あり、監守人はよく注意して、刀の価値を落とすことがないように注意すべし。明治23年になれば、いくらの値に上がるか見当もつかない。
改進刀
この刀も自由刀と同名異物であるがこれもまた貴重な宝刀でその製品は自由刀より立派で世間は希望している。この貴重な刀も気に入らない人達にとっては二束三文の値打ちもないと言いふらし、自己の鈍刀を売りつけようとするのは見苦しい。仮にどんな声価となっても縁の下の力持ちとどうして違うことがあるのだろうか。ただ23年の共進会を待って審査官(国民)の鑑定を待つべし。
帝政刀
この刀は装飾の飾りや鉄まで、外観は名刀のように見えるが、手にとってよく観察すれば皆鈍刀でようやく外観を保護する金で付け焼刃し、光っている。しかし元来偽物で金がなくなるとサビが出てきて、次第に菜切り包丁のようになってしまう。世間の欲張り連中向きの刀で、立派な方はこの刀に手を出すな。

やっと團團珍聞のところに「刀」と福島事件と関連がありそうな比喩があった。この221号には総多楼昌安(鶯亭金升=16歳)の投書が載っていて、さらに梅亭化生(梅亭金鵞)の戯作が載っている。
刀はなた豆(刀豆)に通じる。福神漬になた豆が当初から入っていて比喩に影響を与えたと思われる。
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築地はまだ暗い

2011年10月10日 | 築地市場にて
強制節電明けで明るくなっても良い築地市場は相変わらず節電していて全般的に暗い。市場内の信用金庫も暗過ぎて気分も暗くなる。支店長にクレームをつける。今年の経験から蛍光灯を消した事より、エアコンの設定温度を上げたほうが良いようだ。もちろん築地市場の一番の電力使用時間は午前11時頃なので、扇風機もかなり役に立つ。
 本来なら半年も経っているので築地市場内の寿司屋の行列も復活するはずだがまだ行列が長くならない。この連休で震災で破壊された建物を修復している工事が目立つ。

 ヒマなので京橋図書館から借りた伊丹市史を読む。伊丹の酒造業が幕末明治の混乱期にどう対処したかを調べる。小西利右衛門なぜ南茅場町18の土地を三菱に売ったのだろうか。
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元は川だった?

2011年10月09日 | 築地市場にて
築地市場と場外市場との間には江戸時代から川があった。もっとも川と言っても殆ど流れていなくて潮の満ち引きによる方が多かった気がする。築地市場の車が増えることで徐々に埋め立てられ今ではほぼ消えてしまった。しかし道路が盛り上がった所には橋の名残があって小田原橋とか海幸橋という呼称が残っている。橋とも言えない橋が荷物の運搬の目安となっている事はあまり知られていない。新市場にはしっかりとした位置を表示する名称がほしい。
 マグロ通り、コイ通り、ウナギ通り等はどうだろうか。青果はやっぱり大根通り、ミカン通りだろう。江戸時代からの大根河岸、練馬大根。紀伊国屋文左衛門のミカンだろう。青果部には築地バナナがあって、意外とバナナとなるかもしれない。
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原料産地の変更

2011年10月08日 | 築地市場にて
ある茄子の浅漬を作っているメーカーより原料産地の変更(国産から韓国産)の案内がきた。先月日本にきた台風とそのあとの寒気で茄子の生育が悪く,青果市場では高価格で取引されているので浅漬漬物のような加工度の少ない漬物は値上げが出来ず、大幅な損失となる。茄子の産地は韓国でウオン安の影響と近距離であるため、鮮度も日本産とあまり変わらない。漬物原料の野菜は政府の保護も無いので自立するしかない。なし崩しの農産物の輸入自由化は意外と漬物から始まったとも言える。
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ジョブス氏の死去から

2011年10月07日 | 築地市場にて
消費者の欲しいものを知っていた人
日本の技術者はその技術に熟知しているため、過度に独自性を求めるようになる。スティーブ・ジョブスは一時解雇され業界の異なる世界に身をおいた。その時の経験が使う人の目線から考えた携帯電話IPhoneを創造したと思う。今の日本では一度失脚した人は再復活することは難しい。ただ築地市場の関係者は比較的再復活することができる職場の一つかもしれない。
物が余っていて、捨てることを考えてから購入することを考える時代に金を使わせる商品を開発するには失脚も必要かもしれない。

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谷中墓地より

2011年10月06日 | 築地市場にて
そろそろ谷中墓地の幽霊より、こちらに来ませんかとお誘いの声がかかってきた。まだ調べることがあるのでもう少し時間をくださいとお願いして夢は終わる。今度の連休中にボチボチ谷中めぐりかな。七福神から始まって谷中墓地に埋葬され今では訪れる人もなく,傾いている花香と田母野の墓を見た時からここには明治の複雑な事情が混在している感じがしていた。
 最近訪問していない浄光寺にも行って福神漬顕彰碑の調査がどこまでいっているか報告しなければならないだろう。あの碑文の裏には石井研堂からの隠しメッセージが入っているように思えてきた。石井は山田箕之助からの伝聞をどこから仕入れたのだろうか。
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小西利右衛門の謎

2011年10月05日 | 福神漬
小西利右衛門の謎
三菱における土地投資と土地経営 鷲崎俊太郎 三菱資料館論集
明治3年末。三菱が東京店を京橋区南茅場町18に開設した際、町人喜川田儀八と言う記録がある。「三菱社誌」
 中央区京橋図書館郷土資料室にある明治6年の地図には南茅場町18のところには小西利右衛門と記載されていて、224坪6合8勺8方、700円と記載されている同じく南茅場町17は河村太郎兵衛92坪、南茅場町19は林 153坪。南茅場町20は93坪。21は283坪で永岡の名前となっている。後に三菱は南茅場町17から21の土地を利用していた。明治18年日本郵船が発足した時、南茅場町18が本社となった。
 明治初期はまだ江戸時代の不動産慣習が残っていたので地図に記載されていた金額は今の固定資産税の金額と思われる。
岩崎弥太郎伝では南茅場町18の土地は小西惣兵衛から購入したとなっている。南茅場町の小西は兵庫県伊丹の小西酒造の人と思われる。江戸における新川・茅場町地区は江戸での下り酒の到着地点だった。
 町人喜川田儀八と小西と三菱の関係はどうなっていたのだろうか。同じ南茅場町に福島事件で浮世絵、神田須田町で配布した原胤昭の住居があり、ほぼ同時期とも言える頃に福島事件被告人花香恭次郎が南茅場町のどこかの商家に勤めていた。三菱東京店(当時は三ッ川商会)の店員と花香恭次郎との接触はなかったといえるのだろうか。ここまで来ると小説家の世界となる。
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暦のずれ

2011年10月04日 | 築地市場にて
季節外れの寒さで、今年の冬が早い気がする。梅雨明けも異常と言っても良い位の早かった。しかし梅雨が早かった割に熱帯夜日数が少なかった気がする。2年前の今頃築地市場内外は中国人観光客でいっぱいだった。市場周辺では環状2号線の工事現場がだんだん市場に迫って来るようだ。三井造船の改築工事も終りになりそうで間もなく竣工しそうである。このビルは築地の名前を外して三井浜離宮ビルとなりそうである。魚のイメージ外しかもしれない。
 江戸時代、将軍吉宗の時代も天候は今と同じように変動していて昔の暦を使っていて暦の正確性に対する不信感があったのではないだろうか。そこに日食や月食予想が西洋の天文学が正確で洋学の解禁があったという。江戸時代の中頃まで暦に関しては幕府の力より朝廷の方が力があったというのは驚きである。安倍清明から始まる土御門家の力があったためと言う。
 洋学の解禁の名目となった西洋の学問から、数学・天文学・測量学と進み、ついでに医学が進み蘭学普及の原因となった。幕末の蘭学につながる人脈の上に福神漬の命名の経緯がつながる。
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地域特産委員会 宮崎県

2011年10月03日 | 築地市場にて
全国漬物連合会の地域の漬物を振興する目的の会合が10月3日宮崎県で開かれる。ここ何年の地域特産委員会には各県の県知事が代理でなく本人直々に参加して挨拶がある。これも東国原前宮崎県知事の時から恒例となった気がする。各府県知事が円高でも海外に逃げない産業を振興しなければ地元の失業者が減らない現実がある。この様な意味では漬物とそこに原料を提供する農家を振興するということを示す良い会合となる。
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もやしの漬物

2011年10月02日 | 築地市場にて
秋に日本に上陸した台風の影響で野菜等が高い。野菜売り場にあるもやしが売れているようである。またもやしの漬物の売れ行きも近来になく良い。
 それにしてももやしの漬物が売れ行き良いということは安いもやしを料理することなく、漬物のもやしを少し手を加えて食卓に出しているのだろうか、これが文字通り『お袋』の味となる。節電と言うことで家庭で熱を出す調理を避けた結果だろうか。ようやく寒くなって今度は温かいものが好まれる時期となった。
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