年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

陸軍と海軍の福神漬

2007年06月10日 | 福神漬
大日本洋酒缶詰沿革史より
日清戦役の後陸軍省は糧秣廠を移設し急需に応じる方針を立て、海軍は指定工場を定めて平時・有事の供給を確実にして再び外国の缶詰の輸入をしない方針を立てていた。
 日清戦役の後、一時的に需要が落ちたが、明治30年前後には日本人の海外活動が増加し、移民、航海の船舶用に需要が増大した。
陸軍に於いては一時糧秣廠で福神漬の缶詰を製造していた。広島市郷土資料館の建物は陸軍中央糧秣廠宇品支廠で缶詰工場だったものです。

明治27年(1894)の日清戦争以後、広島には陸軍の施設がたくさん造られました。明治30年(1897)、陸軍の糧秣の調達と補給を行う専門の常設機関として、宇品陸軍糧秣支廠の前身であるが広島市宇品海岸に設置されました。日清戦争の時民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事にしたという伝説もあります。
 缶詰の組合で大正12年7月「第九回開缶研究会」に陸軍糧秣廠の人が参加していたのはこのような理由で、海軍の人たちは参加していないようである。
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