年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

牛肉缶詰に石が入っていたと伝えられた事件 2

2007年06月15日 | 福神漬
牛肉缶詰に石が入っていたと伝えられた事件 2

 足尾鉱毒の告発で知られている衆議院議員田中正造は明治28年2月第8回国会において質問状を出して論争に向かった。(田中正造全集第7巻)
軍隊用牛肉缶詰に買い上げに関する演説 要約
今は(日清戦争中)戦時中なればこのような質問はしたくないのだが、軍事費は幾ら国家の負担といえども、彼の姦商と言う輩は官吏をごまかし、軍人の健康に関係あること、総じて衣食住に関係あることの問題を聞くと政府に忠告せざるを得ない。たとえ兵站部の不正ということの質問するも海陸軍を攻撃することでなく、その軍隊のためと思って質問しているのである。
 さて缶詰の質問は些細なことであるがよく全体の問題を現している。諸君、缶詰というのは生産地で造って、需要の多い所に販売する物である。然るに昨年(明治27年)7月頃から東京で缶詰屋が俄かに増えて,そこから缶詰を軍隊用に買い上げるということは訳のわからない事である。議員諸君、食用の牛肉は兵庫がよく、関東は牛乳用である。兵庫県では明治16年缶詰の技師を雇用し、指導して、10年を経てようやくよいものが出来てきた。
 ところが東京はよその余りものの肉が来るし,なお品が少ない。従って缶詰製造業者がいなかったので、製造経験者もいないのである。しかし昨今の状況を見ると、全国の缶詰業者の十中八九は東京の業者で占領している。

田中正造の演説はまだ続く。演説によると日清戦争が始まると急に東京での缶詰業者が急増したことが解る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛肉缶詰に石が入っていたと伝えられた事件

2007年06月14日 | 福神漬
牛肉缶詰に石が入っていたと伝えられた事件
日清戦争が明治27年8月に始まって、11月には難航不落といわれた旅順要塞がたった1日で占領したころ、一隻の陸軍兵士の食料を積載した船が広島から大連に向かった。大連で積み替えた時、荷崩れがあり牛肉缶詰の中から石が出てきた。後で調べたら途中で石と牛肉缶詰とすり替えられたのだったが、事情がわからず当時は新聞記事で納入業者が糾弾されていた。
 足尾鉱毒の告発で知られている衆議院議員田中正造は明治28年2月第8回国会において質問状を出して論争に向かった。(田中正造全集第7巻)
軍隊用牛肉缶詰に買い上げに関する質問書
日清戦争が起こるや軍隊の需要は頗る増加し1日1万個を超えるようになっている。そして牛肉缶詰のごときその一つである。これを見て投機の人は,製靴商が缶詰を造ったり,タバコ商が缶詰を造ったりしていた。これ等の人々は缶詰製造の経験無く一時の利益を得ようとして粗製濫造になり腐敗して用を成さないものがあった。混ぜ物もあり驚くことは無い。その買い上げ価格も品質によった値段でなく、世間では非難の声が満ち満ちている。
 中略
質問第一 政府が軍隊用牛肉缶詰を原料安価、輸送便利、低価格の地の缶詰を買い上げず価格の高い東京産の買い上げするのはどんな理由か?
質問第二 政府が軍隊用牛肉缶詰の買い上げをするのに経験のある業者のでなく新設の業者から買い上げるのはどんな理由か?
質問第三 政府が軍隊用牛肉缶詰の買い上げをするにあたって取捨選択の方法の順序はどのようなものか?

このような質問状を出していた。明治27.年28年当時において福神漬はまだなじみが無いから(前例が無い)軍隊に採用されるまで大変だっただろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敷島漬(福神漬)

2007年06月13日 | 福神漬
敷島漬(福神漬)
大正12年に表彰を受けた、敷島漬のことを知りたくて、サンヨー堂さんにメ-ルして「サンヨー堂85年史」を見させていただきました。それによると「野菜缶詰」から福神漬に向かったようでどうして「敷島漬」と命名したか書いてありませんでした。商標登録してあって避けたのだろうか。
 同封してあった缶詰ラベルには目方が書いてあって、中身は340g(13オンス・90.7匁)つまり現在の缶詰規格では4号缶となる。多分この規格が広島の軍隊に納入されていたのだろう。
 「85年史」を読むと社業の発展の歴史と「石の缶詰」事件に目がいく。日本缶詰協会の事件の顛末から「大倉喜八郎は冤罪」となるのだがどうして喜八郎の事件になってしまったのだろうか。
 「人間大倉喜八郎」 横山貞雄著93頁
翁の一言
日清戦争が終わって間もない頃、ある人が横須賀からの上り列車に乗ると大倉喜八郎も乗っていた。その人は当時すでに世間に伝わっている風説を話し、大倉喜八郎をなじった。
「貴下は実にけしからんやつだ、日本国民ならばそんなことは出来ることでもない。貴下は自分のやったことをどう思う。恥ずべきことだと思わんか?」と興奮して詰め寄ったが、けれど大倉は怒りもせず彼の経歴を話した。ますますある人は怒り「私は貴下の経歴など聞きたくも無い。貴下はそういう行いを恥じないのかということを聞いているのだ」大倉の答えは「私はそのことに関して何も申し上げない。言えば弁解となる、言ったとしても貴下の疑いは晴れるものではないのです。ただ、大倉は決してウワサのような国家のためにならぬようなことをする人間ではないと言っておきます。長い目で見てください、今に解ります。大倉は国家を思う人間であると言うことがわかる時が来ます。それまで何も言いません」それでもある人は新橋に着くまで大倉に暴言をしていた。汽車が新橋に着くと大倉はある人に向かって「人間は何でも辛抱が肝腎ですよ」といて別れた。

大倉喜八郎が日清戦争後、樽入り福神漬を献納したのは風説「石の缶詰」を避けたのであろうか。日清戦争後間もなく「死の商人」のウワサが出ていたのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵食としての福神漬 海軍

2007年06月12日 | 福神漬
兵食としての福神漬 海軍
写真で見る海軍糧食史 藤田昌雄著
日本海軍の始まりといっても良い『咸臨丸』の訪米時には船に搭載した食料の中には醤油7斗5升、みそ5樽、漬物6樽、梅干5壷となっている。
 また下士官、兵の一日平均糧食は脚気対策時期の漬物の量は明治17年230g、明治18年240g、明治19年220g、明治20年120g、明治21年80g、明治22年90gとなっている。海軍カレーは良く知られているが初期はタクワンが付いていたと思われる。
 明治22年になると日本国内の缶詰産業の技術能力の発達により陸軍による缶詰の多用により普及する。海軍に福神漬の缶詰が積込まれたのは陸軍より遅れていたと思われる。海軍の初期の日本製の缶詰食品の不良品が多く、多くは輸入品を使用していた。日本製に切り替わったのは日露戦争であった。この時福神漬が海軍に入ったと思われる。
 明治21年広島市缶詰製造業者逸見勝誠(現サンヨー堂創始者)が海軍の指定缶詰工場として『牛肉缶詰』『野菜缶詰』を製造納入していた。


参考 大正11年7月 サンヨー堂は上野公園で開催された平和記念東京博覧会に出品した「敷島漬」(福神漬)「松茸煮」缶詰が金賞牌を受ける。「敷島漬」は広島市鶴見町木村永進堂製造で大根・茄子・ナタ豆・レンコン・しそのみ・松茸・竹の子・蕗等色々配合して造っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富貴楼のお倉 待合政治の元祖

2007年06月11日 | 福神漬
横浜富貴楼のお倉 鳥居民著から
明治の政治を動かした女
福神漬はどんな関係があったのだろうか。
過日、日本缶詰史の本を都立中央図書館で請求していた時、本が出てくるまでのほんの数分間時間つぶしのため書棚を眺めていた。そこには「横浜富貴楼のお倉」という本が目についた。たしか三遊亭円朝の落語「七福神詣で」に出てくる金持ちの富貴楼のお倉のことを思い出した。内容をよむと日本郵船の発足にかなり関係がありそうであった。
 幕末にアメリカに向かった咸臨丸の荷物には梅干・沢庵等の漬物しか積込まれておらず、郵船の船舶に当時としては高価な漬物「福神漬」がどんなきっかけで積まれたか解らなかった。
 浅田正文・横浜富貴楼のお倉・川田小一郎等は上野近辺に縁があり、しきりに売り込みを計っていた酒悦の野田清右門を助けた、彼の福神漬を積んだと思われる。
 郵船の福神漬は「上野・池之端・酒悦」のが積込まれていたと思う。「印度洋の常陸丸」の遺留物は酒悦の福神漬だった。従って最初にカレーライスに付いた福神漬は酒悦の缶詰福神漬だったのである。そしてそれは4号缶と思われる。

現在の日本缶詰規格
4号缶 内径7.4cm 高さ11.3cm 容量453ml
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸軍と海軍の福神漬

2007年06月10日 | 福神漬
大日本洋酒缶詰沿革史より
日清戦役の後陸軍省は糧秣廠を移設し急需に応じる方針を立て、海軍は指定工場を定めて平時・有事の供給を確実にして再び外国の缶詰の輸入をしない方針を立てていた。
 日清戦役の後、一時的に需要が落ちたが、明治30年前後には日本人の海外活動が増加し、移民、航海の船舶用に需要が増大した。
陸軍に於いては一時糧秣廠で福神漬の缶詰を製造していた。広島市郷土資料館の建物は陸軍中央糧秣廠宇品支廠で缶詰工場だったものです。

明治27年(1894)の日清戦争以後、広島には陸軍の施設がたくさん造られました。明治30年(1897)、陸軍の糧秣の調達と補給を行う専門の常設機関として、宇品陸軍糧秣支廠の前身であるが広島市宇品海岸に設置されました。日清戦争の時民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事にしたという伝説もあります。
 缶詰の組合で大正12年7月「第九回開缶研究会」に陸軍糧秣廠の人が参加していたのはこのような理由で、海軍の人たちは参加していないようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空刑事⑥

2007年06月09日 | 福神漬
朝日新聞社 天声人語:2000年3月6日より

 たしか中身に石ころを入れた缶詰を、第一次大戦のころ日本が輸出した。そう本欄に書いた(2月22日付)。「たしか」と記憶に頼ったのがいけなかった。日本缶詰協会から資料を添えて「そのような事実はなかった」と指摘があった。そちらが正確だ。訂正します。
 ただし、この「石ころ入り缶詰」の話、案外流布している。どうしてそうなったのか。――1926年(大正15年)3月発行の『缶詰時報』に、「石の缶詰」という一文が載っている。広島の缶詰商が、父親の代のころを回想した内容だ。それによると、1894年に始まった日清戦争のさなか、石の塊が入った軍隊用の牛肉缶詰が大連(中国)で見つかった、と新聞が報じた。
 「犯人」と名指しされ、当局から「御用中止」の処分を受けた筆者の父親は、部下を現地に派遣して真相を確かめさせた。事実はまったく違っていた。缶詰を入れた木の箱(函(かん))が大連港で陸揚げされる際、船べりにぶつかって壊れた。はずみで飛び出してきたのが、石の塊と荷造り用の縄。何者かが缶詰を盗み、代わりに石と縄を詰めたのだった。
 これが「石ころ入り缶詰」と誤って伝えられた。「缶」と「函」の混同もあったのかもしれない。しかし、話にはなお尾ひれがつき、明治から大正にかけての豪商、大倉喜八郎のこととして語られた。いち早く電気やホテル業に乗り出すなど先見の明を発揮する一方、強引な商売でも知られた人物である。
 彼は軍部相手に巨万の富を築いたが、その商法は世間から糾弾されることも多く、「大倉の納めた缶詰には砂利が入っている」とのうわさも飛んだ。確認されないまま、それが、歴史関係の一部の本には事実めいて記され、あしき教訓として子どもに教える先生もいたらしい。

 時日をおかず、日本缶詰協会が朝日新聞に訂正を願ったのは缶詰製造の歴史から来ている。多くの不良缶詰で良心的に製造している業者が苦しんでいたこと、製造技術の向上を図っていた歴史があった。福神漬の缶詰も大正時代は様々な不良品があった。
 戦後でもニセ牛缶事件もあった1960年、缶詰めの中にハエの死骸が入っていたとして保健所に届けられた「牛肉大和煮」缶詰を調べたところ、その中身がクジラの肉であったことがわかった。さらに他社の「牛肉大和煮」や「コンビーフ」として売られていた缶詰を調査したところ、ほとんどは中身のすべてまたは大部分が馬肉やクジラ肉であることがわかった。このことがきっかけで「公正マーク」制度が出来たが最近では「純粋はちみつ」がこれに違反していた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬の成立年代

2007年06月08日 | 福神漬
明治後期産業発達資料 第339巻
大日本洋酒缶詰発達史
我が国の缶詰業が有事平時の食品としてようやく前途に明るい兆しが出たのは明治20年前後である。それ以前は惨憺たる結果で成功に至らないものがほとんどであった。明治14年に上野公園で開催された第二回内国博覧会に出品の過半は官製の商品で色々な試験をしていたものだった。缶詰は明治14年~15年はまだ試験的時代で、明治17年~18年に至って日本各地に小規模の製造者が現れ、日本人にあう食品が案出された。27~28年戦役(日清戦争)によって必要欠くべからざる軍食として缶詰業の発展をもたらした。

 福神漬は東京下谷池之端野口清衛門(商号・酒悦)創製に係わる。明治19年のころ云々、
 明治19年であるので福神漬は缶詰で製品化されても不自然ではない。まして、酒悦主人は近所で開催されていた内国博覧会に出品されている缶詰を見ていたはずである。
 福神漬創製の年号(明治19年)の出典の資料は大日本洋酒缶詰発達史から引用していると思われる。他に明治18年・14年などの諸説があった)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツバメの巣

2007年06月07日 | 築地市場にて
ツバメの巣
どんなことか築地市場の売場の天井にツバメが巣つくり中、カラスの襲撃に襲われない場所に作っています。とりあえずフン除けのシートを
する相談してます。猫にエサをやる人もいます。午後はとにかくのんびり、車には上空からカラスのフン攻撃、ツバメなんて築地にきて初めてといってよいくらい見かけない。エサはとなりの浜離宮で取ってきているのか直ぐに戻ってくる。
どうしてツバメが築地市場に巣を作り始めたのか考えるとやはり排気ガスが少なくなったとしか考えられない。場内を疾走するターレーは徐々に電動化され(ガソリンエンジンのターレーは新規導入は許可されない)それでも東京都のデータでは水産仲卸の空気は労働環境の空気ではないという。デイーゼルの排気も少なくなった気がする。それにカラスも少ない。エサは昔からあったのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空刑事⑤

2007年06月06日 | 福神漬
2000年2月22日朝日新聞・朝刊
天声人語より
第一次大戦の頃だというから80年以上も昔だが両端にしか芯を詰めていない鉛筆がフランスに輸出された。そうすれば安く製造できるという一部の業者の浅はかな計算だった。もちろんインチキ品として送り返され,日本エンピツの悪評はヨーロッパ中に広まった。
 同じような例もたしか缶詰にもあった。中身の魚の変わりに石コロを入れて,ごまかそうとしたのである。当然ながら露見した。
 第一次大戦となり世界各地で物資が乏しくなり,日本が輸出国として空前の好景気に沸いていた。
 略
大杉や堺たち平民社の虚偽話は平成のなると「牛肉」から「魚」に変化していた。まるで伝言ゲームのように変化するものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空刑事④

2007年06月05日 | 福神漬
大杉栄 自伝の「大倉の石の缶詰話捏造」は本当なんだろうか。
自伝は関東大震災で虐殺される少し前に書き始めたという。すると「石の缶詰」は日清戦争時であるのですでに25年近くは経っているし、平民社での会合も15年は経っている。大杉栄は自慢げに「大倉の石の缶詰」といっているがすでにある程度「大倉の石の缶詰」の話しは知られていたのではないだろうか。
 木下尚江の「火の柱」 明治37年1月1日横浜毎日新聞に連載し始め3月20日で終わる。この間2月10日に日露戦争開戦となる。
木下尚江全集第二巻「火の柱」77頁
松島「あの砂利の牛肉缶詰事件の時など新聞はやかましい」といいかかると、大洞利八(大倉喜八郎)はあわてて「松島さん、そんな古傷の洗濯はご勘弁願います。まんざらご迷惑の掛け放しという次第ででも無かったようでごわすか」「それからかの靴の請負の時はどうだ。のり付けの踵が雨で離れて,水兵が梯子から落ちて逆巻く波へ行方知れずとなる、艦隊のほうから苦情を持込む」云々となって大蔵喜八郎の悪徳商人ぶりを書いている。日露開戦時には大杉栄が書いている頃よりもすでに喜八郎は「死の商人」と知られていたのだろう。平民社の人たちは大倉を悪役に仕立てようとしていた。
虚偽の話は真実が無いから,いか様にも変化して伝わる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空刑事③

2007年06月04日 | 福神漬
大杉栄 自伝より
日露の間に戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に漲(みなぎ)つた。そしてたゞ一人冷静な非戦的態度をとつていた萬朝報(新聞)までが、急に其の態度を変へだした。幸徳秋水と堺利彦と内村鑑三との三人が、悲痛な「退社の辞」をかゝげて、萬朝報を去つた。
 そして幸徳と堺とは、別に週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義と非戦論とを標榜して起つた。
 雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪(と)うた。毎週社で開かれていた社会主義研究の例会の日だつた。
 中略
 やがて二十名ばかりの人が集まつた。そして、多分堺だつたらうと思ふが、「今日は雪も降るし、だいぶ新顔が多いやうだから、講演はよして、一つしんみりと皆んなの身上話やどうして社会主義に入ったかかと言うやうな事をお互に話しよう」と云ひだした。皆んなが順々に立つて何か話した。或る男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時、大倉が缶詰の中へ石を入れたと云ふ事が評判になつてゐるが、あれは実は私のところの缶詰なんです。尤もそれは私のところでやつたんではなくって、大倉の方で或る策略からやったらしいんではあるが」と云つた。
「それぢや、やはり大倉の缶詰ぢやないか。どうもそれや、君のところでやつたと言うよりは大倉がやつたと言う方が面白いから、やはり大倉の方にして置かうぢやないか。」
 かう云つたのもやはり堺だつたらうと思ふが、皆んなも「さうだ、さうだ、大倉の方がいゝ」と賛成して大笑ひになつた。其の資本家の子と云ふのは、今の金鵄(きんし)ミルクの主人邊見(へんみ)何んとか云ふのだつた。
大杉栄 自由への疾走 鎌田慧著
雪の夜の会合は1903年(明治36年)12月15日夜としている。この会合後平民新聞は「石ころ缶詰」報道し始めた。事実の捏造は今でも訂正されず信じられている。
 大杉栄は大正米騒動の時、大阪において民衆に対して煽動行為を行なっていたが関東大震災で東京に戒厳令がしかれ、憲兵に虐殺された。米騒動は物価を安定させるため中央卸売市場法を作るきっかけとなり、関東大震災で日本橋魚河岸は戒厳令で立ち入り禁止となり、紆余曲折の経過を経て、昭和10年2月11日東京都中央卸売市場築地本場が開場した。
もし関東大震災と戒厳令が無ければ戦後まで日本橋に魚河岸があっただろう。
それにしても大倉喜八郎の「石の缶詰」は何時位から言われたのだろうか。福神漬の「樽」と関係あるのだろうか?

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七福神詣で 三遊亭円朝作 余談

2007年06月03日 | 福神漬
七福神詣で 余談
三遊亭円朝作より
浅田正文は東京市下谷区茅町2—16に住み、明治43年の日本紳士禄によると所得税139円納めている、茅町は現在の池之端一丁目(池之端仲町)
財界物故傑物伝下巻より
浅田正文(わが海運界の功労者)
初め岩崎弥太郎の三菱会社に入り、東京本社の会計役を任され,重用され、日本郵船会社の発足とともにその重役の一員に加わって海運界のために働きました。
 三菱会社で岩崎弥太郎や川田小一郎の背後で経営を助け、信頼を受け、三菱会社の発展を助けた。三菱会社は事業の発展と共に海運を独占したため横暴の態度があるといわれて、これを利用して海運界に参入して数々の会社が競争を挑んできた。
 三菱でこれに応戦したのは川田小一郎で、彼を事務総監とし協力して東京本社の采配を振るっていたのは荘田平五郎(日本で初めて複式簿記を採用)で浅田正文が補佐していた。
明治18年10月1日
明治政府は共倒れを恐れ、日本郵船会社を創立した。浅田は会計支配人となり郵船に参加した。
明治22年4月 理事、明治26年12月専務取締役。日清戦役直前に第一線を退いたが、明治41年まで在職、日本郵船の重役であった期間は満22年7ヶ月であった。この間明治29年10月東武鉄道創業、明治精糖、神戸電気鉄道の創業に参加した。
明治45年4月18日 病没 享年59歳
落語家の三遊亭円朝と交流があったと思われる。また住まいが酒悦と同じ町内で当然郵船には『酒悦の福神漬』が納入されていたと思われる。

富貴楼のお倉は日本郵船発足時に影の功労者と言う説がある。
『横浜富貴楼お倉』鳥居民著

落語家の三遊亭円朝の話から
七福神・日本郵船・上野池之端は底の方でつながっている気がする。

 日本郵船の社内報『ゆうせん』には『明治時代に当社の欧州航路船上で日本人コックが考案したと伝えられています。それを明確に証明する資料は残っていませんが、多くのOBが証言しており、まず間違いないでしょう。』とあるが印度洋の常陸丸遭難事件の記憶の中に『東京池之端・福神漬』に記憶と共に日本の味として郵船社員が覚えていたと思います。

資料は無いが記憶に残る福神漬
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空刑事②

2007年06月02日 | 福神漬
アジア歴史史料センターで検索した文献より
三十七、八年戦役残品たる福神漬職員中希望者に売却の旨陸軍糧秣庁申込
明治41年6月26日陸軍糧秣本廠より枢密院御中
三十七、八年戦役残品たる福神漬を左記の方法により売却いたしたく候。貴院職員等においてご希望に候ははその数量を一纏めとし一回に御申込相成りたく候也。左記一貫匁につき金40銭、ただし一缶百二十匁入りにして四銭八厘のわり、一箱は三貫三百六十匁(百二十匁いり二十八缶)入りにて一箱未満の端数は売却せず。現品は別紙の様式による納金証に現金を添え当廠収入官吏に納入の上にあらざれば現品の引渡しを為さず。買受人は現品受領の際しその受領証を差し出すこと。売却期間は7月1日より同月31日迄とし執務期間内に限る。遠隔地における売渡品授受の方法については代理人を選定(例えば運送請負人を代理人と定むる等)

当時は日清・日露戦争と呼ばれていなかった。福神漬は軍の需要が大量にあったが、戦争が終わると注文がこなくなり不況となり、更に不要となった福神漬は安く売却され市場に出回って更に不況となる。しかし、高価だった缶詰の安価な売却は明治の庶民に缶詰食品の普及を促進した面もある。
百二十匁は約450gで二十八缶入りで一箱は14kgとなる。
戦後『死の商人』と悪評がたった大倉喜八郎が『樽』入りの福神漬を献納したのは偶然だったのだろうか、それとも缶詰を避けたのだろうか。
 日清戦争時の『石入り缶詰』事件のいきさつと、その報道を探ってみよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空刑事①

2007年06月01日 | 福神漬
時空刑事
大倉喜八郎の福神漬300樽の留守第4師団へ日清戦争休戦後かなりたってからなぜ寄贈したのかを考えている。世間ではバカバカしいと思うがも知れないがチョッと気になる。それは『樽』と『第4師団=大阪』『休戦後』である。福神漬の初期はその容器として主に『缶詰』が使用されていてなぜ『樽』が出てきたのだろうか。
日露戦争後の福神漬の史料
国立公文書館デジタルアーカイブ
アジア歴史史料センターで検索
37.38年戦役の残品の福神漬を職員中希望するものに売却する文書がある。明治41年6月26日
一箱は三貫三百六十匁(百二十匁入り二十八缶)となっている。百二十匁入りの缶はいわゆる1ポンド缶で日本缶詰協会の缶の規格には4号缶に当る。しかし、厳密には缶の規格が決まったのは昭和の初めで、4号缶ぐらいだろうとしかいえない。昭和の時代までどんな理由なのか缶詰を造る人が缶を作っていた。
 鶯亭金升『明治のおもかげ』によると、酒悦主人が梅亭金鵞に試食をしてもらい命名を依頼したとき、缶入りの福神漬だったという。
 日本缶詰協会の専務理事さんの話で『福神漬』は『水分活性』の問題で加熱殺菌を酷くしなくても良かったという。粗末な技術でも出来たのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする