年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

九段下駅の隣の位置にある昭和館で

2024年03月13日 | 福神漬から見た近代日本史
大雨の降っている東京で雨に濡れないで行ける図書館と思っていたら、ふと昭和館4階の図書室を思い出した。ここは昭和の生活の記録を納めている図書室である。激動の昭和と言われる記録がここ一か所で本が読める。
 2回目の訪問で要領が判っていたので能久親王御事蹟という本を出してもらった。読み始めて30分ほど経って、前回読んだ部分の記憶が戻り、台湾における北白川宮が亡くなった後に作られた神社のリストが無かったことに気が付き、検索機で検索すると、30程出てきた。

能久親王はもう忘れられた明治の皇族で、日清戦争の清国との講和条約締結後に志願して、混乱の兆しがあった台湾に向かい、明治27年11月にマラリアを台南の戦地で発病し、亡くなった。日清戦争は表面上の戦病死者数は少ないが台湾掃討戦では朝鮮半島の戦病死者をはるかに上回る。マラリアと脚気と風土病がほとんどを占め、普通の戦闘死者は意外と少ない。台湾での日本兵の戦闘死者164名病死者4642名という記録がある。台湾側の死者数はおおよそ14000人という。この台湾での戦闘の評価が最近では変わってきて、日本の軍国主義の始まり・端緒という学者がいて、戦争名が揉めている。当時の日本は乙未戦争と言っていたようだ。
 北白川宮(輪王寺宮)の評伝は明治政府側の立場の歴史観と旧幕府側の知識人との差が激しい。
 明治の憲法発布時期が江戸開府400周年ということで、旧幕を懐かしむ人たちが、歌舞伎の演目で【皐月晴上野朝風/竹柴其水作】を上演した。当時の小新聞(庶民が読めるようにフリガナ付きの記事。主な報道は事件、歌舞伎等の情報)劇評を読むと下谷のあたりの人達が団体で観劇していた様子が見える。
歌舞伎の始まりに、寛永寺の鐘が鳴る場面から始まり、終幕は上野博覧会の終了のベルが鳴るという演出。舞台では本物の大砲の煙を出していたという。ある報道ではお忍びで輪王寺宮の兄の小松宮が観劇していたという。もしかすると自主規制で輪王寺宮が見ていたかもしれない。知足という色紙をもらった、竹町の湯屋佐兵衛が尾上菊五郎が演じたので大盤振る舞いし、間もなく没落したという逸話も残る。
二幕目・下谷竹町湯屋の場はまさにこの佐兵衛経営の湯屋を舞台にしていて、官軍兵士には湯に浸かることを拒否し、彰義隊の参加者には無料でいれていたという。
 野次馬気分が残っていて、官軍側が敗色になるのを待っていた様子が解かる。当時の逸話で新門辰五郎が竹やりを用意して待っていたという。全ては大村 益次郎 の作戦勝ちで、上野戦争を半日で終わらせ、大火とならず、逆に彰義隊兵士の放火で寛永寺が焼失した。子母澤寛の彰義隊始末の冒頭で長雨という文言がある。梅雨時だった。江戸市民は大火を恐れていて、また火事は見物するものと思っていた様子が解かる。

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