年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

地域史を読みに麻布十番へ

2024年07月18日 | 宅老のグチ
曇天の日に都立中央図書館へ行く。麻布十番駅から歩いて行くが、この頃の麻布十番付近の変化は激しい。商店街自体はさほどの変化は昼間には見えないが、図書館へ行く道すがらの変化は激しい。いつの間にアルゼンチン大使館の回りが建築工事だらけとなり、保育園が出来て、大使館前に出来る低層マンションは超高価格のような感じがする。バブル時のドムスブランドがあって、10億のうわさも聞こえる。大使館が多く、常時警察官が巡回していて、治安は良さそう。有栖川公園周辺は道路の拡張があって、樹木が伐採されている。それでも緑は多い。久しぶりにセミの声が聞こえた。間も無く梅雨明けとなる。35度の気温が普通となり、異国人観光客が東京にさらに増えそう。

箕作省吾 この名前が岩手県水沢市史(今は奥州市)に出て来る。江戸時代に西洋の地図を日本で最初に紹介した人。でも記憶では箕作という名前は岡山県の方の人で、思わず経歴を読んでしまった。地方史は学校等で郷土の偉人として紹介される。従って内容には正確性があって、時間というもので評価されている。彼の両親が亡くなり、つてを頼って江戸に向かいます。そこは蘭学の世界でした。東京では水沢(奥州市)という地名は聞き慣れない地名で岩手県の平泉の奥にあります。今年の初めにJR東日本の激安新幹線乗り放題チケットで東北新幹線水沢江刺駅へ行き、高野長英記念館を訪問しました。新幹線の駅と水沢駅(東北本線)との間は歩いてゆくには大変と思いバス便で行くと、大きな川がありました。北上川です。これが岩手県の水運と情報網と言うことが水沢市史によって理解できます。当然北上川下流は仙台藩なので、学問上の交流もあったようです。
 箕作省吾は、西洋医学を学び、シーボルトにも会い、幕府天文台につとめ、医学書や地理書の翻訳にあたっていました。箕作阮甫先生に蘭学を学んでいた省吾は、その才能を見込まれて三女と結婚し、養子となりました。その夫婦に生まれたのが箕作 麟祥です。学者の家系となった箕作家はどの様な家庭教育だったか気になります。
 次に図書館地方史で千葉県干潟町史と飯岡町史を読みました。特に飯岡町史の附編で天保水滸伝で知られる飯岡助五郎のことが詳細に学問的に書かれていて、飯岡の人々がいかに講談・浪曲師によって伝えられる飯岡の悪評に反論しているか興味ある事例でした。
 江戸時代の飯岡は幕府の支配が乱れていて、しかし醤油産業と干し鰯の漁業の盛んなとこで、どちらも通年の仕事でない時期があって、今の感覚だと第三次産業の盛んな町で、賭博や遊郭等があったようです。そこに大原幽学という農村指導者がやってきて、農民の生活改善を行いました。これに反発した博徒が大原幽学に難癖をつけ、訴訟に持ち込みました。丁度黒船が来た時で、訴訟の決着が長引き、江戸での訴訟費用が多大になり、幽学は判決後に自決します。農民が賭博の誘惑に負けたのです。
 正義は時間と運で負ける時があります。

  






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