年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

太陽暦1月1日

2012年01月01日 | 築地市場にて
江戸時代の職名で伊賀者明屋敷番というのがあった。幕臣内田弥太郎の仕事である。今の感覚だと幕臣の空き地や空き家の管理をすることかもしれない。数学で才能を開花させた内田は蘭学者との交流から歴史に残る人物となってゆく。明治になって内田弥太郎は五観と名を変えた。明治5年12月2日彼や福田理軒を中心とした人達によって太陰暦から太陽暦に変えて翌日を明治6年1月1日とした。太陽暦になって139年となる。彼の書いた書物は三鷹の東京天文台図書室に多く所蔵されているようである。また今年は大正100年にもなる年で明治は歴史時代に入ってゆくと言って良い年となる。
 内田弥太郎に学問上の弟子として千葉県萬歳村に花香恭法という人がいた。高野長英が江戸の牢屋敷から逃亡し全国を流浪したが、いつの間に江戸に戻り江戸町奉行に発見され撲殺された。この高野を一時かくまったのが花香恭法であった。
 黒船来航時、アメリカ国書を受け取った日本の代表者として戸田伊豆守氏栄という人だった。彼の晩年の子が花香家に養子に行った。花香恭次郎と言う。この恭次郎が歴史の教科書の出てくる自由民権運動福島事件被告人の一人だった。

 漬物の福神漬は一般に谷中の七福神めぐりから命名されたと言われるが、命名者梅亭金鵞は明治政府の福島事件の弾圧に対して食品に比喩的な名称(ふくじん=福島人)をつけた可能性がある。福神漬の命名された時期は明治16年から19年までの時期に当たる。
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