下谷教会60年史より
山中笑(共古) 明治17年5月より下谷教会牧師となる。
明治18年4月まで牧師となり牛込教会へ転任
この後山梨で布教活動をする傍ら、民俗資料を集める。
明治28年7月より下谷教会の牧師となり33年5月まで担当した。
福神漬に入っているナタ豆の史料に関して、伊勢の話が出てくるが何時どこの人から収集したのだろうか。東京には伊勢出身の商人が多数いるが酒悦主人も先祖が伊勢の出身といわれる。
また遊女の話は浅草吉原の遊女から収集したのだろうか。
明治20年代は日本におけるキリスト教布教に厳しい時代だった。維新後キリスト布教を目的とする宣教師と英学を学び新時代に適応する人達で英学校は流行った。しかし明治20年代に入って、条約改正が失敗し、日本の文化が見直されるとキリスト教の布教には難しい時代となっていた。このような時期に山中は下谷で布教活動をしていた。三遊亭円朝は明治33年8月に亡くなっているので、死去直前に住んでいた下谷万年町の家(元下谷教会講義所)は山中牧師の時代に住んでいたことになる。
山中笑は同じく幕臣でキリスト教徒だった原胤昭と親しかった。福神漬の中のナタ豆について二人はどう思っていたのだろうか。
山中笑(共古) 明治17年5月より下谷教会牧師となる。
明治18年4月まで牧師となり牛込教会へ転任
この後山梨で布教活動をする傍ら、民俗資料を集める。
明治28年7月より下谷教会の牧師となり33年5月まで担当した。
福神漬に入っているナタ豆の史料に関して、伊勢の話が出てくるが何時どこの人から収集したのだろうか。東京には伊勢出身の商人が多数いるが酒悦主人も先祖が伊勢の出身といわれる。
また遊女の話は浅草吉原の遊女から収集したのだろうか。
明治20年代は日本におけるキリスト教布教に厳しい時代だった。維新後キリスト布教を目的とする宣教師と英学を学び新時代に適応する人達で英学校は流行った。しかし明治20年代に入って、条約改正が失敗し、日本の文化が見直されるとキリスト教の布教には難しい時代となっていた。このような時期に山中は下谷で布教活動をしていた。三遊亭円朝は明治33年8月に亡くなっているので、死去直前に住んでいた下谷万年町の家(元下谷教会講義所)は山中牧師の時代に住んでいたことになる。
山中笑は同じく幕臣でキリスト教徒だった原胤昭と親しかった。福神漬の中のナタ豆について二人はどう思っていたのだろうか。