年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

義とか福・覆とか

2010年04月23日 | 福神漬
義とか福・覆とか
千葉県成田市にある佐倉宗吾を祀った、宗吾霊堂に宝物館がある。佐倉の農民の遺品等が展示してある。武家とか商人の遺品を集めた宝物館と違って、骨董的価値も少なく貧弱と思えるだろう。宝物館の一階に『義』という文字書いた平成の今活躍している各界の著名人の色紙がある。
 『義』とは義民のことを表しているのだろうが辞書では『義』は( 私欲を捨て、公共のためにすること。)と用いられていたのだろうか。
 佐倉宗吾は佐倉藩の領地を守る家臣団の重税を取りやめるように江戸に在住している藩の重臣に訴えるが聞き入れられず、ついに上野で御法度の将軍に直訴し、断罪となった。この言い伝えを祀ったのが宗吾霊堂である。
 明治15年福島県令となった薩摩人三島は土木県令とも言われたように公共工事を県民に労力で負担させた。この労力提供が苛酷であったため、県議会と対立した。これが福島事件の激化した原因である。福島の自由民権家は福島の窮状を東京の政府上層部に訴えようとしたが失敗した。
 この様な芝居的要素があって、明治16年夏の高等法院での公判は注目されたのである。『転覆』『天福』『天福六歌撰』という言葉が神田雉子町の團團珍聞主筆であった梅亭金鵞や戯画を担当していた小林清親、また神田須田町で書籍等を販売していた原胤昭にどの様な影響を与えていたのだろうか。また16歳の少年投書家であった鶯亭金升はこの事件のあと、團團珍聞に入社している。福島事件最年少被告の花香恭次郎とは叔父甥の関係である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする