大阪商工会議所東成生野支部・異業種交流会フォーラム・アイ(FI)の八月例会がおとといありました。FIはビジネスの団体ですので通常は経営や販売、ものづくりのことなどをテーマに例会をしますが、今回は特別に平和を考えるセミナーでした。
寝屋川市にお住まいの被爆者で作る「寝屋川市広長友の会」が、昨年末に被爆体験集「ヒロシマ・ナガサキ 八月のあの日」を出版され、その編集に携わられた松山五郎さん(80歳)と石田尚三さん(76歳)に体験、平和への思いを語ってもらいました。
ご興味お持ちの方はぜひ「ヒロシマ・ナガサキ 八月のあの日」(1600円)をご購入ください。そして、平和を続けるためにその記憶を次代に引継いで行ってください。本の問い合わせは、寝屋川市広長友の会事務局(072-824-1181)
その様子はFIメンバーの高仁鳳さんが、自身のホームページ「鳳@bongのpage」
で公開していますので、ぜひご覧ください。講演の映像もアップしています。
http://www.inbong.com/2009/fi/fi0807/
また、FIメンバーで、特殊建築金物・特殊金属部品加工専門工場「戸富」の山本謙一さんが書かれた議事録を以下に転載します。ぜひともお読みください。
今例会担当 岡田より挨拶
FIはビジネスの会ですが今回は平和と人権について
考えたいと思います
平和でなくてもビジネスは成り立つが(戦後の朝鮮戦争特需のように)
平和と人権があって、はじめて幸福なビジネスになるのではと思っています。
今回の戦争体験を記憶して次の世代に繋いで行くことが大切なことでは
ないかと思います
今回の講師のお二人から 被爆者からのメッセージ「八月のあの日」という本を
30冊寄贈して頂いており、FI会員の皆様には1社1冊無料で
配布させていただきます。
講師の自己紹介
○松山五朗 氏
旧制中学4年生の時に被爆 その後広島で教員をされ退職後、寝屋川に来られました
○石田 尚三 氏
12歳で被爆 その後保険会社に勤務、日本各地で勤務され退職後、寝屋川に来られました
被爆者の会 寝屋川広長の会副会長
●岡田からの質疑応答形式で話を伺う
●岡田
石田さんの自己紹介の中で勤務中は被爆したことを話したことはなかったと
伺ったのですが、それはなぜでしょうか?
石田さん
話始めると長くなるから(笑)
やはり、戦争中の思いでは、口では話しようがない、嫌な思い出ばかりで、
戦争が終了して軍国主義がなくなり、初めて平和を知った
戦争中は労働力がないため、中学一年生以上は学徒動員、小学四年生くらいからは
防空壕の穴掘り作業や工兵隊の馬の飼葉集めなど、勉強などしていることはなかった。小学校の校庭も半分を軍隊が接収し基地とし、あとの半分をイモ畑とし労働力がないため子供達が作業を行っていた。
松山さん
私も広島で教員をしていたが、その間は被爆体験のことを話せなかった。
教員としては、子供たちに話さないといけなかったが、話せなかった。
私は被爆した後、広島の田舎の方に逃げてしまったからだ。
私の友人の中には被爆して、焼けただれた先生を診療所まで運んでいった人もいた
その友人の服の背中には運んだ先生の皮膚が背中一面についていた。
私にはそんな美談がなかったので、話せなかった。
今回 「八月のあの日」の本を出版するにあたって、被爆者の方に原稿を依頼に
言ったが、皆さんも同じく辛い過去を隠して生きてきた、それを今更公表はできないとのことであった。でも 遺書として語って下さいと頼み、80人の方に書いて頂きました。なので一字一句逃さず、この本をに読んで頂きたい
●岡田
被爆当日のことを伺えますか?
松山さん
私は三井造船所に動員されていました。爆心地からは約4キロ離れた場所で
被爆しました。4キロ離れた場所では光を感じたが熱などは感じなかった。
しかし爆発の光の後、爆風が建物を襲い窓のガラスはすべて割れ、その破片で
怪我をしている人がいました。その後、解散となり三井の造船所を出たところから
地獄でした。火傷をした人が列になって歩いてくるのです。皆、幽霊みたいに、両手を 前にして、手の指は貼りついて、腕の皮は、焼け落ちて腕からボロ布を下げているみたいで顔などは、腫れて膨れ上り人間の顔でなかった(写真はその様子を伝える松山さん、左は石田さん)。そんな人が列をなして歩いていた。そんな方はその日のうちか、2・3日中には亡くなってしまった。
その後広島市内から離れた故郷に戻りました。故郷の村では、救助隊を編成して広島市内に救助向かった人が沢山いましたが、救助活動を終え村に帰ってくると私より先にどんどん亡くなって行きました。救助活動で市内に何日もいて被爆してしまったからで 歯茎から血が出たり、下痢が止まらなくなったり、まゆ毛や髪の毛がどんどん抜けてしまったりして亡くなりました。私も同じ症状が出ていたのでその時は死を覚悟しました。でも若かったからかも知れないが3~4か月ほどして回復していきました。被爆の症状は、人それぞれだったと思います。
石田さん
私は学校のイモ畑で友人5人と作業中に被爆しました。南東の空にB29が綺麗に見え、その飛行機から何かが投下された。それが原爆で上空で爆発し光が見えた。
そのころは光が見えると身を隠す練習をしていたので、すぐに畑の畝に身を隠しました。 そして、真っ暗のなか目を凝らして周りを眺めると、校庭の半分にいた軍隊の人はほとんど動かず即死みたいだった。隣の畝にいた友人を揺すってみると、背中の皮がズルッと剥けて動かなかった。5人いた友人の内3人は即死だった。
その後、爆風が襲ってきた。最初の爆風では飛ばされなかったが、私がいた場所は
すぐ山の近くだったので、山に反射した爆風が戻ってきてその時に、生き残った友人と2人30~40mほど飛ばされ、校舎も崩れてしまった。その校舎のなかに先生がいてなんとか校舎が崩れる中、先生のそばまで辿りついたが、大きな梁に先生は挟まれていて、子供二人では助けることができなった。その先生は、二人に家に帰るように言われたそうです。
後でなぜ石田さんが助かって隣の友人は亡くなったのでしょかと、お伺いすると
石田さんの洋服も焦げていたそうです。しかし 被害(光)に波があり石田さんは
たまたま、その波の良いとこにいたから助かったと話されていました。
学校を出ると松山さんと同様に幽霊のような火傷を負われた方が、たくさんいて水を欲しがられてそうです。その後自宅に戻られると家は柱だけを残して崩れており、庭で洗濯をしていたお母様は血を噴き出し倒れておられたそうで、必死に崩れた家から布団を引きづり出し、引きちぎり止血されたそうです。その後お母様は外傷は酷かったものの百歳近くまでご存命だったそうです。
●岡田
今後のことを伺えますか?
石田さん
世界が平和で核兵器は使用しないでほしい。
松山さん
被爆2世や3世、そして4世などのことを考えていかねばならない。
(松山さんの娘さんは42歳でガンになり亡くなってしまわれた。)
この本の収益で2世のための会を立ち上げたいと私たちは思っています。
そして原爆被害の事だけではなく、日本の加害責任も語っていかなければいけない。広島は原爆を落された都市でもあるが、軍港都市として日本の軍隊を
明治ごろから数えて19回も送りだしている都市という反面もあります。
最後に核兵器を持って人類を守ることは出来ない。
武器を持つとそれを使用したくなるのが人類である
●例会担当 岡田挨拶
アメリカ大統領オバマ氏が原爆投下国の責任として核廃絶を
目指すと宣言された。私はアメリカの大部分の人も、もう二度と
核兵器を使用することは、考えていないと思っている。
それは、広島や長崎の人が多くの情報を発信し原爆の悲劇を
全世界に伝えているからだと思う。
「ヒロシマ・ナガサキ 八月のあの日」(1600円)の問い合わせは、寝屋川市広長友の会事務局(072-824-1181)
寝屋川市にお住まいの被爆者で作る「寝屋川市広長友の会」が、昨年末に被爆体験集「ヒロシマ・ナガサキ 八月のあの日」を出版され、その編集に携わられた松山五郎さん(80歳)と石田尚三さん(76歳)に体験、平和への思いを語ってもらいました。
ご興味お持ちの方はぜひ「ヒロシマ・ナガサキ 八月のあの日」(1600円)をご購入ください。そして、平和を続けるためにその記憶を次代に引継いで行ってください。本の問い合わせは、寝屋川市広長友の会事務局(072-824-1181)
その様子はFIメンバーの高仁鳳さんが、自身のホームページ「鳳@bongのpage」
で公開していますので、ぜひご覧ください。講演の映像もアップしています。
http://www.inbong.com/2009/fi/fi0807/
また、FIメンバーで、特殊建築金物・特殊金属部品加工専門工場「戸富」の山本謙一さんが書かれた議事録を以下に転載します。ぜひともお読みください。
今例会担当 岡田より挨拶
FIはビジネスの会ですが今回は平和と人権について
考えたいと思います
平和でなくてもビジネスは成り立つが(戦後の朝鮮戦争特需のように)
平和と人権があって、はじめて幸福なビジネスになるのではと思っています。
今回の戦争体験を記憶して次の世代に繋いで行くことが大切なことでは
ないかと思います
今回の講師のお二人から 被爆者からのメッセージ「八月のあの日」という本を
30冊寄贈して頂いており、FI会員の皆様には1社1冊無料で
配布させていただきます。
講師の自己紹介
○松山五朗 氏
旧制中学4年生の時に被爆 その後広島で教員をされ退職後、寝屋川に来られました
○石田 尚三 氏
12歳で被爆 その後保険会社に勤務、日本各地で勤務され退職後、寝屋川に来られました
被爆者の会 寝屋川広長の会副会長
●岡田からの質疑応答形式で話を伺う
●岡田
石田さんの自己紹介の中で勤務中は被爆したことを話したことはなかったと
伺ったのですが、それはなぜでしょうか?
石田さん
話始めると長くなるから(笑)
やはり、戦争中の思いでは、口では話しようがない、嫌な思い出ばかりで、
戦争が終了して軍国主義がなくなり、初めて平和を知った
戦争中は労働力がないため、中学一年生以上は学徒動員、小学四年生くらいからは
防空壕の穴掘り作業や工兵隊の馬の飼葉集めなど、勉強などしていることはなかった。小学校の校庭も半分を軍隊が接収し基地とし、あとの半分をイモ畑とし労働力がないため子供達が作業を行っていた。
松山さん
私も広島で教員をしていたが、その間は被爆体験のことを話せなかった。
教員としては、子供たちに話さないといけなかったが、話せなかった。
私は被爆した後、広島の田舎の方に逃げてしまったからだ。
私の友人の中には被爆して、焼けただれた先生を診療所まで運んでいった人もいた
その友人の服の背中には運んだ先生の皮膚が背中一面についていた。
私にはそんな美談がなかったので、話せなかった。
今回 「八月のあの日」の本を出版するにあたって、被爆者の方に原稿を依頼に
言ったが、皆さんも同じく辛い過去を隠して生きてきた、それを今更公表はできないとのことであった。でも 遺書として語って下さいと頼み、80人の方に書いて頂きました。なので一字一句逃さず、この本をに読んで頂きたい
●岡田
被爆当日のことを伺えますか?
松山さん
私は三井造船所に動員されていました。爆心地からは約4キロ離れた場所で
被爆しました。4キロ離れた場所では光を感じたが熱などは感じなかった。
しかし爆発の光の後、爆風が建物を襲い窓のガラスはすべて割れ、その破片で
怪我をしている人がいました。その後、解散となり三井の造船所を出たところから
地獄でした。火傷をした人が列になって歩いてくるのです。皆、幽霊みたいに、両手を 前にして、手の指は貼りついて、腕の皮は、焼け落ちて腕からボロ布を下げているみたいで顔などは、腫れて膨れ上り人間の顔でなかった(写真はその様子を伝える松山さん、左は石田さん)。そんな人が列をなして歩いていた。そんな方はその日のうちか、2・3日中には亡くなってしまった。
その後広島市内から離れた故郷に戻りました。故郷の村では、救助隊を編成して広島市内に救助向かった人が沢山いましたが、救助活動を終え村に帰ってくると私より先にどんどん亡くなって行きました。救助活動で市内に何日もいて被爆してしまったからで 歯茎から血が出たり、下痢が止まらなくなったり、まゆ毛や髪の毛がどんどん抜けてしまったりして亡くなりました。私も同じ症状が出ていたのでその時は死を覚悟しました。でも若かったからかも知れないが3~4か月ほどして回復していきました。被爆の症状は、人それぞれだったと思います。
石田さん
私は学校のイモ畑で友人5人と作業中に被爆しました。南東の空にB29が綺麗に見え、その飛行機から何かが投下された。それが原爆で上空で爆発し光が見えた。
そのころは光が見えると身を隠す練習をしていたので、すぐに畑の畝に身を隠しました。 そして、真っ暗のなか目を凝らして周りを眺めると、校庭の半分にいた軍隊の人はほとんど動かず即死みたいだった。隣の畝にいた友人を揺すってみると、背中の皮がズルッと剥けて動かなかった。5人いた友人の内3人は即死だった。
その後、爆風が襲ってきた。最初の爆風では飛ばされなかったが、私がいた場所は
すぐ山の近くだったので、山に反射した爆風が戻ってきてその時に、生き残った友人と2人30~40mほど飛ばされ、校舎も崩れてしまった。その校舎のなかに先生がいてなんとか校舎が崩れる中、先生のそばまで辿りついたが、大きな梁に先生は挟まれていて、子供二人では助けることができなった。その先生は、二人に家に帰るように言われたそうです。
後でなぜ石田さんが助かって隣の友人は亡くなったのでしょかと、お伺いすると
石田さんの洋服も焦げていたそうです。しかし 被害(光)に波があり石田さんは
たまたま、その波の良いとこにいたから助かったと話されていました。
学校を出ると松山さんと同様に幽霊のような火傷を負われた方が、たくさんいて水を欲しがられてそうです。その後自宅に戻られると家は柱だけを残して崩れており、庭で洗濯をしていたお母様は血を噴き出し倒れておられたそうで、必死に崩れた家から布団を引きづり出し、引きちぎり止血されたそうです。その後お母様は外傷は酷かったものの百歳近くまでご存命だったそうです。
●岡田
今後のことを伺えますか?
石田さん
世界が平和で核兵器は使用しないでほしい。
松山さん
被爆2世や3世、そして4世などのことを考えていかねばならない。
(松山さんの娘さんは42歳でガンになり亡くなってしまわれた。)
この本の収益で2世のための会を立ち上げたいと私たちは思っています。
そして原爆被害の事だけではなく、日本の加害責任も語っていかなければいけない。広島は原爆を落された都市でもあるが、軍港都市として日本の軍隊を
明治ごろから数えて19回も送りだしている都市という反面もあります。
最後に核兵器を持って人類を守ることは出来ない。
武器を持つとそれを使用したくなるのが人類である
●例会担当 岡田挨拶
アメリカ大統領オバマ氏が原爆投下国の責任として核廃絶を
目指すと宣言された。私はアメリカの大部分の人も、もう二度と
核兵器を使用することは、考えていないと思っている。
それは、広島や長崎の人が多くの情報を発信し原爆の悲劇を
全世界に伝えているからだと思う。
「ヒロシマ・ナガサキ 八月のあの日」(1600円)の問い合わせは、寝屋川市広長友の会事務局(072-824-1181)
FIはビジネスの会ですが、年一回だけでも、このような催しができればと思っています。次回開催する場合は、はもう少し早めにご連絡します。
はい、私もそう思います。
年に一度だけでもこういう催しを行えればいいのですが。
この所はやはり広島・長崎の原爆投下の悲惨な実情を報道する番組を多く見ることが出来ます。それでも語り部が毎年毎年少なくなってしまうことが恐いですね。
本当の恐怖は体験した方にしか語れない、また活字より、言霊の方が絶対伝わりますね。
次回こそは是非...
そういえば、子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃんに、戦時中の話をよくしてもらったものでした。
当時は、また戦争の話か! と思っていましたが、今になって理解できるところも、たくさん出てきました。
戦争の悲惨さ、原爆の非道さを後世に伝える活動。本当に大切だと認識しました。
フォーラム・アイとして今後も少しでも貢献できればいいですね。