チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

フスにリベンジ

2005年02月28日 06時03分38秒 | キリスト教
別に宗教改革の専門家なわけでもなく、フスに特別な思い入れがあるわけでもないのですが、1度目は建物の前を素通りしてしまい、2度目は町のホームページに騙されて閉館時間に行ってしまったとあっては、コンスタンツのフス博物館を見ないで日本に帰るわけにはいかなくなり、ついにリベンジを果たしてきました。

ヤン・フスはボヘミア(現在のチェコの西部・中部地方)出身のカトリック祭司にして宗教改革者。ボヘミア南部のフシネツ (Hussinetz) が生地であることから、フシネツ(省略形:フス)のヤン (Jan。Johannes とか John と同じ)と呼ばれたそうです。1369年の生まれと言われていますが、実際の生年はもっと遅いという話。

聖職者であり、またカルル大学(プラハ)の総長も務めたヤン・フスは、ローマ・カトリック教会を厳しく批判したために1411年に破門、コンスタンツ公会議(1414~18年)で自身の見解を述べるためコンスタンツへと赴きましたが、捕らえられ、公会議では有罪の宣告を受け、1415年7月6日に焚刑に処せられました。

コンスタンツのフス博物館は、フスがコンスタンツに来て、捕らえられるまでの短い期間に住んでいた家を使っています。1923年以来、プラハのフス博物館協会が所有しているとのこと。普通の家と見間違うような入口を入ると、左側に係の男性が何も言わずじっと座っています。なんとなく気まずい感じで、思わず「見て回ってもいいですか?」と尋ねると(博物館なんだから当たり前だろうとは思いつつ)、「どうぞ」とのこと(入場は無料)。まず1階の部屋を覗くと、暗い中に置かれたショーケースに、フス関係の文献が並べられていました。その中に、日本語の本(プラハの異端者たち: 中世チェコのフス派にみる宗教改革 /薩摩秀登著)もあったのでちょっとびっくり。解説が付されており、「日本ですら(!)フスの研究がなされている」ですって。

2階はいくつかの部屋があり、プラハに焦点を置いた部屋、フス自身に関する部屋、コンスタンツ公会議の部屋、フス派とフス戦争を扱った部屋などに分かれていました。上の写真は、フスに関する部屋に置かれていた胸像です。

子どもたちにはまったく興味が湧かない場所だったようで(そりゃそうでしょうけど)、早々に引き揚げる破目に。宗教改革を子どもに説明するのは結構大変です。

帰り際に、係の男性(チェコ人でした)と少ししゃべったのですが、尋ねれば色々教えてくれるけれど、最初に説明をしてくれるでなし、詳しいガイドブックがあるでもなし(最後に簡単な説明プリントを1枚もらったので、ようやく展示全体が理解できたくらいです)、なんとも愛想のない博物館ではありました。

別に、コンスタンツの町がフスを迫害したわけではないにせよ、このような、コンスタンツにとってはあまりにも気まずいはずの出来事を記念する博物館が堂々とここにあるというのは不思議な気もします(所有しているのはチェコですが)。博物館の前の通りは、結構人通りもある旧市街なのですが、フス通りという名前がついていました。教会の見解に異を唱える人間を火あぶりにしてしまうという、なんともおぞましい出来事の「記念」から、どういう意味を読み取ればいいのか……。考えさせられる博物館です。
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おもちゃの切符

2005年02月27日 06時17分58秒 | Weblog
スイス鉄道(SBB)は、子供連れに寛大です。子ども連れの家族が利用しやすいような工夫をいろいろとしています。

なかでも一番驚かされるのが、Junior Card というサービスで、6歳から16歳までの子ども(16歳を果たして「子ども」と言っていいかどうかはともかく)は、そもそも通常料金の半額ですが、このカードを親が買っていれば(年間20フラン)、親と一緒に乗る場合はいつでもタダというものです。(ホームページには Junior Card という名前で出てきますが、Juniorkarte と呼んだり、Familienkarte と言ったりもしています。どれでも通じますが。)これは結構太っ腹なサービスです。

そのほか、Familienwagen (家族車両)というものも一部の列車(主としてインターシティ)に連結されており、この車両には、小さな子どもが退屈しないための遊具などが設置されています。子どももいないのにうっかりこの車両に座ったりしたら大変。うるさくてやりきれません。

最近、SBBは2階建て車両を多用していますが、2階はこの家族車両、1階は通常車両というものがあり、先日この1階に座ったら、天井がどんどんと鳴り響いて、そのうち抜けるのではないかと思うほどでした。うちのガキどもは、もう家族車両に行きたがる年齢でもなく、おとなしく座っています(親の躾の成果!)。

冒頭の写真は、子ども用のおもちゃ切符 (Spielbillet) です。列車に乗ると、車掌さんが検札に回ってきますが、子どもがいるとこの切符をくれることがあります(くれない時は頼めばOK)。写真のものは、うちのガキどもが集めた切符。車掌さんはちゃんと検札の鋏も入れてくれます。こうやって列車の旅を楽しませようという小さな工夫でしょうが、ガキどもが楽しみにしているところを見ると、少なからぬ効果があるようです。

子どもには寛大な SBB。しかしそれも、大人から結構な料金を取っているからこそでしょう。切符代は決して安くありません。だから、よく利用する人はたいてい何らかのパスを持っています。検札の様子を見ていると、1年有効の全区間有効パス(Generalabonnement) を持っている人が結構います。1年で2990フラン(約27万円)もするのですが、そのモトが取れてしまうということに違いありません。(ちなみに、16歳から25歳までだと2200フラン=20万円弱、定年退職者は2250フラン=20万3000円。)

SBB には半額パス (Halbtaxabo) というのもあって、1年有効150フラン(約1万3500円)を購入すれば、ほぼ全ての切符が半額で買えるのですが、それよりも Generalabo を買ったほうがトクだというくらい列車に良く乗り、SBB の収入に貢献しているスイス人は多いようです。それくらい Generalabo を持ったスイス人をよく見かけます。しかし、九州くらいの大きさしかないこの国で、1年に27万円以上切符代に使うとは。ひと月に2万2500円以上使わないとモトが取れないというのに。SBB が子供連れをターゲットにしているのは、戦略として正しいのかも。
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スイス人の信仰心

2005年02月26日 05時30分51秒 | キリスト教
今日の「20 Minuten」紙に載っていた記事。「信仰心あるスイス人:77%が神を信じている」。

Das Beste/Reader's Digest がヨーロッパ14カ国で行なったアンケートの結果によれば、スイス人の77%が神を信じているとのこと。ヨーロッパの平均は70%ですから、スイス人は平均以上といういうことになります。

ちなみに、
1位 ポーランド(97%)
2位 ポルトガル(90%)
3位 ロシア(87%)
4位 スペイン(80%)
5位 スイス(77%)
6位 フィンランド(74%)

だそうで、神信仰の薄いほうは、

3位 ベルギー(58%)
2位 オランダ(51%)
1位 チェコ(37%)

とのこと。さらに、スイス人の64%は、死後の生というものがあると信じているそうで、これも、ヨーロッパ全体の平均53%を大きく上回っています。また、何が正しく、何が誤っているかを見極めるのに宗教が必要だと考えている人は54%(ヨーロッパ平均:43%)。宗教共同体に積極的価値を認める人は61%(ヨーロッパ平均:53%)。いずれも、ヨーロッパの平均よりもかなり上を行っています。

カトリック教会はこの結果を喜んでいるとか。プロテスタント教会のスポークスマンは、スイス人の宗教心が、正教会やカトリックの影響が強い国々と近く(上の順位を見ればわかります)、プロテスタント諸国と異なっていることを興味深く思うと答えているそうです。

スイスのキリスト教関係者にとって、この数値は本当に喜ぶべきものなのかどうか、直ちには判断しかねますが(ぜひ、カトリックの州とプロテスタントの州を別々に調べてほしかった)、ヨーロッパの中でも「キリスト教」で有名な国々がいかに「非キリスト教化」されてきているかがよくわかる数値であることは確かです。神信仰の薄いほうに、ドイツやフランスの名前が挙がっていないだけでも、まだマシということなんでしょうか。マルティン・ルター先生がこの結果を見たらどう思うことか。

(冒頭の写真は、チューリヒ宗教改革のシンボルとも言うべきグロース・ミュンスター[大聖堂]の塔の上から眺めた景色。中央に見えるのは聖ペトロ教会です。)
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コンスタンツ再訪

2005年02月25日 05時17分41秒 | Weblog
1月の末に訪れたドイツとの国境町コンスタンツの印象がとても良かったので、妻と再訪しました。

主な目的は、前回すっかり忘れていた、宗教改革者ヤン・フスの博物館を訪れることだったのですが、なんとフス博物館に騙される結果となりました。

事前にコンスタンツの町のホームページで開館時間を調べたら、冬季は10:00~12:00と14:00~16:00とのこと。これを信じたのが間違いで、朝早くから出かけて、建物にたどり着いたら、なんと実際は午後しか開館していないとのこと。14:00にはコンスタンツを離れないといけなかったので、とうとう今回も博物館見学は果たせないことになってしまいました。仕方ないので、建物の写真だけ撮って退散(冒頭の写真)。

いくらフスを、コンスタンツの公会議が騙して逮捕・投獄、焚刑に処したからといって、見学者まで騙すことはないでしょうに。コンスタンツの町もやりすぎです。騙されて処刑されたフスの腹立たしさがわかるような気がしました。

もう一つ騙されたこと、というか、こちらは僕が勝手に思い違いしていたのですが、国境なのにチェックがない、というのは(前回の記事にそう書きましたが)嘘でした。

チューリヒ中央駅からコンスタンツまでは、1時間に1本の直通列車が出ていますが、それとは別に、途中のヴァインフェルデン (Weinfelden) というところで乗り換える行き方もあります。今回はこちらの方法で行きました。ヴァインフェルデンまではインターシティで行き、そこからローカル列車に乗り換えます。

このローカル列車、コンスタンツ駅のやけに後ろ側に止まったのですが、よく見ると、コンスタンツの駅は、前後でスイス駅とドイツ駅に分かれているのです。直通列車はいきなりドイツ側に止まるのですが、ローカル列車は律儀にも、いったんスイス側駅に止まって客を降ろした後、ちょっと前進してドイツ側駅に移り、そこで客を乗せています。

スイス側の駅に止まると、スイス出国・ドイツ入国のパスポート検査を受けないといけません。今回はしっかり、2回パスポートのチェックをされました。前回は、いきなりドイツ側駅に止まったうえに、土曜日ということもあってか、国境係員がサボっていた(休んでいた?)ために、何のチェックも受けずにあっさりドイツに入国できたわけです。やっぱり国境。そんなに甘くはない。

帰りは、直通列車に乗るべく、いきなりドイツ側の駅から乗り込んだのですが、駅のホームにしっかりと国境係員が待っていました。ところが、我々はノーチェック。見るからに日本人だったからか、来たときのチェックで顔を覚えられていたのか。中東人っぽい男性が一人、厳しくチェックされた挙句に、どこかへ連行されていきました。

コンスタンツでは、あまり時間がないこともあって、昼食にケバップを食べたあと、駅前のショッピングモールで買物。地下のスーパーマーケットに行き、ワインや乳製品などを、持てるだけ買い込んできました。ワインは主に、土地の人が飲みそうな安いテーブルワイン。チューリヒで飲む分だけで、日本に持ち帰る予定はありません。スイスからドイツに来て乳製品を買うのもヘンだとは思ったのですが、何しろ安さが違うもので。つくづく、スイスの物価の高さを思い知らされます。

帰りの列車には、我々と同じように、ドイツで安い食料品を買い込んだと思われるスイス人が結構乗っていました。やっぱりね。
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おもちゃ博物館

2005年02月24日 06時30分13秒 | Weblog
先日、急に思い立って、おもちゃ博物館 (Zuercher Spielzeug Museum) に出かけました。土曜の午後だったので、遠出する時間も気力もなく、近場で面白そうなところということで、以前から知ってはいたけど行くことのなかったこの博物館を覗いてみることにしたわけです。

おもちゃ博物館は、チューリヒ中央駅からバーンホーフ通りをまっすぐ湖の方向へ進み、レンヴェーク (Rennweg) というトラム停留所を少し過ぎたところで左折し、まっすぐ行けばあります(我々は道を間違えて、ずいぶん遠回りをしてしまいましたが)。なんてことない普通の建物の5階に入っているので、うっかりすると見過ごしてしまいそう(写真が入口です。右側に3つついている看板の一番上がそう)。入口を入り、突き当りを右に行くと、古めかしいエレベーターが。そのエレベーターで5階まで上がるのですが、上がってエレベーターのドアを開けると(手で開ける!)、なんとそこはすでに博物館の中。

博物館は入場無料(なのも、ここに来た理由の一つ。ちょっとセコいけど)。端から端まで20メートルもないような狭いフロアと階上の小さな展示スペースから成っています。

中に入ると、不思議に日本語が聞こえてきました。日本人の観光客が連れ立って来ているのかなどと勝手に想像していたら、一人はこの博物館の管理を任されている人でした。博物館を所有しているおもちゃ屋フランツ・カール・ヴェーバーに雇われているのでしょう。別に、日本人だから雇われているというわけでもなさそうです。とても親切なおばさんでした。

フロアの左側には、18世紀(?)~19世紀頃のいわゆるフランス人形が並んでいます。西欧の人形は、確かにリアルな顔立ちなのですが、あまりにリアル過ぎて、可愛いとは言いがたいような様相です。よく見ると、スイスのものはあまりなく、ドイツやフランスから持ってきた人形が多いのですが、係のおばさんによれば、当時のスイスは、子どもが上等な人形で遊ぶような裕福な家が多くなく、こういう人形はドイツやフランスでよく売られていたとか。

反対側には、いわゆるプッペンハウス(英語で言えばドールハウス)が展示されています。これも、微細なところまでリアルに作られているのが特徴です。もともとは1軒の家全体を模して作っていたのが、次第に各部屋を独立させた、ひと部屋ものも作られるようになったということで、その際によく作られたのは台所、というのはまぁわかる気がします。

階段を上がったところにある小さな展示スペースでは、絵本作家 Marcus Pfister 特別展をやっていました。『にじいろのさかな』(Der Regenbogenfisch) などで有名な彼の絵本は、邦訳もされています。著者名はマーカス・フィスター。こう書くとアメリカ人みたいですが、スイス人です。マールクス・プフィスターってほうが近い感じです。絵本の販売もされていましたが、日本語版を買ったほうが安いので、絵本はとりあえずやめて、絵葉書だけ購入してきました。

この博物館は、フランツ・カール・ヴェーバーのコレクションだそうですが、この有名な老舗おもちゃ屋も今はデンナーに買収されているそうです。店は、バーンホーフ通りで元気に営業しているのですが。

このおもちゃ博物館、平日14:00~17:00、土曜13:00~16:00。こういう開館時間の短い博物館が意外とスイスには多いです。税金対策で開いているからでしょうか。係員が日本人なので、閉館時間が近づいたからといって迷惑そうにされることはありません。時間ぎりぎりまで快く見せてくれます。
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5ラッペンの危機

2005年02月23日 05時31分51秒 | Weblog
学校から帰ってきた娘が、「5ラッペンってなくなるんだよね?」と言います。この話、初耳ではありませんでした。少し前の「20 Minuten」紙にもこの記事が載っていたからです。ただし、なくなることが決まったとは書かれてなかったのですが。

娘が言うには、5ラッペン硬貨1枚を造るのに6ラッペンかかっているとか。その割には流通が悪い(そういえば日本にも2000円札というものがあったけど、どうなったのか……)ことも、廃止検討の理由になっているそうです(これは新聞記事による)。

スイスの通貨はスイスフランですが、ドイツ語圏では「フランケン」、補助単位を「ラッペン」と呼んでいます(フランス語圏では「サンチーム」。1フラン=100ラッペン=100サンチーム)。硬貨は、高いほうから5フラン(フュフリバーと呼ばれているようです)、2フラン、1フラン、そして50ラッペン、20ラッペン、10ラッペン、5ラッペンとなっています。写真でおわかりいただけるように、5ラッペンは金色(?)をしており、その他の硬貨は銀色です。50ラッペンが、なぜか10ラッペン・20ラッペンよりも小さくてわかりにくいのも「特徴」の一つ。硬貨のデザインは1870年代から変更されていないそうです(ウィキペディアによる)。

現在スイスでは、1ラッペンや2ラッペンという硬貨は流通していません。昔はあったらしいのですが、いつ頃からか使われなくなりました。したがって、物の値段はすべて5ラッペン単位でつけられています。9フラン95ラッペン、といった具合です。(ご参考:最新レートでは1スイスフラン=89円83銭。ちなみに1ユーロは137円94銭。)

以前、まだドイツマルクが使われていた頃、スイスからドイツに行き、ドイツマルクを入手して買物に行ったとき、ペニヒ (Pfennig) 硬貨の種類の多さに閉口した記憶があります。ドイツのお金に慣れていなかったことがもちろん大きな理由でもあったわけですが、37ペニヒとか、43ペニヒといったときに、1ペニヒや2ペニヒ硬貨をどう混ぜて払えばいいのかがとっさにわからず、面倒臭くなってついつい紙幣で払い、あっという間に財布の中にペニヒ硬貨がたまっていったものです。同じようなことは最近ユーロ(セント)硬貨でも経験しました。以外に扱いにくい曲者は2セント硬貨です。

もし5ラッペン硬貨が廃止されたら、物の値段が10ラッペン単位でつけられることになるわけで、きっと切り上げになるでしょう。85ラッペンのものは90ラッペン、もしかしたら1フランに便乗値上げされるかも。それでも多くのスイス人は文句を言わないのではないかと想像したくなります。だって、5ラッペン硬貨を受け取るときの皆の嫌そうな顔。5ラッペンで幸せになるのは、ウチの息子くらいです。なぜか道によく落ちている5ラッペンを見つけては大喜び。う~ん。小市民。
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奇跡の年から100年

2005年02月22日 05時42分44秒 | Weblog
午後から、調べものがあって神学部図書館に出かけました。神学部の1階廊下においてあった大学新聞 (Unijournal) を取って、帰りのトラムで読んでいたら、アインシュタインに関する記事が。

2005年は、「アインシュタイン記念」の年なのだそうです。アインシュタインが「光量子仮説」「ブラウン運動理論」「特殊相対性理論」に関する論文を、数ヶ月のうちに立て続けに5本発表した1905年は「奇跡の年」 (Annus mirabilis) と呼ばれていますが、その100周年記念にあたるということです。

チューリヒ大学も、このブーム(?)に乗り遅れるわけにはいきません。何と言ってもチューリヒ大学は、アインシュタインに博士号を授与した大学であり、彼が教授として勤めた大学でもあるからです。

アインシュタインが学んだのは、チューリヒ大学ではなく、工科専門学校 (Polytechnicum。現在のETH)でしたが、工科専門学校には学位授与権がなかったため、博士論文はチューリヒ大学に提出されたそうです。

当時ベルンの特許局に勤めていたアインシュタインがチューリヒ大学に出した博士論文は「分子の大きさの新しい決定法」(Eine neue Bestimmung der Molekueldimensionen) というものでした。上の写真は、チューリヒ大学から授与された博士号証書です。日本語版ウィキペディアには、最初アインシュタインが提出した論文は特殊相対性理論に関するものだったが、内容が大学に受け入れられなかったため、上述のものと差し替えたと記されていますが、このことは大学の恥になると思っているのか、大学新聞にはそのあたりの事情は載っていません。

1909年、アインシュタインは理論物理学の員外教授 (Extraordinarius) としてチューリヒ大学に招聘されます。それまでベルンで私講師 (Privatdozent) をしていたアインシュタインがチューリヒに招聘されるまでのくだりを大学新聞は少していねいに書いています。当時の物理学教授であったアルフレート・クライナー教授が、員外教授の枠をわざわざ設け、ベルンまでアインシュタインの講義を聴きに行ったが、その講義の出来がよくなかったこと、しかし再度のチャンスを得てついに招聘が決まったこと、彼のユダヤ人としての出自が妨げとならないよう配慮がなされたことなど。

大学新聞によれば、アインシュタインはチューリヒを気に入っていたが、員外教授職に満足できず、数年後にプラハに移ったということです。それが事実かどうかはともかく、チューリヒ大学にとってアインシュタインが重要人物であることは間違いなさそうです。

「アインシュタイン・イヤー」の今年、チューリヒ大学では、記念シンポジウムや、「チューリヒのアインシュタイン展」(10月1日~29日)、公開講義などが予定されています。
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ポリバーン

2005年02月21日 04時41分39秒 | Weblog
チューリヒ中央駅から東側、橋を一つ渡ったところに、Central という停留所がありますが、そこに、小さなケーブルカーの駅があります。その名は Polybahn。

このポリバーンは、Central と、ETH(連邦工科大学) の近くとを結んでおり、所要時間はものの数分です。トラムだと、6番や10番に乗って、道を大回りするのですが、ポリバーンに乗れば、高台にある ETH や大学まで短時間でまっすぐ行くことができます。

Polybahn という名称はおそらく、ETH すなわち POLYtechnikum (工業専門学校)に向かうためのケーブルカーというところから来ているのでしょう。1889年に営業を始めたときは、Zuerichbergbahn(チューリヒ山電車)と称していたそうです。今では電気を使った無人電車なのですが、1897年までは水力で動いていたという話です。(Polybahn について説明したページによる。)

大学に向かう人たちのために設けられているケーブルカーらしく、運行は、月~金曜日が朝6時45分から夜7時15分まで、2~5分間隔。土曜日は朝7時半から午後2時までで、日曜・祝日は運休。電車がETH 近くの駅に止まるたびに、たくさんの大学関係者が吐き出されてきます。年間利用者は200万人にものぼるとか。

スイスは、坂の多い国らしく、こういった短い距離を走るケーブルカーがあちらこちらで見られます。チューリヒ市の中にもまだありますし(例、Seilbahn Rigiblick。これは、トラム9番、10番、バス33番の同名の停留所から、チューリヒ山の上のほう、すなわち大金持ちが住んでいる地区へと上がっていくものですが、ちょうど終着駅の近くに学生寮があるためでしょうか、金持ちっぽくない人、若い人がたくさん乗っています。金持ちは自家用車やタクシー利用でしょうから)、ベルンの連邦議事堂 (Bundeshaus) の裏手や、フリブールの旧市街へ向かうもの(これはいまだに水力)など、坂の多い町を住みやすくするための工夫として短距離ケーブルカーが利用されています。

坂の上にある ETH やチューリヒ大学に行く用事なんてそうそうないかもしれませんが、チューリヒに来られたら、土産話の種に乗ってみるのもいいかもしれません。ただし、ケーブルカー自体にはそれほどの感動はありません。乗って上まで来たら、ETH 本館前のテラスから市街を眺めるといいと思います。記念写真には格好の情景です。
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日焼けサロン

2005年02月20日 06時56分50秒 | Weblog
町でやたらに見かけるのが、写真のような店。Solarium というのは、辞書をひけば「(医療・保健用の)太陽灯照射室、人工日光浴装置」とありますが、医療用ってだけでこんなにあちこちにあるはずもなく、要するに日焼けサロンってことなんでしょう。

チューリヒおよび近郊地区の職種別電話帳(イエローページってやつ)で調べると、なんと49件も見つかりました。そんなにあるのか……。

しかし、不思議なのは、どの店を見ても客がいないということ。係員の気配すらない店もあります。すっかり居直って「セルフサービス」と張り出している店まである始末。そりゃ、こんなにガラガラでは、高い高いスイスの人件費がペイしないでしょう。いまだに、お客がこの手の店に入っていくのを見たことがありません。オレは日焼けが好きだ、と豪語しているスイス人にもお目にかかからない。散歩が好きでたまらないスイス人はいくらでもいますが。

それに応じて(というべきか)、日焼けしているスイス人も見たことがない。だいたい、スイス人の大多数を構成している白人は、少々日焼けしたって、肌が赤くなるだけで、綺麗な日焼けには程遠い姿になるとは思いますけど。

ベルンではこのような店を見た記憶がないので、スイスを離れていたこの5年間の間に大流行でもしたのでしょうか。あるいは、チューリヒには以前から存在していたのを知らなかっただけなのでしょうか。

そういえば、12月に泊まった、ドイツのドナウエッシンゲンのホテルにも、この Solarium がついていました。いつ、誰が、どうやって利用しているのか皆目見当のつかない不思議な施設です。こんなところに行くヒマがあったら、森や川に散歩に行くほうがスイス人には似合っているはず。
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シュミート教授と昼食

2005年02月19日 06時31分25秒 | キリスト教
すでに冬学期の授業期間が終っていることもあり、もともとあまり顔を出さなかった大学にますます行かなくなっていたのですが、久しぶりに神学部へと向かいました。旧約聖書学のコンラート・シュミート教授 (Prof. Konrad Schmid) とランチの約束をしていたからです。

シュミート教授の写真は、神学部のホームページから拝借しました。すでに公開されているものなので、ここで紹介しても差し支えないでしょう。

写真からもわかるように、シュミート教授は1965年生まれ、今年40歳になるという、まさに新進気鋭の学者です。チューリヒ生まれで、博士号も教授資格もチューリヒで取った後、1999年から3年間、ドイツのハイデルベルク大学で教授をしていましたが、2002年からチューリヒに戻ってきました。詳しい経歴や業績などは、神学部ホームページで見ることができます。神学博士号はエレミヤ書、教授資格は創世記と出エジプト記の歴史記述に関する研究で取得しています。

神学部近くのレストランに行き、昼の定食を食べながら雑談。最近EU圏(この場合はスイスも含む)の大学を揺るがしている「ボローニャ宣言」の話から始めました。

北米や日本の大学は、学士・修士・博士の3段階に教育課程が分かれていますが、こちらでは、6年から7年(あるいはそれ以上)かけて大学の卒業資格を取ります。さらに研究を続けたい場合は、博士候補生 (Doktorand) として、教授の指導の下に博士論文の作成に励むことになります。つまり、基本的に2段階です。

神学部の場合、大学の卒業資格を得ると、牧師補 (Vikar/in) として働くことが認められ、その後また試験を経て、正式に牧師の資格を得ることができます。

「ボローニャ宣言」は、大学の課程を基本的に3段階に分けることを趣旨としています。つまり、北米式にするわけです。大学の課程と評価方法をできるだけ統一することによって、大学間での学生の移動をスムーズにしようということらしいのですが、カリキュラム改革が甚だ面倒な上に、そもそも3段階で統一する理由がよくわからない、ということで、現場の教員には不評を買っているようです。シュミート教授は、神学部におけるこの作業の担当者なのですが、彼もこの改革案には不満一杯のようでした。どのみち第2段階、すなわち修士課程まで行かないと牧師になれないのだから(この点が日本の神学部とは違いますが)、学士課程で止める学生なんてほとんどいないはずで、だったらわざわざ学士課程なんぞ設ける意味がない、というわけです。

シュミート教授は、とくに親日家あるいは知日家というわけではないのですが、スイスやドイツとは違う、日本の大学のあり方には少なからず興味があったようで、僕が自分の大学のことを話すといろいろ質問してきました。僕が、毎学期の終りに1000枚くらいの試験答案を見るという話をしたら、目を丸くしていましたが。「助手はいないの?」と尋ねるので、「いないよ」と返事したら、さらにびっくり。

こっちの教授には助手や秘書がついていますが、これは実に羨ましい制度です。常勤の助手や秘書、さらには助手補までついていることも珍しくありません。我々のような、自分で何でもやる教員というのが想像できないようです。ときどき、真剣に助手や秘書がほしくなるときがあるのですが、学部長にすら付けられていない秘書を、一介の助教授に大学がつけてくれるはずもありません(それどころか、自分が助手なのではないかと錯覚してしまうような場合もあります)。わが大学では、秘書は、相当「エライ」役職の人にしかついておらず、逆に言えば、秘書がつくような仕事にはならないほうが幸せである、という逆説的状況が存在するわけです。僕の場合は、業務の一環として僕の仕事を助けてくれる有能な補佐の人が学部の中にいてくれるだけでも感謝すべきところです。

ハイデルベルクのことや、旧約・新約それぞれの学会の話を色々楽しくしゃべっているうちに1時間半ほどが過ぎました。ランチはご馳走になったのですが、自分より年下の人にご馳走になるのは、彼が正教授だとわかっていても、なんとなく悪い気がします。

それにしても、シュミート教授といい、あるいはベルン大学で新約聖書学を講じているマルティン・コンラット教授といい(彼はドイツ人ですが)、自分より年下の人が正教授として聖書学をリードしているのを見ると、その才能に驚くことはもちろんですが、自分もまだまだ努力が足りん、という気持ちにもなってきます。そういえば、我が師匠フォレンヴァイダー教授も、ベルン大学の員外教授として招聘されたときは35歳の若さでした。

今学期は、旧新約聖書学の博士候補生・助手が集まる研究セミナーに参加しましたが、その層の厚さにはびっくりでした。スイスでは若い新約聖書学者が育っていないという話でしたが、研究セミナーを見る限り、後進の育成は着実に進んでいるように思われました。

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