チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

講演記録「葛藤する規範」

2016年07月01日 21時12分51秒 | Weblog
昨年(2015年)6月に、日本基督教学会北海道支部会からお招きを受け、公開シンポジウムで講演をさせていただきました。

シンポジウムの主題は「古典としての聖書と教典としての聖書」。『古典としての聖書」については、戸田聡氏(北海道大学)が講演されました。講演題は「福音書(正典・外典)におけるイエス像—古典としての聖書—」。新約学者への批判も含まれた、なかなか刺激的な内容です。

私は、「教典としての聖書」を担当し、「葛藤する規範—「教典」としての新約聖書—」という題で話しました。

このたび、その講演記録が公刊されたのですが、非売品なため、なかなか手に取って読んで戴くのが難しいかと思います。そこで、私の講演部分をPDFで公開することにしました。私のウェブサイト「TSUJIGAKU研究室」の論文リストからダウンロードしてご覧戴けます。

辻 学「葛藤する規範—「教典」としての新約聖書—」、日本基督教学会北海道支部編『21世紀のキリスト教と聖書:日本基督教学会北海道支部公開シンポジウム記録 第4号』(2016年6月25日発刊)、43-62頁。

どういう内容かを示す一部分を以下に引用しておきます。

「しかし、新約正典を構成する諸文書に神学的な核や一体性がないことを認めつつ、それでいながら「新約正典」を教典として、すなわち規範性を持つ文書として読むということも出来るのではないだろうか。そのためには、パウロやヨハネといった特定の文書だけに規範性を見る(ブルトマン)のでもなく、予め設定された神学的な核に合わせる形で全体の統一性を打ち立てる(シュトゥールマッハー)のでもなく、様々な主題をめぐって正典内の文書同士が相互に譲ることなく対立した見解を提示する、いわば「葛藤する規範」として新約聖書を捉えることが必要になると思う。」(48-49頁)

新約正典とは何かといった問題、また新約聖書神学の是非をめぐる問題にも触れています。ご高覧いただけると幸いです。