チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

ウクライナ侵攻に関する国際新約聖書学会(SNTS)の声明

2022年04月08日 10時16分36秒 | キリスト教
私も会員になっている、国際新約聖書学会(Studiorum Novi Testamenti Societas = SNTS)が先月、ウクライナ侵攻に関するオープンレター(声明)を発表しました。学会の理事会メンバー、そしてこれに賛同する多くの会員が名を連ねています(私も入れてもらいました)。

声明は英語で出されていますので、以下にざっと翻訳をしてみました(改良の余地はありますが、取り急ぎ)。

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Studiorum Novi Testamenti Societas (SNTS) は、「新約聖書の研究を国際的に促進する」ことを目的とした学術団体です。SNTSは、1939年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発するちょうど1年前の1938年9月に最初の会合を開きました。SNTSは、イギリス、オランダ、フランス、ドイツの新約聖書研究者たちが、共通の課題に取り組み、友情を育んだおかげで、ヨーロッパのみならず世界中に壊滅的な打撃を与えた大戦を乗り切ることができました。西ヨーロッパから始まったSNTSは、ここ数十年の間に、世界中に広がる国際的な学会となるべく活動を続けています。現在では、7大陸のうち6大陸に会員がいます。特に1991年のソビエト連邦崩壊後、東欧連絡委員会が発足し、東西ヨーロッパをはじめ、世界各地で新約聖書を研究する人々が共同研究、会議、対話するための条件を整えるなど、SNTSの意図的なグローバル化が進んでいます。

このような歴史と、私たちの学術的なコミットメントや友情は、私たちが、自分たちの研究している新約聖書の文書に明示されている隣人愛と平和への呼びかけに留意する学会として、ウクライナへの侵攻と日々加速している軍事作戦に対して声を上げることを必要不可欠にしています。私たちは、ウクライナの人々との連帯を表明し、この非人道的な侵略と戦争というとんでもない行為を明確に非難するものです。

私たちは、ロシアの科学者と科学ジャーナリストによる侵略を非難する勇敢で道徳的に率直な書簡(現在、https://web.archive.org/web/20220305015357/https://trv-science.ru/en/2022/02/we-are-against-war-en/ で閲覧可能)を心から支持し、侵略の停止とウクライナの人々に対して行われている無法な敵対行為の終結を求める世界中の学者仲間たちと共に立ち上がるものです。私たちは、平和と正義への道とウクライナの民主的自由が将来にわたって確保されることを、心から切に希望しています。
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SNTSがこのような声明を出すのは、学会史上はじめてのことだそうです。

【神学関係】あると便利シリーズ(1) 『神学百科事典』(Theologische Realenzyklopädie)

2014年02月05日 13時36分27秒 | キリスト教


全36巻。第1巻が出たのは1977年。Albert Hauck編集による Realencyklopädie für protestantische Theologie und Kirche - die RE - の第3版が1908年に完結した後(全21巻)、20世紀の神学を網羅する大百科事典として刊行された。2004年完結。ペーパーバックでサイズも小さめの廉価版(Studienausgabe=写真)が出ている。とにかくまずこれを見れば大要がわかるし、文献表も充実しているので便利。とはいえ、結構長大な項目も多い。「主の祈り」(Vaterunser、34巻)は504-529頁で、新約、ユダヤ教、教会史・実践神学の3章に分かれている。「ルター」(Luther、21巻)に至っては、513-594頁。ちょっとした冊子くらいはある。キッテルの『新約神学辞典』(Theologisches Wörterbuch zum Neuen Testament)は英訳が出ているが(『旧約神学辞典』も)、さすがにこれはまだドイツ語版しかない、はず。

こういう事典を出せるのは、ドイツ神学の歴史的な厚みのゆえか。

駅教会

2005年03月13日 06時25分56秒 | キリスト教
チューリヒ中央駅の地下1階、コインロッカーや例の有料トイレマックリーンがあるのと同じ階に、教会を表すピクトグラフのついた場所があります(写真)。

ここは、Bahnhofkirche (まさしく「駅教会」)と呼ばれるスペースで、60平方メートルほどのスペースに、チャペルと応接室が一つずつ、そして談話室が二つ設けられているそうです。中に入って確かめようかとも思ったのですが、毎日300人から500人ほどの人が、静寂を求めて、あるいは瞑想のため、祈りのため、あるいはまた、ここで配布されているメッセージ "Weg-Wort" を読むために来るということなので、その邪魔をしてもいけないと思って止めました。("Weg-Wort" はインターネットでも読むことができます。)

Bahnhofkirche には、カトリックの神父とプロテスタントの牧師が各1名、フルタイムで勤務しています。名前も「教会」だし、チャペルもキリスト教式に作られてはいますが、すべての宗教信仰を受け入れているとのことです。チャペルの中で、異なる信仰の持ち主が同時に祈ることも珍しくないとか。ムスリムの人々のためには特に、祈りのための絨毯を敷いた一角を用意しているそうです。

2001年5月から始まったこの「駅教会」、ドイツやフランスにも同様の施設が存在しますが、キリスト教会が、自分たちの教会堂の中で来会者を待つのでなく、自ら積極的に社会の中で役割を担おうとする努力の現われの一つだと言えるでしょう。

水教会

2005年03月10日 05時16分45秒 | キリスト教
ヴァッサーキルヒェ (Wasserkirche) という、変わった名前の教会堂があります。グロースミュンスターからリマト川の方へ降りたところ、川沿いです。訳せば「水教会」。以前から気になっていたこの小さな教会に、チューリヒ滞在の終わりも近いということで、出かけてみました。

名前の由来は、この教会堂が中世には実際に、リマト川の中の小島に立っていたことにあります。

こんな具合だったようです。
(教会地下に飾られていた絵)

教会の南側にはツヴィングリの像が立っています。


しかしながら、ヴァッサーキルヒェの歴史は、どちらかというと、ツヴィングリ(と彼の宗教改革)に脅かされたというほうが当たっています。

ヴァッサーキルヒェが元来あった場所は、町の守護聖人となっているフェリクスとレグラ (Felix und Regula) が、キリスト教信仰のゆえに拷問を受け、斬首された場所と言われています(紀元300年頃の話)。ちなみにこの二人は、切り離された首を自分で抱え、山側に40歩進んだとされており、その場所が現在のグロースミュンスターになっています。

最初に教会が建てられたのは紀元1000年。当初はロマン様式でしたが、その後、ゴチック様式(13世紀)、後期ゴチック様式(15世紀)のものに建替えられています。後期ゴチック様式のものを建てている最中には、教会のそばから泉が湧き出たそうで、この乳状で硫黄分を含んだ水に癒しの効果があるとされ、それはフェリクスとレグラの力によるものだということになり、多くの病人が癒しを求めて巡礼に訪れたという話です。

宗教改革者ツヴィングリはしかしこの教会を嫌っていたようで、教会内の聖画や祭壇、オルガンを取り除いてしまい、泉も埋めさせてしまいました。そこに置かれていたフェリクスとレグラの像だけは、カトリック信者の手によって、ウリ州アンデルマットに避難させられたそうです。

その後教会堂は倉庫として使われましたが、1634年からは教会の中に市立図書館が設けられました。1917年に市立図書館がツェーリンガー広場に移った後はしばらく空のままでしたが、1940年から42年にかけて大修理が行われ、それ以来ヴァッサーキルヒェでは再び礼拝が行われるようになりました。

これが教会堂の中です。


ヴァッサーキルヒェは、教会組織(Gemeinde)こそ持っていませんが、土曜と日曜の夕方6時からは礼拝が行われています。火曜・水曜の午後2時~5時にも教会の中に入れます。

(今日の話のネタ元はここです。歴史の話はほぼ受け売り。)

チューリヒの聖母教会

2005年03月07日 06時15分08秒 | キリスト教
チューリヒが宗教改革の拠点となった町だということは、世界史を勉強した人なら誰でも知っているわけで、チューリヒといえばプロテスタントの改革派ってことになるわけですが、どっこいちゃんとチューリヒにもカトリックの教会はあるのです。

チューリヒの聖母教会 (Liebfrauenkirche) は、中央駅からトラム10番で2つ目、ハルデンエッグ (Haldenegg) という坂の途中の停留所で下車したその横の高台にそびえ立っています。

 こんな感じ。

ツヴィングリによる宗教改革が行われたチューリヒでは、長らくカトリックの祭儀は禁止されていました。チューリヒがカトリックに門戸を開いたのは実に19世紀、1807年のことだったのです。チューリヒに正式に小教区が置かれたのが1844年。

この聖母教会は1894年の建築だそうで、ヨーロッパの教会としては新しい部類に入るわけですが、1000人収容という礼拝堂の中は、彩色豊かな壁画に囲まれており、それは見事なものでした。改革派好みの(よく言えば)質素な、(正直に言えば)あまりに愛想のない礼拝堂とは違い、雰囲気に飲み込まれるという感じです。

内部の写真を撮って回ろうと思ったのですが、訪れた日が世界祈祷日(3月4日)だったせいなのか、内部では祈りの集いが開かれており、最後部からこっそり撮影するのが精一杯でした。仕方ないので、5フランで売られていた(!)教会の美術ガイドブックを購入して鑑賞。日を改めて見学に行きたいと思っています。

チューリヒといえば、シャガールのステンドグラスで有名なフラウミュンスターだとか、ツヴィングリゆかりのグロースミュンスターにやはり足が向くわけですが、時間があればこの聖母教会もお勧めです。中央駅から歩いたって10分くらいのものです。

フスにリベンジ

2005年02月28日 06時03分38秒 | キリスト教
別に宗教改革の専門家なわけでもなく、フスに特別な思い入れがあるわけでもないのですが、1度目は建物の前を素通りしてしまい、2度目は町のホームページに騙されて閉館時間に行ってしまったとあっては、コンスタンツのフス博物館を見ないで日本に帰るわけにはいかなくなり、ついにリベンジを果たしてきました。

ヤン・フスはボヘミア(現在のチェコの西部・中部地方)出身のカトリック祭司にして宗教改革者。ボヘミア南部のフシネツ (Hussinetz) が生地であることから、フシネツ(省略形:フス)のヤン (Jan。Johannes とか John と同じ)と呼ばれたそうです。1369年の生まれと言われていますが、実際の生年はもっと遅いという話。

聖職者であり、またカルル大学(プラハ)の総長も務めたヤン・フスは、ローマ・カトリック教会を厳しく批判したために1411年に破門、コンスタンツ公会議(1414~18年)で自身の見解を述べるためコンスタンツへと赴きましたが、捕らえられ、公会議では有罪の宣告を受け、1415年7月6日に焚刑に処せられました。

コンスタンツのフス博物館は、フスがコンスタンツに来て、捕らえられるまでの短い期間に住んでいた家を使っています。1923年以来、プラハのフス博物館協会が所有しているとのこと。普通の家と見間違うような入口を入ると、左側に係の男性が何も言わずじっと座っています。なんとなく気まずい感じで、思わず「見て回ってもいいですか?」と尋ねると(博物館なんだから当たり前だろうとは思いつつ)、「どうぞ」とのこと(入場は無料)。まず1階の部屋を覗くと、暗い中に置かれたショーケースに、フス関係の文献が並べられていました。その中に、日本語の本(プラハの異端者たち: 中世チェコのフス派にみる宗教改革 /薩摩秀登著)もあったのでちょっとびっくり。解説が付されており、「日本ですら(!)フスの研究がなされている」ですって。

2階はいくつかの部屋があり、プラハに焦点を置いた部屋、フス自身に関する部屋、コンスタンツ公会議の部屋、フス派とフス戦争を扱った部屋などに分かれていました。上の写真は、フスに関する部屋に置かれていた胸像です。

子どもたちにはまったく興味が湧かない場所だったようで(そりゃそうでしょうけど)、早々に引き揚げる破目に。宗教改革を子どもに説明するのは結構大変です。

帰り際に、係の男性(チェコ人でした)と少ししゃべったのですが、尋ねれば色々教えてくれるけれど、最初に説明をしてくれるでなし、詳しいガイドブックがあるでもなし(最後に簡単な説明プリントを1枚もらったので、ようやく展示全体が理解できたくらいです)、なんとも愛想のない博物館ではありました。

別に、コンスタンツの町がフスを迫害したわけではないにせよ、このような、コンスタンツにとってはあまりにも気まずいはずの出来事を記念する博物館が堂々とここにあるというのは不思議な気もします(所有しているのはチェコですが)。博物館の前の通りは、結構人通りもある旧市街なのですが、フス通りという名前がついていました。教会の見解に異を唱える人間を火あぶりにしてしまうという、なんともおぞましい出来事の「記念」から、どういう意味を読み取ればいいのか……。考えさせられる博物館です。

スイス人の信仰心

2005年02月26日 05時30分51秒 | キリスト教
今日の「20 Minuten」紙に載っていた記事。「信仰心あるスイス人:77%が神を信じている」。

Das Beste/Reader's Digest がヨーロッパ14カ国で行なったアンケートの結果によれば、スイス人の77%が神を信じているとのこと。ヨーロッパの平均は70%ですから、スイス人は平均以上といういうことになります。

ちなみに、
1位 ポーランド(97%)
2位 ポルトガル(90%)
3位 ロシア(87%)
4位 スペイン(80%)
5位 スイス(77%)
6位 フィンランド(74%)

だそうで、神信仰の薄いほうは、

3位 ベルギー(58%)
2位 オランダ(51%)
1位 チェコ(37%)

とのこと。さらに、スイス人の64%は、死後の生というものがあると信じているそうで、これも、ヨーロッパ全体の平均53%を大きく上回っています。また、何が正しく、何が誤っているかを見極めるのに宗教が必要だと考えている人は54%(ヨーロッパ平均:43%)。宗教共同体に積極的価値を認める人は61%(ヨーロッパ平均:53%)。いずれも、ヨーロッパの平均よりもかなり上を行っています。

カトリック教会はこの結果を喜んでいるとか。プロテスタント教会のスポークスマンは、スイス人の宗教心が、正教会やカトリックの影響が強い国々と近く(上の順位を見ればわかります)、プロテスタント諸国と異なっていることを興味深く思うと答えているそうです。

スイスのキリスト教関係者にとって、この数値は本当に喜ぶべきものなのかどうか、直ちには判断しかねますが(ぜひ、カトリックの州とプロテスタントの州を別々に調べてほしかった)、ヨーロッパの中でも「キリスト教」で有名な国々がいかに「非キリスト教化」されてきているかがよくわかる数値であることは確かです。神信仰の薄いほうに、ドイツやフランスの名前が挙がっていないだけでも、まだマシということなんでしょうか。マルティン・ルター先生がこの結果を見たらどう思うことか。

(冒頭の写真は、チューリヒ宗教改革のシンボルとも言うべきグロース・ミュンスター[大聖堂]の塔の上から眺めた景色。中央に見えるのは聖ペトロ教会です。)

シュミート教授と昼食

2005年02月19日 06時31分25秒 | キリスト教
すでに冬学期の授業期間が終っていることもあり、もともとあまり顔を出さなかった大学にますます行かなくなっていたのですが、久しぶりに神学部へと向かいました。旧約聖書学のコンラート・シュミート教授 (Prof. Konrad Schmid) とランチの約束をしていたからです。

シュミート教授の写真は、神学部のホームページから拝借しました。すでに公開されているものなので、ここで紹介しても差し支えないでしょう。

写真からもわかるように、シュミート教授は1965年生まれ、今年40歳になるという、まさに新進気鋭の学者です。チューリヒ生まれで、博士号も教授資格もチューリヒで取った後、1999年から3年間、ドイツのハイデルベルク大学で教授をしていましたが、2002年からチューリヒに戻ってきました。詳しい経歴や業績などは、神学部ホームページで見ることができます。神学博士号はエレミヤ書、教授資格は創世記と出エジプト記の歴史記述に関する研究で取得しています。

神学部近くのレストランに行き、昼の定食を食べながら雑談。最近EU圏(この場合はスイスも含む)の大学を揺るがしている「ボローニャ宣言」の話から始めました。

北米や日本の大学は、学士・修士・博士の3段階に教育課程が分かれていますが、こちらでは、6年から7年(あるいはそれ以上)かけて大学の卒業資格を取ります。さらに研究を続けたい場合は、博士候補生 (Doktorand) として、教授の指導の下に博士論文の作成に励むことになります。つまり、基本的に2段階です。

神学部の場合、大学の卒業資格を得ると、牧師補 (Vikar/in) として働くことが認められ、その後また試験を経て、正式に牧師の資格を得ることができます。

「ボローニャ宣言」は、大学の課程を基本的に3段階に分けることを趣旨としています。つまり、北米式にするわけです。大学の課程と評価方法をできるだけ統一することによって、大学間での学生の移動をスムーズにしようということらしいのですが、カリキュラム改革が甚だ面倒な上に、そもそも3段階で統一する理由がよくわからない、ということで、現場の教員には不評を買っているようです。シュミート教授は、神学部におけるこの作業の担当者なのですが、彼もこの改革案には不満一杯のようでした。どのみち第2段階、すなわち修士課程まで行かないと牧師になれないのだから(この点が日本の神学部とは違いますが)、学士課程で止める学生なんてほとんどいないはずで、だったらわざわざ学士課程なんぞ設ける意味がない、というわけです。

シュミート教授は、とくに親日家あるいは知日家というわけではないのですが、スイスやドイツとは違う、日本の大学のあり方には少なからず興味があったようで、僕が自分の大学のことを話すといろいろ質問してきました。僕が、毎学期の終りに1000枚くらいの試験答案を見るという話をしたら、目を丸くしていましたが。「助手はいないの?」と尋ねるので、「いないよ」と返事したら、さらにびっくり。

こっちの教授には助手や秘書がついていますが、これは実に羨ましい制度です。常勤の助手や秘書、さらには助手補までついていることも珍しくありません。我々のような、自分で何でもやる教員というのが想像できないようです。ときどき、真剣に助手や秘書がほしくなるときがあるのですが、学部長にすら付けられていない秘書を、一介の助教授に大学がつけてくれるはずもありません(それどころか、自分が助手なのではないかと錯覚してしまうような場合もあります)。わが大学では、秘書は、相当「エライ」役職の人にしかついておらず、逆に言えば、秘書がつくような仕事にはならないほうが幸せである、という逆説的状況が存在するわけです。僕の場合は、業務の一環として僕の仕事を助けてくれる有能な補佐の人が学部の中にいてくれるだけでも感謝すべきところです。

ハイデルベルクのことや、旧約・新約それぞれの学会の話を色々楽しくしゃべっているうちに1時間半ほどが過ぎました。ランチはご馳走になったのですが、自分より年下の人にご馳走になるのは、彼が正教授だとわかっていても、なんとなく悪い気がします。

それにしても、シュミート教授といい、あるいはベルン大学で新約聖書学を講じているマルティン・コンラット教授といい(彼はドイツ人ですが)、自分より年下の人が正教授として聖書学をリードしているのを見ると、その才能に驚くことはもちろんですが、自分もまだまだ努力が足りん、という気持ちにもなってきます。そういえば、我が師匠フォレンヴァイダー教授も、ベルン大学の員外教授として招聘されたときは35歳の若さでした。

今学期は、旧新約聖書学の博士候補生・助手が集まる研究セミナーに参加しましたが、その層の厚さにはびっくりでした。スイスでは若い新約聖書学者が育っていないという話でしたが、研究セミナーを見る限り、後進の育成は着実に進んでいるように思われました。


アインジーデルンの修道院教会

2005年01月17日 04時55分18秒 | キリスト教
休日を利用して、アインジーデルンの修道院教会を訪ねました。

アインジーデルン(Einsiedeln)は、チューリヒから約50分。ガイドブックなどにも載っていないか、あるいは簡単にしか紹介されていませんが、一度は行く価値のある場所です。とくに、キリスト教の教会や修道院に関心があれば、行かずには済まない場所でしょう。なにしろ、スイスで一番のカトリック巡礼地なのですから。

チューリヒからは、ヴェーデンスヴィル(Waedenswil)というところで乗換えて約30分。駅前からすでに修道院教会の塔が見えますから、道に迷うことはありませんが、駅自体は極めて質素な造りです。

標識にしたがって歩いていくと、10分足らずで修道院前の広場に出ます。日曜にもかかわらず、やけに店がよく開いていると思ったら、どうやらこの日は特別なお祝いの日だったようです(詳しくは明日の項をご参照)。広場に出ると、それは壮大な修道院教会の姿が目の前に現れます(冒頭の写真)。古くからの巡礼地というだけあって、広場は立派な観光地と化していました。教会の前にはレストランやお土産物屋がいっぱい。

教会内部は撮影禁止だったので、写真で紹介できませんが、内部は、18世紀前半に現在の形になったというだけあって(元来は、828年にこの地に来た聖マインラートによる遡るそうです)、当時のバロック様式に則った造りになっています。天井にはあたり一面、それは立派な絵が描かれていました。

この修道院教会で有名なのは、「恵みのチャペル」(Gnadenkapelle) に飾られた「黒いマリア像」です。


黒いマリアというのに、大いに興味があったのですが、元来は、すすや汚れで黒くなったマリア像にアインジーデルンの人々が親しみを覚えていたことに理由があるとのことで、「黒人イエス」などとはどうやら無関係のようです。このマリア像は、多くの巡礼者を集めていたことから、スイスがナポレオン率いるフランス軍がこの地を占領した際に奪おうと試みたのですが、関係者の必死の努力で難を逃れたという話。教会堂の中には、このマリア像の前で黙祷する人、マリア像の前に膝をついて祈りを捧げる人がたくさんいました。

教会の前の広場にある土産物屋で絵葉書を見ていたら、何種類もの服を着た「黒いマリア像」の葉書を売っていたので、どうやら季節ごとに着替えているようです。マリア信仰をプロテスタントは否定してきましたが、カトリックでは今でも多くの人々をひきつけていることが、ここに来ると改めてよくわかります。

礼拝堂を見学したあと、右手に回って、修道院の中庭などを見ました。ここには、ワイン販売所もあるのですが、残念ながら昼休みの時間にあたったので、ここで修道院ワインを購入することは断念(あとで、街中の店で買いました)。

日曜日にもかかわらず(日曜日だから?)多くの人が街と修道院教会を訪れていたのでしょうが、それにしてもやけに多くの客がいるし、店は開いているし、おまけに焼きソーセージを売る屋台まで出ていて、どうもにぎやかすぎる、と思った我々の勘は当たっていました。この日は特別な日だったのです。(続く)

学部夕食会

2004年12月13日 20時13分18秒 | キリスト教
昨日、日曜の午後6時から、客員で滞在させてもらっている神学部の「学部夕食会」 (Fakultaetsessen) に参加しました。場所は、旧市街 Niederdorf から少し東の Neumarkt というところにあるレストラン Wirtschaft Neumarkt。

この夕食会は、現役の教授・助教授 (Assistenzprofessor/-in) および名誉教授が夫妻で招待されるディナーで、僕も客員教員だというので招待にあずかったわけです。僕は一人で行きましたが、ほとんどの人は夫婦一緒で来ており、一人だったのは、恩師フォレンヴァイダー教授くらいのものでした。

以前にベルン大学神学部で客員にしてもらったときは、ネクタイなんてする機会もなく、今回も同じようなものかと思っていたら、この学部夕食会だけはきちんとした格好で皆参加していました。僕も、念のためスーツを着ていったのですが、大正解でした。

夕食会の会場になった、レストランの2階の広間には、総勢で50名ほどが集まり、まずは「アペロ」。ワイングラスを片手に挨拶と談笑の輪があちらこちらにできています。こういう場は非常に苦手なのですが、皆がにこやかに話しかけてきてくれます。日本に行ったことがあるという人も結構多く、新しい知り合いも増えて良かったのですが、名前を覚えるのが大変。正直言って、大半の人の名前は思い出せません。

しかし、かつて関西学院大学に客員教授で来られた(当時僕は大学院生でした)、教会史のアルフレート・シントラー名誉教授と奥様のレギーネ・シントラーさん(彼女も非常な有名人。著作の邦訳もあり)と親しく話すことができたり、かつての新約学教授で、現在は学長をしておられるハンス・ヴェーダー氏と再会する機会を得たことは大きな収穫でした。

6時半ごろからようやく食事の始まり。指定された、10人がけのテーブルにつき(テーブルでの席は自由)、学部長の挨拶・学事報告に続いて、コースの料理をいただきました。ちなみにメニューは、

・サラダ
・オニオングラタンスープ
(メインを次の3つから選ぶ)
・子牛の背肉ステーキ、ヤマドリダケのソース または
・チューリヒ湖のフェルヒェン(マスの一種)を茹でたもの、プロセッコ(発泡性ワイン)のソース または
・野菜のカネローニ、パルメザンチーズがけ(ベジタリアン向け)
・パンナコッタ

という具合でした。僕は魚にしました(ようです。ひと月以上前に、参加の返事をして、その際にメインを選ばされていたので、どれを選んだのか、思い出せなくて)。

これだけなら、1時間もあれば食べてしまえそうですが、食事は実にゆっくり、ゆっくりと進み、合間に、他大学へ移る先生への送別の辞、60歳、70歳を迎える教授・名誉教授へのお祝いのスピーチなどが入り、そのスピーチへの答辞もつくので、デザートを食べ終わり、お開きとなったのがなんと10時半。

テーブルの前と横は、上述のシントラー夫妻、斜め前はフォレンヴァイダー教授だったので、話もはずんだのですが、ワインが回ってくると、突然眠気が……。思えば、午後には日本語礼拝で説教もして、その後昼食会(といっても、こちらはこじんまりとしたものでしたが)もしているので、少なからず疲れていたはず。礼拝から帰宅して、休む間もなくこの学部夕食会に出かけ、ずっとドイツ語を話し続けていたのですから。しかし、まさか居眠りするわけにもいかないので、必死で(しかし楽しく)歓談を続けました。

終って家に帰り着くと、さすがにぐったりとしましたが、しかし良い経験をしました。学部の教員がこのように集まり、名誉教授も招待して、一緒に食事をするというのは、学部の伝統と現在、そして将来を皆で共有するという意味でも有益だと思います。夫婦で招待されるということですが、これはヨーロッパの文化に属することでしょう。日本では見られない習慣です。

本当は、写真で会場の様子を伝えたかったのですが、ちょっとカメラを出せる雰囲気ではなかったので断念しました。写真は、当日配布された紙で、下にはワインの名前が記されています。ちなみに:
白は Vernaccia di San Gimigniano 2003. Toscana, Vigna Santa Chiara
赤は Barbera d'Asti "Vigneto Gustin" 2000. Piemont, Fratelli Rovero