調査のため、関西学院大学に出張してきました。
学院史編纂室と大学図書館で、必要な文献のチェックとコピーに従事。編纂室と図書館の方々から便宜を図っていただいたおかげで、たった2日間ながらいろいろなことがわかりました。
「学院史編纂室」というのは要するにアーカイブズ(英語名はそうなっています)で、この語は公文書館と訳されることが多いようです。アーカイブズとは、歴史的資料としての公文書を収集・保管・公開する場所であり、その収集物に対する研究も行われます。つまり、大学の歴史に関する文書資料を収集し、後代に伝えていく重要な役目をこの機関は担っているわけです。したがって、「編纂室」というのは、その務めの一部を表しているに過ぎないので、あまり良いネーミングとは言えません。
ヨーロッパでは、この公文書館が持つ重要性がきちんと認識されていて、たとえばドイツでも、国や州が充実した公文書館を持っています(その一覧は
こちら)。また、グーグルなどで「Universitätsarchiv」と入力して検索すると、各大学の公文書館がずらりと出てきます。
今からもう10年近く前、2度目のスイス滞在の折に、大学の研究プロジェクトの必要から、ドイツはマールブルクにある
ヘッセン州公文書館に行くことになりました。マールブルクで教えていたある新約聖書学者のことを調べるためでした。
当時住んでいたベルンからマールブルクまでは600キロほどだったでしょうか。レンタカーで朝9時過ぎにベルンを出て、一路北へ向かい、アウトバーンを飛ばしました。途中でもちろん休憩を何度か入れましたが、夕方4時頃にはマールブルクに着きました。恐るべしアウトバーン。
予約しておいた、マルクト広場(アドベントの時期だったので、クリスマス市が出ていました。蒸気で動くという移動観覧車も来ていました)に面した Hotel Zur Sonne という古い古いホテルにチェックイン。天井は低く、床は斜めになっていたように記憶しています。とにかく由緒あるホテルという感じでした。
次の日から僕は公文書館で一日中調べ物。その学者に関するありとあらゆる資料を検索しては見せてもらい、必死に書き写しました。コピー機は使えない(資料が痛む)というので、複写が必要な物は写真を取って送ってもらうことに。今ならデジカメ持参で複写したことでしょうが、当時はまだそんなものを持っていませんでしたから。(ホテルの予約だって、ファックスでしたくらいです。電子メールやホームページから予約が出来るようになるまでは、まだ数年早かったのです。)
それにしても、一教授に関する資料が実に丁寧に整理され、閲覧に供されていることには本当に驚きました。そこには、歴史に対する責任感のようなものが感じられたものです。温故知新とよく言いますが、そのための準備がこのように出来ていてこそ、その精神も活きるというものです。
ここでもわずか2日間の作業ではありましたが、実に多くの資料を集めることができました。帰路はケルンとハイデルベルクに寄って、知人を訪ねたりしながらベルンに戻りました。
日本では残念ながら、公文書館の大切さが十分に認識されているとはいえません。Wikipedia で検索すれば、日本にある公文書館が並んで出てきますが、そこで働く専門職(アーキビスト)の養成機関もなければ、その職を公式に認定する制度もありません。図書館や博物館における仕事とは別の技能や知識が要求されるにもかかわらず、同じような扱いを受けてしまっているのがどうやら現状のようで、その務めは、公文書館の働きの大事さを肌で感じている、そこで働く人々の個人的な才覚や努力に依存してしまっているわけです。
日本の社会、そして大学が大きな曲がり角にさしかかっている今日、公文書館の役目は非常に重くなっていると言えるでしょう。「いま」の姿を後世に伝えていく歴史的責任が十分に果たせるよう、温故知新の精神が文字通りに活きるよう、それぞれの大学が公文書館を充実させていってほしいと切に願うものです。