チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

スイスではどう言うの?

2006年05月22日 15時14分24秒 | 番外編
という本が Duden から出ています。最初のスイス留学の時、ベルンの街中にある本屋で買い求めました。

このたび(と言っても、帰国してから早や2年になろうとしていますが)のチューリヒ滞在にあたっても持参しようと思っていたら、どこに行ったかわからなくなってしまい、結局持っていけずじまいでした。まぁ向こうで買い直せばいいか、と考えていたのですが、なんと絶版になっているようで、Amazon でも手に入らず、入手できないままだったのです。

それが、今日大学の研究室で何気なく本棚を眺めていたら、そこにちゃんとあるではありませんか。びっくりしたの、嬉しかったの、連絡の途絶えていた旧友に再会したかのような気分です。

この本、スイス独自の語法や単語、発音などを解説してくれている上に、辞書としても用いることのできる、何とも便利な1冊です。たとえば、

Stange, die: schmales, hohes, leicht konisches 3dl fassendes Glas mit Fuss, in dem Spezial- (im Ggs. zu Lager-) Bier servierd wird.

シュタンゲと言えば、3デシリットルのグラスに入ったビールを指すことは、経験から知っていましたが、こうしてちゃんと説明がされています。

ほかにも、pressiert sein は「急いでいる」(in Eile sein)の意味だとか、Es gibt...(~がある)の代わりに Es hat と言うとか、Ich habe kalt (warm). なんて言い方もちゃんと載っています。ミルクをたくさん入れたコーヒーを Schale と呼ぶなんてのも、この本の説明を見て納得したのを思い出します。ミグロ・レストランでこの表示を初めて見たときは意味がわからなかったのですが。

Wie sagt man in der Schweiz? (Duden Taschenbücher)
Mannheim/Wien/Zürich: Dudenverlag, 1989.

余談(1):スイス村せんべい

2005年08月12日 22時12分05秒 | 番外編
チューリヒ滞在には何の関係もないので、一応「余談」ということで...。

京都府は丹後半島の中央部に、最近の合併で「京丹後市」の一部になった弥栄町(やさかちょう)という町があります。この、なんとも日本らしい風景の田舎町に、驚くなかれ、「スイス村」という施設があるのです。スキー場、コテージ、バンガロー、キャンプ場などを持った地区らしい。

なんでスイスなのかと不思議に思わずにはいられませんが、どうやら弥栄町が、スイスのマイリンゲンと姉妹都市(姉妹村と言ったほうが当たっているような気もしますが)になっていることから来るネーミングのようです。スイス村には、レストラン「ヴィラ・マイリンゲン」もあるという話。

しかし、「スイス」と名付けたからといって、ヘンにスイスに媚びていないところがいい。上の写真を見てください。「スイス村せんべい」なんて、少しでも外国かぶれしていたら決してできない発想ではありませんか。別にミルク味がするわけでも、乳製品なわけでもない、なんてことないタダのせんべいに「スイス村せんべい」と名付けてしまうこの大胆さ! 拍手をおくりたくなるほどの度胸です。

きっと「ヴィラ・マイリンゲン」でも、チーズフォンデュより刺身定食やとろろそばなどが好んで食されるのではないかと想像してしまいます。行ったことがないのが残念。

この記事のためにわざわざ500円も出して、この「スイス村せんべい」を買った僕にも拍手がほしいところです。

あっぱれ、弥栄町。


後日談(4):ディズニーランド・パリ(初日)

2005年06月14日 23時09分15秒 | 番外編
書くべきかどうか、かなりためらいましたが、事実には違いないので。

パリで1泊した我々が向かった先は、ディズニーランドでした。
パリのディズニーは、ディズニーランドと、ウォルト・ディズニー・スタジオの2パークから成っており、とても1日で全部を見ることはできそうにないので(関連リンクはこちら)、2泊3日で見て回ることにしました。たぶんもう2度と来ないだろうから、この機会に見尽くしてやろうという根性で。

パリからメトロとRER(A線)を乗り継いだ我々が到着したのは Marne la Vallee / Chessy駅。ディズニーランド入口はもう目の前です。駅前から巡回バスに乗り、まずは予約しておいたホテル(Holiday Inn)にチェックイン。そこでディズニーランドの3日間パスを受け取る手はずになっていたのです。ところがなんと、チューリヒで利用した旅行会社の手違いで、ホテルに入金がなされていないとの話。「オレのせいじゃないだろ、そっちの手違いだろーが!」と主張すると、確かにその通りなんですが、ご自分でまず旅行会社にそのことを説明して、入金するよう言ってください、との返事。だからフランスは嫌いなんだ、と悪態をつきながら、とにかく部屋に入り、部屋からスイスに国際電話をするハメになりました。(その電話代を請求されなかっただけマシだったのかも。)

それだけですでに疲れてしまいましたが、気を取り直し、パスを受け取っていざディズニーランドへ。10月はじめのディズニーランドは、ハロウィーン一色となっておりました。なんか、アメリカなんだかフランスなんだかよくわからない変な気分ではありましたが、子供たちは大喜びです。



ほら、メインストリートに向かうゲートもハロウィーンでしょう?


 
メインストリートです。この日は曇っていて、夕方遅くからは一時雨となりました。

10月はじめみたいな時期にディズニーランドに遊びに来る奴がいるのかと思っていたら、案の定、あちらこちらで、聞き慣れた訛りのドイツ語が。スイスではこの時期に学校が「秋休み』を取るので(大学にはない、というか、そもそもまだ夏休み)、その休暇を利用して(もちろんお父さんも仕事を休むのです)ディズニーランドに「遠征』してくるスイス人がいるというわけ。

とはいえ、スイス人だけでディズニーランドが満杯になるはずもなく、園内は全体によく空いていました。寂しくはないほどに人がおり、しかしストレスを感じるほどには溢れていないという、ある意味理想的な状態で、アトラクションに並ぶ時間もせいぜい10分から15分。一番待たされたビッグサンダー・マウンテンでも30分くらいだったでしょうか(あまりに昔でよく覚えていないのですが)。本当、パリのディズニー行くなら10月はじめがお勧めです。ハイ。

3時頃から始まったパレードも、天気のせいなのか時期のせいなのか、それほど押し合いへし合いしなくても見ることができました。以下はその写真です。







ミッキーやドナルドが写ってはいますが、全体のテーマは、悪役中心のパレードという、少々風変わりで面白いものでした。このパレードは翌日も見ましたが、やはり晴れているほうがパレードも楽しそうに感じられました。

それにしても、広い園内を歩き回ってへとへと。明日も明後日もあるから、欲張る必要はないとわかっていたのですが、それでも疲れました。それと、さすがディズニーランド、ハンバーガーやらポンフリやらにやたらよくお目にかかる。子供たちは喜んで食べていましたが、ジャンクフードには本当、嫌気がさすほど。とはいえ、他に美味いものがあるわけでなし。パリ郊外に突如登場したアメリカ、って感じでした。アトラクションがフランス語と英語で行われているところが「非アメリカ的」ではありましたが。(つづく)

ベルギュンへの旅(3): 「ソリ」リングな半日

2005年02月13日 06時13分27秒 | 番外編
早くもチューリヒに戻る日になってしまった、その朝。我々は、有名なベルギュンのソリ遊びに挑戦することにしました。このソリコースはすでに100年の歴史があるそうです。

ベルギュンから電車で20分ほど行き、プレダ (Preda) という駅で降りて、少し歩くと、そこがソリの出発点。事前にベルギュンのスポーツ店でソリを借りた我々はまずベルギュンの駅へと向かいました。すでに駅には、同じようにソリ遊びに興じようという人たちが集まってきています。ほら、このとおり。



ベルギュンからの電車は、ぐるぐると渦巻状に敷かれた線路を12.6キロメートルかけて、途中いくつかのトンネルもくぐりながら、400メートルほど上って行きます。

ここがプレダの駅。

ここから5分ほど歩いたところが出発点。一番上の写真はその出発地点あたりを撮ったものです。

ソリは、一人用・二人用とあり、また型もいくつか用意されています。我々は基本的な二人乗りスタイルのものにそれぞれ、妻と息子、僕と娘のペアで乗りました。

ブレーキは足でかけ、曲がるときは、曲がりたい方向の足だけブレーキをかけるという具合ですが、横の壁面にぶつかりそうになると、わかっていてもついつい壁の方の足を出してしまいます。すると余計に壁に寄っていくという仕組み。娘と僕は3回くらい壁に激突・転覆しました。

一方の息子・妻ペアは、息子の慎重な足捌きのおかげで、安全運転そのものだったようです。スピードは出ないけど、ゆっくり楽しく滑ったとのことでした。我々はスリル重視の滑り方を優先したおかげで随分コワイ目に遭いました。

全部で6キロほどの道のりですが、10分もあればゴール地点まで着いてしまいます。ゴールに着くと、ブレーキのせいで足は雪だらけ。靴の中にまで雪が入り込んでいました。

ゴール地点は、ベルギュンの村はずれで、そこからベルギュンの中心部までソリを引いて15分近く歩かないといけません。しかし、あまりに面白い(と子どもが言う)ので、3回もこの「ソリ」リングを味わうことになりました。



ソリを引いてベルギュンの村へと向かうところ。腹ばいになっている子どもがいますが、この乗り方はルール違反です。

ベルギュンからプレダまでの列車が30分に1本しか出ていないので、列車→ソリ→ベルギュンへの徒歩というコースを3回も繰り返すと4時間はかかります。結局ホテルに戻ったのは午後3時過ぎ。主人のクロエッタさん(昨日の項ご参照)が、親切にも駅までまた送ってくださり、4時前の列車で我々は楽しかったベルギュンを後にしました。今度スイスに来るときはぜひまたベルギュンにも滞在したい、という気持ちを家族全員が抱きながら。

帰路はSBBもちゃんと動いていました。コンピュータの故障はなかったようです。(終り)

ベルギュンへの旅(2): 寒くても温かい村、ベルギュン

2005年02月12日 06時52分34秒 | 番外編
チューリヒのカオスに翻弄されつつも何とかインターシティに乗り込んだ我々は、クール (Chur) でサン・モリッツ行きの急行に乗り換えて1時間15分、目的地ベルギュン (Berguen。ueはuウムラウト)へ。到着は午後3時半過ぎ。何と予定を3時間も過ぎていました。つまりは3時間もチューリヒの近くでうろうろさせられたわけです。あぁ腹が立つ。

ちなみに、ベルギュンの場所は以下の通り。グラウビュンデン州で、ロマンシュ語圏なのですが、ほとんどドイツ語が第1言語のように通用していました。

(図面は、ホテル「ベラヴァル」のページから拝借しました。)

しかし、ベルギュンに着いてからはいいことずくめでした。

まず何よりも、泊まったホテルが良かった。スキーに行くことを決めたのが割に遅かったので、いくつかのホテルに予約メールを送ったのですが断られ、そのあとで運良く見つかったのが、今回泊まったホテル「ベラヴァル」(Bellaval)。レストランを併設していない、いわゆるホテル・ガルニで、部屋数も一桁しかない小さな宿ですが、その分、心温まるもてなしを受けました。

ホテルの主人であるクロエッタさんという女性は、駅から電話した我々を車で迎えに来てくれました。ホテルまでは、歩いてもおそらく15分とかからない距離だと思いますが、大きな荷物は持っているし、道は不案内だし、足元は悪いし、おまけに午前の混乱で疲れ切っていた我々には本当に嬉しいお迎えでした。

クロエッタさんは本当に親切で、最後の最後まで優しく声をかけ、色々と便宜をはかってくれました。気温はチューリヒに比べるとはるかに低く、日陰でじっとしていると寒くて仕方ないくらいでしたが、このホテルのおかげで心は本当に温まる3泊4日でした。

これがホテル「ベラヴァル」です。


全ての部屋にはトイレ・シャワー、大きなベランダが付いています。我々は2階の部屋に泊まりました。ベランダから見える光景は、
 こんなふうでした。

その日はさすがに疲れてしまい、夕食を村のレストランで食べた後は、早々にホテルで寝てしまいました。

次の日、いよいよスキーへ。子どもたち、とくにスキー習いたての息子は、朝早くから準備万端。速く、速く、と急かされながら、村の中にあるスポーツ用品店へ。そこでスキー道具を借りた後、歩いて3分ほどのところにある初心者向けの2ゲレンデ「テクト/ツィノルズ」(Tect/Zinols) で早速スキーを始めました。一番上の写真は「テクト」から見た村の風景です。


こちらはツィノルズを下から見上げたところ。写真で見た感じよりも急になっています。

すでに学校でスキーを習っていた息子はさっさとリフトに乗って滑り始めましたが、この日がスキー初体験の娘は、最初は立つこともできません。いったいどうなるかと思ったのですが、妻の教え方が上手だったようで(彼女自身は特に上級者なわけでもないのですが)、2時間もしないうちに、より緩斜面の多い「テクト」のほうで滑れるようになっていました。娘の運動神経の良さには驚くほかありません。

僕自身は全然スキーがダメで、いつまでたっても我流の初心者なのですが、子どもたちは基本を一応ちゃんと習ったほうがいいだろうと思い、スキー用具を借りる際に、子どもたちに個人レッスンを予約しておきました。12時から1時間、二人だけのためにコーチが来てくれ、曲がり方や止まり方などを丁寧に教えてくれました。1時間で7000円弱でしたが、娘はそれで大いに自信をつけたようで(ドイツ語でレッスンしていたようでしたが、通訳なしでもちゃんと習ってきたので、言葉に臆することはないようです。こういう場合)、午後からは滑りまくっていました。バーを股に挟む式のリフトになかなか慣れず、何度もリフトの途中でひっくり返っていましたが。(それでもそのリフトにしがみついて上まで登っていたその根性にもびっくり。)

「テクト」のリフトを上がりきったところから下を見下ろすとこんな光景が。


より緩やかな「テクト」では物足りなくなった息子が、「ツィノルズ」のほうに挑戦すべく、リフトに乗って上まで行ったのはいいのですが、いつまで経っても降りてこないので、すわ遭難かと冷や汗をかくひと幕もありましたが(コースをちょっと間違えて、新雪に突っ込み、コケていたそうです)、とにかく楽しく時間が過ぎていきました。このゲレンデは、午後になると陽が陰り、急に気温も下がるため、3時ごろには引き揚げましたが、それでちょうど良いくらいでした。だって疲れるんですから。子どもたちは不満そうでしたが。

3日目も朝からスキー。すっかり調子に乗った息子と娘はリフトで何度も上に登っては、気持ち良さそうに滑っていました。10回乗れば元が取れるリフトの1日券が十分役立ったようです。前日だけですでに十分筋肉痛を患ったこともあり、ちょっと滑っては休み、またちょっと滑っては休み、を繰り返していた僕だけが1日券をムダにしてしまいました。どうもウィンタースポーツとの相性はあまり良くないようで。

ホテルがとても温かいもてなしをしてくれたことはすでに書きましたが、ホテルだけでなく、ベルギュンの村全体が温かい雰囲気に包まれていました。滞在客も含めて、人に接する態度が柔らかい。道ですれ違う他人同士が挨拶するという、チューリヒではすでに失われてしまっている習慣もここではまだまだ活きています。身体はスキーで疲れていても、心が癒されるような気持ちになれる、本当に休暇にふさわしい場所です。

さて、2日間のスキーを楽しんだ我々は、最後の日、ベルギュンならではのお楽しみに挑戦することにしました。(続く)

ベルギュンへの旅(1): SBB大混乱

2005年02月11日 07時00分52秒 | 番外編
ところ変われば品変わる、ということで、スイスの学校には、日本にはない「休み」があります。2月の上旬に1週間、学校によっては2週間、「スポーツ休暇」という休みが置かれているのです。(あと、10月上旬に「秋休み」もあります。)

この「スポーツ休暇」、「スキー休暇」と呼ぶ人が多いくらいで、雪の降り積もったこの季節に、家族でスキーにでも行きなさい、という趣旨で設けられているみたいです。我が家は、スイス生活が割合長いくせに、スキーにはあまり縁がなかったのですが(妻も僕も、あまりスキーを好んでやらない)、息子が学校行事のスキー旅行に参加して以来(彼はそこで初めてスキーを習い覚えたのです)、スキーがやりたい、やりたいとせがむので、とうとうこの休暇をスキー旅行に充てることになりました。

スイスのことですから、スキーをする場所には不自由しないのですが、かつての留学時代に訪れた経験のある、ベルギュン (Berguen) という小さな村に行くことにしました。ここなら、初心者向けのゲレンデもあるし、ベルギュンは、全長5キロのソリコースがあることでも知られているので、久々にこのソリに乗ってみたいという気持ちもあり、ここに決めました。

さて、出発は月曜の朝。ベルギュンへは、まずインターシティでクール (Chur) まで行き(1時間強)、そこからサン・モリッツ行きの急行に乗り換えてさらに1時間15分。10時40分にチューリヒ中央駅を出発すれば、午後1時過ぎにはベルギュンに着く、はずでした。ところが……。

当日の朝、意外と順調に用意が整ったので、1時間早い列車に乗るつもりでチューリヒ中央駅に行ったら、発車時刻とホームを示すモニターがどれも消えています。モニターの故障かな、くらいに思って、いざホームに出てみると、大きな出発列車掲示板までが「真っ青」。(上の写真は、その様子を写した新聞です。)ホームは、人がいつもよりうじゃうじゃと溢れている。それも右往左往する人ばかり。近くにいた係員に尋ねると、転轍機の故障とかで、列車が動いていないとのこと。それも、チューリヒとタルヴィル (Thalwil) の間で故障が起こっており、その延長線上にあるクール向けの列車は動いていないと言うのです。

構内のアナウンスも確かに同じことを言っています。が、それにしては、他の方面に行く列車の発車掲示も出ていないのはヘンだ、と気がつくべきでした。今になって考えてみれば。実際、バーゼルなどに向かう列車の出発ホームの案内はアナウンスされていたのです。

とにもかくにも、クールに向かう列車は出ていない。どうしたものか思案にくれていると、次のアナウンス。タルヴィルまで行く代替バスが駅の横から出るので、そちらに向かう人はそのバスを利用するようにとのこと。人の群れと共に、我々も重い荷物を抱えて、バスが出るという場所に向かいました。

どうやら、タルヴィルまで行けば、そこからクールまではインターシティが動いているらしい。ところが、係員に聞いても、タルヴィルまで行けばいい、と言う人もいれば、別の人は、プフェフィコン (Pfeffikon) まで行ってください、と言っている。どっちなんだ、と確かめようとしたら、バスの運転手が、より良い接続をご案内しますから、との返事。

トラブルはともかく、その後の処理の拙さに腹立たしく思いながら、代替バスを待っていると、なんと、最初に来たバスは、乗り場付近に群がっている乗客の後ろあたりに止まったものだから、後から来た客が最初に乗るという、とんでもない事態になりました。

不思議なのは、それでも、最初に来た客が誰も大声で怒鳴ったり、係員に詰め寄ったりしないということです。なぜか皆おとなしく、次のバスを待っている。我々は、悠長に待っていられないと思い、次の(いや、その次だったか?)バスに半ば無理矢理乗り込みました。

しかし、どこで降りれば良いのかはいまだ謎のままです。しばらく乗っていると、運転手が突然、「タルヴィルに行く人はここで降りて下さい」と言った(ようでした)。運転手はスイスドイツ語で言ったので(それ自体不親切極まる話です。ドイツ語圏スイス人しか乗っていないとでも言うのでしょうか?)、100%確かではなかったのですが、一緒に降りたスイス人がたくさんいたので、どうやら聞き取り自体は間違ってはいなかったみたいです。が、

バスを降りてしばらく歩いた結果着いた駅は、タルヴィルではなく、それより一つ手前のリュシュリコン (Rueschlikon) という小さな駅だったのです。運転手に騙された!

同じ被害に遭ったスイス人は、タクシーを拾う人、ヒッチハイクを始める人と三々五々、リュシュリコンの駅から消えていき、どうしてよいかわからない我々家族だけが駅前に残ってしまいました。

どうしたものか、途方に暮れていた(しかし、どうせいつかはベルギュンに着くだろうとも思っていた)我々を見つけた駅の係員のおっちゃんが、あんたらタルヴィルの方に行きたいのか、それなら、もうすぐバスが来るからそれに乗れ、と教えてくれました。あぁ助かった、と安心した我々は、ベルギュンのホテルに、到着が遅れることを電話で伝えた後(駅まで出迎えを頼んでいたので)、実際やって来たバスに、おっちゃんが言うままに飛び乗りました。ところが、

そのバスは、タルヴィル方面行きではなく、なんとチューリヒに戻る方向の代替バスだったのです!

おっちゃんは、本当に親切でした。が、我々の話をちゃんと聞いてはいなかったのです。バスに乗ってからそのことに気づいた我々は、「降ります」ボタンを連打し、「降ろしてくれ!」と叫んだ結果、次の停留所でなんとか降りることに成功しました。しかしそこは、またまた、リュシュリコンに輪をかけて小さな、キルヒベルク (Kilchberg) という駅。なんと、タルヴィルに向かうどころか、逆にひと駅離れてしまったのです。

混乱を脱するべく頑張れば頑張るほど、逆に深みに嵌っていく、としか言いようのない事態。「厄日」とはこういう日のことを言うのでしょう。しかし、窮地に陥っても、どこかに救いはあるものです。キルヒベルクの駅の壁に、タクシー会社の電話番号が書かれていました。公衆電話から(携帯なんてこちらでは持っていない)その番号に電話すると、不思議に10秒と経たずにタクシーがやって来た。すぐ近くを走っていたところに無線連絡を受けたようです。そのタクシーでタルヴィルまで移動し(2200円くらいかかったけど)、とにかく危機は逃れた。と思ったら、

タルヴィル駅の係員が言うには、クールまでのインターシティはタルヴィルからではなく、プフェフィコンからしか出ていないとのこと(ふざけんな。タルヴィルまで行ってくれ、って案内してたじゃないか!と怒鳴りたい心境でした。正直言って)。チューリヒからタルヴィルまでと同じくらいの距離をさらにクール方面に向かって行かないといけないわけです。プフェフィコンまでの代替バスを待ってくれ、というわけで、さらにまたバスを待つ破目に。

係員が皆を待たせていた乗り場の向かい側になぜか到着したそのバス(そのバスがプフェフィコン方面行きだということのアナウンスも全然なかった)にまたもや無理矢理乗り込んだ我々は、ぎゅうぎゅう詰めのとんでもない乗り心地を我慢し続け、ついに午後1時前にプフェフィコンに到着。駅のホームにいた、クール行きのインターシティに乗ることができたのです。(そのインターシティがクール行きだという表示もアナウンスもまたもやありませんでしたが。)

この事件、あとでわかったことですが、転轍機の故障なんぞではなく、SBBのコンピュータが原因不明の故障を起こし、そういう事態のために用意されているはずのリザーブのコンピュータが、これまた何故か機能せず、このような混乱を引き起こしたそうです。コンピュータの故障なら、チューリヒ中央駅の発車案内掲示がまったく動かなかったのも納得がいきます(しかし赦すことはできない!)。

なにより赦せないのは、いい加減な情報と誘導が混乱をさらに大きくしたことです。代替バスには順序正しく乗せようとしないし(要するに、早く乗れた者勝ちだった)、どこで降りればいいのかもきちんと知らせない、代替バスの運転手は嘘をつく、どのバスがどこに向かうのかもきちんとアナウンスしない、という、いい加減さのオンパレードだったのです。SBBが、危機管理のまったく出来ていない、無茶苦茶な組織であることがよ~くわかりました。日本の鉄道会社だったらありえないだろう、と妻と憤慨し続けた半日間でした。

しかし、それと同じくらい驚いたのは、スイス人の乗客が文句も言わないということです。係員に情報を求めはするけれど、怒鳴ったり、食ってかかったりする客は見当たりませんでした。まぁなんと大人しいというか、落ち着いているというか、諦めがいいというか。

スイスでの教訓1。トラブルの際に提供される口頭での情報は、たとえ公的なものであってもそのまま信頼してはいけない。その情報は、提供された時点では正しかったのかもしれない。しかし、その情報を活用する際には嘘になっている可能性が小さくない。

スイスでの教訓2。スイス人は、親切である。しかし、いい加減な情報に基づいて、確信を持っているかのように親切に助言をくれている場合もある。最終判断はあくまで自分でしないといけない。助言をくれた人に責任を取らせることはできないのだから。スイスの「永世中立」には、「自分が害を受けない程度に親切」という意味も含まれていることを理解するべき。

この日はとにかく「厄日」でした。が、なんとかこの大混乱を脱してベルギュンにたどり着いた後は、素晴らしいことの連続だったのです。(続く)

ドイツ・フランスの旅(最終回): リヨンで「ご満悦」

2004年12月31日 04時49分37秒 | 番外編
後から考えれば、次の朝にもう少しボーヌの街をぶらついても良かったのです。しかし気持ちはすでにリヨンにあったのでしょう。ホテルをチェックアウトした我々は、「愛車」ゴルフ1600に乗り込むや否や真っ直ぐリヨンへと向かいました。

2時間あまりのドライブを経て我々はリヨンの街へ。パリが突出しているとはいえ、リヨンはフランス第2の都市です。高速を降りて街に入っていった我々は案の定、曲がる道を間違えて、予定とは反対の方向に行ってしまいました。しかし最早そんなことには慣れっこになっているtsujigaku夫婦。無駄に街を半周した後、予定のホテルへちゃんと着いたのです。

今日のお宿はホテル「ラ・レジダンス」。新市街の中心ベルクール広場のすぐ近くにあるにしては値段も安い3つ星ホテル。リヨンで我々の面倒を見てくれる大学の同僚氏ご夫妻は、我々がこのホテルを予約したと聞くや、なんと事前にホテルに行って、下調べまでしてくれて、このホテルなら大丈夫でしょうとのお墨付きまで下さった。持つべきものは(いい)同僚です。

シャワーカーテンの謎、続き。この3つ星ホテルも、前日のル・セップ同様、ガラス戸のシャワー「カーテン」でしたが、長さは、浴槽の約半分。2つ星だとカーテンはなく、3つ星だと長さは浴槽の1/2。そして4つ星になるともう少し長くなる。ということはやはり、5つ星にしてシャワーカーテンは完全な長さになり、浴槽全体を覆うのに違いありません。誰か、5つ星に泊まったらぜひチェックしていただきたい。我々にはそのような経済的余裕はないので。

同僚氏には、3時ごろに着くだろうと言っていたのが、なんと1時過ぎに到着してしまったので、同僚氏に電話を入れた後、昼食を食べに街に出ることに。近くのサンドウィッチ屋でお昼を済ませたあと、近くをぶらぶらしながらベルクール広場に出ました。するとそこにあったのは、大きな大きな移動観覧車。しかも、ぐるぐる、ぐるぐると、ものすごいスピードで回っているのです。日本の観覧車の3倍くらいのスピードで。(同僚氏によれば、当初はもっと速く回っていたそうな。遠心力で子どもが飛び出るではないか!)

 これにはたまげました。

近くまで寄って見てみると、なんとドイツから来た観覧車。説明がドイツ語で書いてあるではありませんか。つい懐かしくなって、というわけではなく、子どもにせがまれた我々は、半ば仕方なく、この観覧車に乗ることに。この日は、今年一番の冷え込みだったそうで、そんな中、吹きさらしの観覧車に乗って、しかもハイスピードで5周も回って、こんなものに集まるリヨン人の気持ちがわかりません。

冒頭の写真は、観覧車の上からベルクール広場を撮ったものです。奥の山上に、この後訪れるノートルダム・ド・フルヴィエール・バシリカ聖堂(とカタカナで書くと間が抜けた感じですが)が見えます。ベルクール広場には、仮設のアイススケートリンクまであり、順番を待つ人の列が……?(時間制で交替するのだろうか?)

ホテルに戻り、3時に同僚氏夫妻と落ち合った我々はまず、山の上に見えていた、フルヴィエールバシリカ聖堂へ。そこから逆に街を見下ろした風景がこれ。


これは、聖堂の内部です。

聖堂の近くには、紀元前43年建造というローマ劇場が今も残っています。時々実際に使われるそうな。
 

この後、旧市街に下りて、聖ヨハネ大司教教会などを見物、街をぐるぐると散策した後、夕食はリヨンの名物料理、のはずでしたが、前日ボーヌでレストランを途中退場した妻には無理だろうということで、なんとお好み焼き屋へ。その名も「ご満悦」。

 看板に Goman-etsu とあるのがおわかりいただけるでしょうか。

関西人の我々が食べても、なかなか悪くない味でした。前菜・デザートもついた「ムニュ」が15ユーロ前後。リヨンの和食レストランを紹介したページにも出てきます。フランス料理で胃が疲れていた我々(というより妻)にはちょうど良い「ディナー」で、まさに「ご満悦」でした。

これとうって変わったのが、翌日、すなわち旅行最終日のランチ。同僚氏は、テロー広場にあるレストラン「レタージュ」を予約しておいてくれたのです。

 これがその店なのですが、下の入口に見えるところは別の店(キオスクみたいな店)で、レストランには、その左の愛想ない扉から入るのです。しかも、呼び鈴を押し、入れてもらうという、なんとも不思議な、考えようによっては客をナメているようにも思える(だって、一見は絶対に入れない)入口です。

しかし(だからこそ?)、料理は極上でした。サーモンやフォアグラを使った前菜に、メインはクネレ(魚のすり身を茹でた後、スフレのように焼いたもの)


あるいは内臓の煮込み料理(リヨンはこの料理で有名だそうな)


そしてデザートがついたコースが18ユーロ。この値段で、こんな豪華な食事を出すとは! スイスなら(こんなごちそう、そもそもないけど)倍は軽くしそうな感じです。またしても「ご満悦」のひとときでした。ただ一つ残念だったのは、この後すぐにドライブするため、ワインを堪能できなかったことです。さすが「美食の町」と言われるリヨン。こんなおいしいものが揃った街で研究休暇とは、う~ん、同僚氏が羨ましい。

同僚氏夫妻の行き届いたガイドに心から感謝しつつリヨン観光を終えた我々は、午後3時にリヨンを出発。霧やら雨やらに見舞われつつスイスに向かってひた走り、チューリヒのtsujigaku御殿に戻ったのは午後8時過ぎのことでした。こうして我々のドイツ・フランスの旅は終わりを告げたのです。(完)

ドイツ・フランスの旅(6): エミリーのワイン

2004年12月30日 05時54分36秒 | 番外編
コルマールで休まった我々は翌朝、一路ボーヌへと「愛車」ゴルフ1600を走らせました。

コルマールからボーヌまでは約270キロ。この日は寄り道もせず、高速道路をまっしぐらです。途中、給油のため1回休憩した他はずっと、平均時速120キロでボーヌへと向かいました。

その休憩に関する余談: フランスのパーキングエリアの難は、トイレがもう一つだということです。男子小用はまぁいいとして、それ以外の場合、便座がないトイレにお目にかかることになります。トイレに関してはおそらく世界一といって良いスイスから来たから余計にそう感じたのかもしれませんが、この差は大きい(スイスのパーキングエリアに帰路で入ったのですが、その清潔さに感動しました)。

さて、ボーヌといえばブルゴーニュワイン。ここでのお目当ても当然ワインです。我々は、この旅行で唯一の上等な4つ星ホテル、「ル・セップ」を予約していました。ル・セップは、『地球の歩き方』にも出ている有名(?)ホテルです。

これがホテルの入口。見るからに4つ星って感じですね。

こちらは部屋の中。写っているのは、ソファーに腰掛けてボーヌでの行動作戦を練っている妻です。やる気満々。

シャワーカーテンの謎の件、続き。このホテルは、シャワー「カーテン」ではなく、ガラスの引き戸形式になっていたのですが、なぜか浴槽の長さの3分の2くらいしかカバーできない仕組みになっているのです。なぜ全体を覆えるようにしておかないのか? カバーされていない部分から水がはねて、床が濡れてしまうではありませんか。5つ星ホテルになると全体がカバーされるのでしょうか? この中途半端なシャワー「カーテン」は、我々の謎を一層深める結果となりました。

ル・セップは、観光や食事を混ぜたいくつかのパッケージを用意しているのですが、我々はその中から、ボーヌのワインカーヴ見学とホテル付属のレストランでの食事がセットになった "Forfait Decouverte de Beaune"(ボーヌ発見)というパッケージを頼んでいました。これは、到着日の午後に「オテル・デュー」を見学、その後にワインカーヴ「メゾン・シャンピー」を訪れて見学と試飲、夜にはホテル付属のレストラン「ベルナール・モリヨン」でディナーというプログラムです。

昼過ぎにホテルにチェックインした我々はまず、近くのカフェで軽く昼食をとった後、最初のプログラム「オテル・デュー」へ。1443年に、ブルゴーニュ公爵フィリップ・ル・ボンの宰相ニコラ・ロランが建設したこの建物は、貧しい人々のためのホスピスで、ぶどう畑や塩田によって収入を得ながら、多くの病人を受け入れて、修道女が世話をしたとのことです。

 このように立派な建物で、貴族たちから得た寄付をもとに、様々な装飾を施していったそうです。

 これが、病人を収容していた「貧しき者の広間」。長さ50メートル、幅14メートル、高さ16メートルの部屋の両端にベッドが置かれ、中央には食事用のテーブルとベンチが置かれたそうで、ホスピスとか病院といったイメージとはおよそかけ離れています。

オテル・デューの圧巻は、ポリプティック(衝立画の部屋)に置かれた「最後の審判」。フランドルの画家ロジェ・ヴァン・デール・ヴェイデンの作品で、審判者イエス・キリストの下に立つ大天使ミカエルの無機質な表情がなんとも、裁きの厳しさ・怖さを感じさせます(娘は真剣にビビッていました)。うまく写真が撮れなかったのが残念。この作品を解説した本が出ています(amazon.fr)。左のリンクをクリックしてもらうと、本の表紙になっているミカエルの顔を見ていただけます。

さて、オテル・デューだけで長くなってしまいましたが、さらに忘れられない思い出となったのは、続く メゾン・シャンピーの訪問です。ここが、1720年創業という古い伝統を持つ醸造所だということは、訪問して初めて知ったわけですが、場所は街の中心部から少し離れた、何となく寂しい通りで、紹介でもされなければおそらく行くことはなかったでしょう。

閉ざされたドアの横にあった呼び鈴を鳴らし(左側に売店の入口がちゃんとあることに気がつかなかった)、ホテル・ル・セップから来た者ですが、と名乗ると出てきたのが、冒頭写真の女性。名前はエミリー。

エミリーは我々をまず、地下のワイン蔵に案内してくれました。そこには、出荷を待つばかりの白ワイン・赤ワイン、そして1800年代に作られたワインの「博物館」もありました。

 こんな具合です。これはまだ樽の段階。

メゾン・シャンピーの地下室は、元々は、修道院が所有していたワイン蔵だったそうです。カーヴの下を川が流れていて、ほどよい湿度を与えてくれるそうな。

蔵をひと通り見学した後は、試飲の時間。冒頭写真でお見せした、エミリーの慣れた手つきの格好よかったこと! 

 ブルゴーニュ地方のワインについて、地図を見ながら説明してくれているエミリー。

白ワインを2種類、赤ワインを2種類試飲させてもらいましたが、ワインの味もさることながら、エミリーの試飲の格好よさに見とれていたというほうが正解かもしれません。だって、何を試飲したか思い出せないんですから。白の1種類がシャブリだったことは覚えています。赤は、後で購入した Clos des Vougeot Grand Cru がとてもまろやかで美味しかったことは思い出せますが、どうもその他の記憶が定かでない……B級グルメの哀しさです。

(ちなみに: エミリーの写真は小学2年の娘が撮ったものです。さすがに僕は遠慮したのですが、ちゃんと娘が撮影しておいてくれました。エライ!)

エミリーと出会えた記念に、じゃなくて、エミリーが紹介してくれたワインがとても美味しかったので、その記念に上記の赤ワインを買って帰りました。さすがに、そう何本も買えるような値段ではなかったです。我が家の家宝にしたいと思います。ワインの名前はすぐ忘れますが、エミリーのワインと言えば誰もが思い出せるtsujigaku家の貴重な1本です。

その夜は、上に書いたように、ホテル併設のレストラン「ベルナール・モリヨン」(数年前までミシュランの星つきだったそうです)のディナーだったのですが、エミリーの思い出に比べれば、もはや特に記すこともないように思います。強いて挙げれば、妻が途中で食事をリタイアし、デザートを食べ損ねたことくらいでしょうか。どうやら、ストラスブールで被った痛手から完全には回復していなかったようで、クリームソースがダメになったらしいです。様子を見ていると、牡蠣にあたったというのではなく、雪中行軍で疲れたあとに、分不相応なご馳走をいきなり食べたのが悪かったような感じです。ストラスブールの3つ星レストランには及ばないものの、かなり本格的なフランス料理のご馳走だったのですが、(B級とはいえ)グルメの彼女がご馳走を食べられないという悲劇。気の毒としか言いようがありません。妻が去った後のテーブルで、小学生二人とデザートを食べている自分も、何となく場違いな気が急にしてきて居心地悪かったです。

次の日はいよいよ最終目的地のリヨン。リヨンでは、研究休暇で滞在している大学の同僚が我々を待ってくれています。泣く泣くボーヌのレストランでリタイアした妻は果たしてリヨンで復帰できるのか? (続く)

ドイツ・フランスの旅(5): コルマールで休まーる

2004年12月28日 05時38分27秒 | 番外編
コルマールの町に入ったときはすでに暗くなっていましたが、下調べのおかげで今回は道に迷うこともなく(失敗は、ホテルの前を通り過ぎてしまった程度)、目指すホテルに着きました。

お宿はホテル「ボーセジュール」。旧市街まで歩いて10分足らずのところにあるこのホテルは、(前々回の終りにちょっと書いたように)美味しいレストランを併設しているホテルのしるしである「ロジ・ド・フランス」連盟のかまどマーク3つがついています。かまど3つは「とても美味でおすすめ。ホテルとしても快適」を表すそうで、かまどが2つだと「まぁまぁおすすめで快適」、1つだと「まぁおすすめ」だそうな。夕食つきで予約していた我々の期待は高まります。

夕食まで2時間ほどあったので、旧市街のクリスマス市を見物に行くことに。夜のクリスマス市は、寒い中にもほのぼのとした雰囲気、ヴァン・ショー(ドイツで言うグリューヴァイン)の匂いが立ち込めて、なんともいい感じです。心がホッと休まるような気分になりながら、いくつかの広場に分かれて開かれているクリスマス市を回りました。

  

チューリヒのクリスマス市では、グリューヴァインの他に、プンチと呼ばれる(パンチのことでしょう)、ホットオレンジのような飲み物を売っていますが、フランスに来ると、ショコラ・ショー(ホットココア)がそれに代わるようです。

途中で道に迷ったりしながら、2時間ほどの散歩を終えた我々はホテルに戻り、いざ夕食へと向かいました。ストラスブールで勢いがついていたので、今日はどんな料理なのかと楽しみにしていたわけです。

ところが、なんとも拍子抜けというか、逆にホッとしたというか、そんなにビックリするような料理は一切出てこなかったのです。

前菜とメインを2品からチョイス、それにチーズとデザートがつくというコースでした。前菜に僕はキノコのクリームスープ(セップ茸入り)、妻は前菜盛り合わせ(アボガドと小エビのカクテル、生ハム、それともう1品が思い出せない)。メインは僕が(なんと)ハムのステーキ、妻が白身魚のクリームソースがけでした。まさかハムのステーキが出てくるとは思いませんでしたが(フランス語のメニューだったので、油断して適当にしか見ていなかった)、意外においしく感じたのは、前日の豪華絢爛ランチで胃が疲れていたせいだったのかもしれません。胃が休まるコースだった、ということになります。

我々のテーブルが写真撮影をしにくい場所だったのと、撮るまでもないような中身だったこともあり、ここでは料理の写真を一切撮っていません。しかし、味は決して悪くなく、ここに泊まって夕食をとりながら、アルザスワインを飲むことはお勧めです。またコルマールに来る機会があればここに泊まりたいと思います。給仕のお姉さんは、日本に友だちがいるとかで、簡単な日本語を話してくれました。単語を並べる程度とはいえ、それだけですごく親切な印象を与えてくれます。

ホテルの部屋は狭めで、我々の4人部屋はメゾネットになっていましたが、その階段が急なこと。子どもが夜中に寝ぼけて落ちでもしたら大変なので、大人が2階に寝ることに(大人が寝ぼけないという保証はないにもかかわらず)。入口近くにはミニキッチンもついており、どうやらコンドミニアムだったようです。(かまど3つのホテルで自炊というのももったいない気がしますが。)テレビも設置されていましたが、なぜかどのチャンネルも映らない。テレビの天気予報で翌日の天気や気温を確かめたかったのですが、フロントに言って直させるのも面倒なので(どうせほとんどの番組は見たって理解できないか、面白くないし、天気なら新聞でもわかる)、そのまま放っておきました。

不思議なことに気がついたのですが、ストラスブールのホテルでも、なぜかここのホテルでも、シャワーカーテンなるものがない。ホテルが2つ星だからそうなのか、あるいはフランスではシャワーカーテンをホテルにあまりつけないのか、いずれにせよ、シャワーが浴びにくい、と文句を言っていた我々は、次の目的地ボーヌのホテルで、シャワーカーテンをめぐる疑問をさらに深めることになったのです。(続く)


ドイツ・フランスの旅(4): ワイン街道を行く

2004年12月27日 01時43分28秒 | 番外編
前日の3つ星レストランで天国と地獄を見た妻も今朝は無事回復し、ホテルで朝食を取った後、まずはストラスブールの見物へと出かけました。

旧市街の近くに車を置き、まずは大聖堂(上の写真)前の広場を中心に開かれているクリスマス市へ。



市は、大聖堂前のほかにもあちらこちらの通りや広場にあり、規模の大きさがうかがわれます。最近は、ドイツだけでなくフランスの様々な町でクリスマス市が開かれているようですが、ストラスブールのものはやはり見ごたえがある気がします。

街をぐるぐると散歩し、プティット・フランスにも行きましたが、そこにもクリスマス市が開かれていました。下の写真は、プティット・フランスにある建物です。このような、白い壁に木骨組みの建物がプティット・フランスには数多く見られます。



この日の宿は、コルマール。コルマールまでは、真っ直ぐ行けば1時間ほどで着いてしまいます。そこで我々は、途中にある村々に寄りながら行くことにしていました。予定では、リボーヴィレ (Ribeauville)、リクヴィル (Riquewihr)、カイゼルスベルク (Kaysersberg) を訪れることになっていたのですが、ちょっとストラスブールでゆっくりし過ぎました。ケバップ屋で昼食を済ませ(そんなものも食べられるくらいには妻は回復していたわけですね)、ストラスブールを出たのが1時過ぎ。コルマールに日暮れまでには着きたいと思っていたので、少々焦りが入ってきました。

最初に訪れた村はリボーヴィレ。村の入口にある公営有料駐車場に車を入れたところ、前払いの駐車券売機に入れるコインがない。近くに駐車したおじさんに、すみませんが両替してもらえませんか、駐車代金を払えなくて、と言うと、
「え、お金要るの?」
との呑気な返事。周りの駐車車両を覗き込むと、駐車券をちゃんと貼っている車も確かにあるのですが、貼っていない車も少なくない。それを見たおじさん、「要らない、要らない」と嬉しそうにのたまって行ってしまいました。

途方にくれた我々。しかし、ふと道の反対側に目をやると、なんと無料駐車場らしき場所があるではないですか。空きスペースがあるのを確かめた僕は速攻で車を移動。

ここでの目的はワインの「仕入れ」です。村の中には、試飲と販売をやっている店が数多く見られます。どの店に入ったものか思案しながら通りを歩いていた我々は、数種類のアルザスワインをセットにして売ってくれると表示されていたある店に入ることに。(後でよく見れば、多くの店でそういうセット販売をやっていました。1種類を何本も買うより、数種類のものを1本ずつほしいという観光客向けの商売をちゃんとやっているわけです。)

これがその店です。名前は Robert Faller & Fils。



アルザスワインを代表するゲヴュルツトラミネール、トケイピノグリ、ミュスカ、シルヴァネール、リースリング、ピノブランの6本セットを購入。試飲もさせてくれるというので、トケイピノグリとピノブラン(だったっけ?)を試させてもらいました。6本で35ユーロ程度。

時間が4時を回り、あたりが段々薄暗くなってきたので、村の観光もほとんどせず、急いで次の目的地リクヴィルへ。霜のかかった葡萄畑に挟まれた道路を真っ直ぐ南下、15分ほどで到着。城壁の外側にある有料駐車場(ここではコインがありました)に車を置き、またもやワインの「仕入れ」に向かいました。

妻が言うには、ここリクヴィルにはヒューゲル(日本語ページあり)という、よく知られた醸造所があるとのこと。リボーヴィレで買ったのはすべて白ワインだったので、ならば赤もいただきましょうということで、ピノ・ノワールを目指して進みました。



上の写真からおわかりいただけるとおり、ちょっと入りにくい雰囲気の店構えではありますが、意を決して家族4人で店の中へ。応対に出てきたお兄さんは非常に親切、感じのいい人で、「普通」のピノ・ノワールと、少し年季の入った上等のものと2本を試飲させてくれました。B級グルメの我々にもはっきりと味の違いが感じられるこの2本、どちらも頂戴してまいりました。

ここまで来て、時間はすでに4時半を回り、カイゼルスベルクに寄っていては最早日暮れまでにコルマールに着けません。アルベルト・シュヴァイツァー博士の故郷ということで有名なこの村を訪問することは断念し、コルマールに向かうことに……しようと思ったら、近くのニーデルモルシュヴィルという村に寄って、フェルベールのジャムを買いたいと妻が。大急ぎで村に行ったのですが、その店がなかなか見つからない。妻は車を降りて、ついに徒歩で探しに行きました。10分あまり待ったでしょうか、妻はジャムと共に笑顔で戻ってきたのです。

4回目でコルマールに着くはずが、ワイン街道で寄り道している間に字数が尽きてしまいました。たくさんのワインを積んだ「愛車」ゴルフ1600は、最早日没となったコルマールの町へようやく入っていったのです。(続く)