チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

ウィーン滞在記(その8)

2009年08月26日 21時56分56秒 | Weblog
ホーフブルク王宮の南端には、アルベルティーナ美術館がありますが、その一部を成しているのが、冒頭の写真、アウグスティーナ教会です。


独立した建物になっていないので、入口もちょっと変わった形です。教会っぽくない、というか。

中は、


この教会は、14世紀前半に聖アウグスティノ修道会のために建てられましたが、1634年に宮廷教会となりました。1736年にはマリア・テレジアとフランツ1世の結婚式、1770年にはマリー・アントワネットと後のフランス王ルイ16世の「代理結婚式」(花婿が不在で、代理人を立てる)、そして1854年にはフランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト(シシィ)の結婚式が、この教会で執り行なわれています。

さて、今回の国際新約聖書学会に参加して、改めて感じたことの一つは、女性新約学者の活躍です。欧米の女性新約学者といえば、Harvard Divinity School のElisabeth Schüssler Fiorenzaが日本ではあまりにも有名ですが、今回の学会に参加していた中で目立ったのは、Yale Divinity School の Adela Yarbro Collins。彼女は最近、Hermeneia叢書からマルコ福音書注解を出版しています(彼女は来年、国際新約聖書学会の会長に就任しますが、女性では、2005年の Barbara Aland (Münster) に次いで二人目です。それだけ国際新約聖書学会が男性中心だったということでもありますが。Schüssler Fiorenza が選ばれていないのは興味深いことですが、そのフェミニスト神学ゆえでしょうか)。

同じイェール神学校にはJudith Gundryという新約学者もいます(同じセミナーにいたので知り合いになりました)。彼女は、パウロの救済論を扱った博士論文で、テュービンゲンから学位を取っています。今回メインペーパーを読んだMargaret Y. MacDonaldは、カナダにあるSt. Francis Xavier University で教えていますが、パウロ書簡および第二パウロ書簡の社会史的研究、また初期キリスト教における女性についての研究で知られています。

ドイツ語圏では、北米よりも女性教授の数は少ないような気がしますが、ハンブルクには、ヨセフス研究で学位を取ったChristine Gerberがいます。本文研究で有名なBarbara Alandは最早名前を挙げるまでもないくらいです。

「上」に行くほど女性の研究者の比率は下がるという、日本でもよく言われる事情と同じで、ドイツ語圏でも、助手クラスだと女性の数は非常に多いです。が、教授となるとかなりその割合が下がるように思われます。北米の場合はどうでしょうか。日本でも、新約聖書研究の分野で女性研究者の数が増えるよう期待したいと思います。

(完)

おまけ:ウィーンの街中を行き来していた観光馬車。悠然と歩くその姿はなかなか楽しいですが、落とし物が路上のあちこちにあるので、歩行者注意。

ウィーン滞在記(その7)

2009年08月25日 22時12分33秒 | Weblog
他にも、リングシュトラーセ内の教会をいくつか訪れたのですが、教会の写真は前回で止めにして、ウィーンに行ったらやはり外せない、シェーンブルン宮殿王宮に触れておきたいと思います。

シェーンブルンには、ウィーン到着(そしてケバップとビールを楽しんだ後、爆睡)の翌朝行ってみました。前日の午後から天気が悪く、この日も朝から雨降りでしたが、せっかくなので思い切って、地下鉄を乗り継いで出かけたのです。これが功を奏しました。

冒頭の写真でおわかりのように、天気が悪くて、写真の出来映えもよくありません。そんな中でも、バスで押し寄せてくる団体客、そして自分のような個人の観光客が朝から次々と宮殿目指して歩いていきます。


チケットブースの行列。宮殿は朝8時半から開いています。到着したのは9時半頃だったでしょうか。

もし王宮も行くつもりなら、Sisi Ticket というコンビの入場券を買うのがお勧めです。シェーンブルンだけの入場券は、EUR 9.50/12.90(全体を見るなら後者)で、王宮の方は EUR 9.90。Sisi Ticket は EUR 22.50ですから、そんなに割安になるわけではないのですが、このチケットがいいのは、シェーンブルンで待たずに入れるということです。他のチケットは、入場時刻が定められていて、その時刻にならないと入れません。シェーンブルンは、だんだんと混んできますから、入場時刻を決めて、入場者数を制限しているのでしょう。

Sisi というのは、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(1830-1916)の妻エリーザベトの愛称です。宮殿は、女帝マリア・テレジア(1717-1780)の時に完成しました。「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議(1814-15)が開かれた場所としても有名です。1996年に世界遺産に登録されています。

中では、オーディオガイドを無料で貸してくれるので、それを耳に当てながら進んでいきます。日本語版あり。

昼近くなって、チケットブースのところまで戻ってくると、チケットを買うための行列は、信じられないくらい長くなっていました。後ろ1/3くらいは、建物の外まで出てしまい、傘をさしながら待つという有様。シェーンブルンに行くなら朝早めの出発がお勧めです。



王宮(ホーフブルク宮殿)に行ったのは、帰国の日の朝でした。つまり、シェーンブルンで始まり、ホーフブルクで終わったウィーン滞在ということになります。ホーフブルクは、シュテファン大聖堂から歩いて5分もかからない場所にあります。現在は、連邦大統領の公邸にも用いられています。




ブルク門(Burgtor)。

13世紀頃に作られ、ハプスブルク家の王宮として使われたこの宮殿、いろいろな建物が増築された結果、非常に複雑な作りになっています。教会や乗馬学校もその一部です。先ほどの Sisi Ticket で、皇帝の部屋、シシィ博物館、宮廷銀器コレクションが見学できます。こちらもオーディオガイドと共に見学コースを回ります。


新王宮。この中には国立図書館、民俗博物館、武器・楽器博物館などが入っています。お目当ての一つだったパピルス博物館もこの中に入っていたので、ここだけは、シェーンブルンを訪れた日の午後に行きました(学会が見学プログラムを準備してくれていたのです)。

さて、ウィーンで撮った写真もそろそろ底が尽きてきました。次回は、学会で感じたことを少し書いて終りにしたいと思います。

ウィーン滞在記(その6)

2009年08月23日 22時07分40秒 | Weblog
(リングシュトラーセを走るウィーンのトラム。もっと古いタイプもあり、そちらの方が情緒はあります。)

学会の日程が始まる前、少し街中を散歩して、リングシュトラーセ(中心部の環状道路)内にある教会巡りをしました。が、その前に街の風景を少し。


トラム(ウィーンではシュトラーセンバーンと呼ばれています)の停留所標識。


ウィーンにもやっぱりあった日焼けサロン


ビールや食料を買ったスーパー。BILLAという名前は初めて見ました(かつて住んだベルンにはBILLIという安売りスーパーがありましたが)。いずれも「安い」(BILLIG)を連想させる名前です。

ウィーンには、当然ながらコンビニがないので、学会の夜プログラムが終わった後にビールを買って帰り、ホテルで飲むということができませんでした。さりとて、一人でレストランやカフェに行ってビールを飲むという気にもならず。夜遅くまでスーパーやコンビニが開いている日本の生活に慣れていると、やはり不便を感じるのは事実です。


そのBILLAで昼食に買ったサンドウィッチ。後ろはアイスティーと、キウィジュース。珍しいので買いましたが、全部飲みきれず。


意外に甘みが強かったです。



前回のシュテファン大聖堂からすぐ近く、徒歩数分のところにあるペーター教会。投宿していたホテルはこの教会のすぐ裏にありました。

ペーター教会は、紀元800年にカール大帝が礎を築いたという伝説がありますが、中世初期にすでに建てられていたのは確かなようです(今の建物は1722年にほぼ完成した新しいもの)。


ウィーンで最古とされているのは、このルプレヒト教会。伝説によれば、紀元740年に遡るとか。公文書に最初に言及されるのは1200年のことだそうです。


内部の様子。コンサートの練習(?)をしていました。右は、後部にあった小礼拝室。薄暗かったので、写真も暗くなってしまいました。


ルプレヒト教会のすぐ近くにあったユダヤ教シナゴーグ。ヒトラーがウィーンで美術を学んでいた(ときに反ユダヤ主義思想を深めた)ことが思い出されます。


ふと見ると、シナゴーグのある通りへの入り口は Judengasse(ユダヤ人通り)という名でした。


そこからさらに5分ほど歩いたところにある、マリア・アム・ゲシュターデ教会は、ウィーンで2番目に古い教会とのこと。ゲシュターデ(Gestade)とは水辺、岸辺という意味ですが、この名前はドナウの支流の岸辺に教会が建てられたことに由来し(今は川が整備され、岸辺にはなっていませんが)、ここは伝統的にドナウの船員のための教会となってきたそうです。


会衆席のある部分が微妙に折れ曲がっていますが、これは川岸ゆえにスペースが限られていたからだとか。


教会内にある告解室。(どういう場所なのかと、時々学生さんから質問があるので。)


堂内前方と後方。

長くなったので、今日はここまで。








ウィーン滞在記(その5)

2009年08月22日 08時01分01秒 | Weblog
ウィーンに到着した日、ホテルの最寄り駅で地下鉄を降りて階段を上っていき、後ろを振り返ると、目の前に大きな教会堂が。


ウィーンで一番大きな教会、シュテファン大聖堂(Stephansdom)です(リンクは日本語ページ)。

この教会には四つの塔があり、136.4mある南塔は、教会の塔としては世界3番目の高さだとか。歩いて上がれます。未完成の北塔(68m)にはエレベータがついています。(今回はどちらも挑戦せず。高い所に上るのは好きなのですが。)正面入口の両側にある二つの塔は65m。

教会の歴史は1137年に遡りますが、建築が済んだのが1511年、その後も内装の工事が続けられたそうです。そりゃまぁ、これだけの建物ですから、不思議もありませんが、それにしても息の長い話です。


シュテファン大聖堂はオーストリアのゴシック建築の代表的な建物ですが、13世紀半ばに作られた後期ロマン様式の部分も保存されているそうです。

薄暗い中で無理矢理明るく撮った写真なので、もう一つ鮮明さに欠けるのですが、最初に訪れた日は、急に土砂降りの雨となり、教会横のシュテファン広場に群れていた観光客が一斉に雨宿りのため教会に入って来たものだから、大混雑。とても写真どころではありませんでした。それで、日を改めて出直したのですが、この日も天気が今一つで、もともと明るくない堂内がさらに暗く感じられました。

堂内は、後方部と左の側廊部分は無料で見れますが、中央部に入るには入場料が必要です。お金を払ってまで見たいという観光客は少なかったようですが。膨大な維持費捻出のため、教会もあの手この手を考えています。

もはや半ば以上観光名所と化している西欧の大教会堂、それでも入口付近には「静粛に」などと書かれた看板が掲げられているのが常ですが、シュテファン大聖堂の場合は、もはや諦めているのか、その掲示も見られませんでした(見落としただけ? 別に騒いでないけど)。

ウィーンでは、空いている時間に色々教会堂を見て回ったので、次は、「大」でない教会堂を紹介します(それでも、日本にあるたいていの教会堂に比べれば大きいですが)。

ウィーン滞在記(その4)

2009年08月21日 08時49分46秒 | Weblog
(「朝の祈り」の会場となったヴォティーフ教会の前景。妙な看板が前に掲げられています。)

国際新約聖書学会は大会期間中、2日目から最終日まで毎朝「朝の祈り」の時間が設けられます。1日ずつ、フランス語・ドイツ語・英語で行われ、学会メンバーが司式を担当することになっています。今回、英語礼拝はダラム大学のJames D. G. Dunn 教授(著書の邦訳あり:『新約学の新しい視点』すぐ書房、1986年)、ドイツ語礼拝はボン大学のMichael Wolter 教授(その2で書いた雑誌ZNWの編集責任者。今回同宿でした)、フランス語礼拝はモントリオール大学のOdette Mainville 教授が担当していました。以前の大会では、日本新約学会会長の土戸清教授(東北学院大学名誉教授)が担当されたこともあるそうです。

「朝の祈り」はたいてい会場近くの教会を借りて行われます。今回は、大学本館のすぐ近くにある(でも意外に距離がありました)ヴォティーフ教会(Votivkircheで行われました。

「ヴォティーフ」(Votiv)とは、ラテン語の votum(誓い)から来ており、ドイツ語で Votiv(-gabe) と言えば、誓約・誓願に基づく献納品を意味します。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がテロによる暗殺から逃れた(1853年)ことを感謝する意味で、弟のマクシミリアン(後のメキシコ皇帝)によって、1856-79年に今の場所に建てられたそうです。


入口。

以下、内部で撮った写真を並べてみます。ネオ・ゴシック様式の建物の様子がわかってもらえるかと思います。

非常に多くのステンドグラスが使われていました。



宿の近くにあった、世界で3番目に高い塔を持つというシュテファン大聖堂(Stephansdom)も紹介しようと思いましたが、長くなるので次回に。

ウィーン滞在記(その3)

2009年08月19日 13時25分06秒 | Weblog
(ウィーン大学本館1階、大講堂前の廊下)

前回はレセプションのことを書きましたが、ウィーンで何を食べていたかを今回は少し報告します。

昼食や、レセプションのない時の夕食は、市庁舎地下のレストラン Rathauskeller(そのままの名前ですが)で供されました。


(リンク頁のウェブサイトから拝借した写真です。こんな機会でもないと、ちょっと入りにくい。)

ウィーンといえば、何を置いてもヴィーナーシュニッツェル(ウィーン風子牛のカツレツ)です。

17年前に初めてウィーンに来た時食べたのは、お皿からはみ出るような巨大カツレツだったと記憶しているのですが、ラートハウスケラーで食べたこれは、おとなしいサイズでした。最終日の夕食に出た一品。


これは、教会主催のレセプションで出た料理(レセプションの様子は撮り忘れたのに、食べものだけはきちんと写真におさめていました)。いかにこってりした物ばかり食べていたかがわかってもらえると思います。他の日も、夕食は似たり寄ったりの中身でした。こういう肉料理を、ワインで流し込むという感じです。

さて、今回はウィーンに着いたらぜひ食べようと思っていたものがあります。それはケバップ。「ケバブ」「カバーブ」「キャバーブ」など、国によって発音が微妙に異なりますが、中東地域およびその周辺で、肉類をローストした料理の総称として用いられているとのこと。「ケバップ」(kebap) という名称は、現代トルコ語によるようです。ドイツ語圏では、「ケバップ」と言えば難なく通じますが、意味するところは、ドネルケバブ(ドイツ語なら Döner Kebap)の場合がほとんど(と思います)。

ウィーンに到着した月曜の午後、ホテルでひと休みした後、街中へ出かけていって、ケバップの店を探しました。店は、街の表通りにあることは少なく、ちょっと路地を入ったところ、あるいは裏通りっぽいところにあることが多いのですが、今回は、街の中心にあるシュテファン大聖堂(後に紹介します)から歩いて数分のところ、意外にも表通りで発見しました。


ピタパンに包まれた、懐かしのケバップ。チェコ製の「バドワイザー」(本当は「ブドヴァイゼル・ブドヴァル」。ヨーロッパで「バドワイザー」と記されたビールはこれです。アメリカのものは「Bud」とか「Busch」という名称)を近くのスーパーで買ってきて(スーパーで買うのが一番安い)、ビールで喉を潤しながらケバップにかぶりつきました。


日本からの長時間移動で疲れていたところにビールを一気飲みしたので、酔いがすぐに回ってきましたが、調子に乗ってもう1本。今度はオーストリアのビール「シュティーグル」(Stiegl) です。

ケバップは、写真のものを1本(?)食べたらお腹いっぱい。ビール1ℓを速攻で飲んだ途端に仰向けに倒れ(ベッドに腰掛けて食べていたのが幸いでした)、そのまま爆睡。

これに味をしめ、帰国までにもう一度食べようとチャンスを狙っていたのですが、帰国の日、昼食時にようやく実現できました。前日までのこってりした料理で胃が疲れていたのですが、ケバップに再挑戦。市電の駅スタンドで見つけて購入しました。


今回は、ピタパンではなく、丸いパンを二つに切った「ケバップ・サンドウィッチ」。食べてそのまま寝てしまう、ことにならぬよう、ビールではなく、アイスティーを飲みました。このケバップが「あっさり」味に感じられたのだから不思議。いかにこってりした物ばかり食べていたかがわかります。

こんな食生活をしていたら、1週間でも肥えてきそうものですが、それが意外にも太らなかったのだから驚きです。秘密はおそらく移動距離の多さ。ホテル⇔大学本館(ホテルから歩いて15分ほど)⇔神学部(本館から歩いて5分ほど)を行き来していたせいでしょう。1日1万歩以上、メインペーパーを読んだ日(だったか)は1万6000歩ほども歩きましたから。

その行き来の間に見た風景を次回は紹介します。

ウィーン滞在記(その2)

2009年08月17日 15時51分46秒 | Weblog
学会期間中には、研究発表やセミナー以外にも種々のプログラムが用意されています。博物館見学や観光(いずれもオプション)もありましたが、とくに印象的だったのは、夜のレセプションと、3日目夕方の弦楽四重奏コンサートです。

冒頭の写真がそのコンサートですが、演奏しているのは、ウィーン大学の学生。学生といっても、プロの楽団に入っているメンバーもいるとのことで、十分にお金を取れるレベルの演奏でした。とても学生とは思えません。

初日の夜は、ウィーン大学学長によるレセプション、引き続いて、ドイツの有名な出版社であるデグロイター(de Gruyter)社によるレセプションが、大学本館の回廊で開かれました。



前でスピーチしているのは、今期の学会長、Andreas Lindemann教授(ヴッパータール・ベーテル神学校)。デグロイター社のレセプションは、同社が発行している、この業界では著名な雑誌 Zeitschrift für Neutestamentliche Wissenschaft und die Kunde der Älteren Kirche(『新約聖書学および古代教会研究誌』、略称ZNWが100号を迎えた記念として催されたのですが、リンデマン教授は、ZNW100号の歴史の中で、どのような著名な論文が掲載されたかを延々と紹介しています。改めて、ドイツ語圏における新約聖書研究の歴史の長さを感じるスピーチでした。そのうち、自分も論文を投稿したいなと思いながら聴いていました。

2日目の夜は、ウィーン市長によるレセプション。ロの字型に建てられている市庁舎の大きな中庭で開かれました。




奥にバンドがいるのが見えますが、このバンドが演奏を始めると、なんと、ホストであるウィーン大学教授夫妻が、すすっと前に進み出て、ダンスを始めたのです。すると、それを待っていたかのように何組かの教授夫妻がさらに出てきて踊り始めます。



ヨーロッパの教授は違うなぁと、ヘンに感心しながら眺めるばかり。もちろん、ダンスより飲み食い、そしてお喋りに一生懸命な教授もたくさんいたのですが。

ところで、意外にたいへんなのが、このレセプションでのお喋りです。一見他愛もないようなお喋りをするのは、専門の議論よりも疲れるものです。加えて、誰彼なく気軽に話しかけられるタイプでないので(友人・知人の皆さんは信じてくれないかもしれませんが)、喋る相手を見つけるだけでも大変。いきおい、知っている人間と喋る機会が多くなります。今回も、昨年のルンドですっかり仲良くなった、サンフランシスコ神学院の Eugene Eung-Chun Park 教授と始終行動を共にしていました。彼がいてくれたおかげで、どれだけ気分が楽だったことでしょうか。

とはいえ、他の人たちと喋らないわけにもいきません。できるだけ色々な人と会話するようにしましたが、欧米の教授には、日本のキリスト教学者は珍しいからなのか、色々な人がたいてい同じことを尋ねてきます――日本のどこで活動しているのか?(これには、「広島」と言えば、たいていわかってくれます。)広島大学には神学部があるのか?(日本の国立大学には神学部はないので、人文研究の一部としてやってます。で、日本の神学部について説明することになる。)どうしてドイツ語でペーパーを読むのか?(スイスで学位を取ったので。)日本にも新約聖書研究の国内学会があるか?(はい)――といったような会話を何度となくしました。



3日目の夕方は、冒頭で紹介したコンサートが1時間にわたって行われ、その後、ウィーンのカトリック・プロテスタント両教会によるレセプション。このレセプションは、郊外のレストランで行われたのですが、大学から会場までは何と、専用の貸し切りトラムが用意されていました。


行き先表示に「Snts 2009」と記されています。約300人の参加者用にトラムは3台準備されていました。

トラムの中では、広島市立大学との関係で、何度か広島に滞在したことがあるという、ベルギー・ブリュッセル大学のBaudouin Decharneux教授と知り合いになりました。ドゥシャルノ教授は、参加者の中でも珍しく、息子さんも含めて家族3人での参加でした。息子さんは少し日本語が話せます。

レセプションの様子は撮影するのを忘れました。食べるのと、同席になった学会書記のM.C. de Boer教授夫妻とお喋りするのに一生懸命で。

ウィーン滞在記(その1)

2009年08月15日 10時48分14秒 | Weblog
8月はじめから1週間、オーストリアはウィーンで開かれた、国際新約聖書学会(Studiorum Novi Testamenti Societas)の大会に参加してきました。今回は、期間中に4本発表されるメインペーパ―の1本を担当するよう学会から指名されていたので、とてもお客気分ではいられなかったのですが、それでもデジカメ持参で、写真を色々と撮ってきました(ペーパ―を読むときも、ポケットにカメラを入れていたくらいです)。学会の様子以外にも、ウィーンの街や教会の様子など、何度かに分けて紹介します。

冒頭の写真は、主会場となったウィーン大学本館に掲げられた、学会を歓迎する看板です。今年で第64回を迎えるこの大会、初日夕方の総会(1)から始まって、主なプログラムは4日間にわたって開催されますが(5日目にはオプションのツアーも催されます)、学会員約250名、同伴者(おもに夫人)を加えると300名にもなる大規模なもので(もっと大きな規模の学会は他分野ならいくらでもあるでしょうが)、今回も、オーストリア連邦政府(科学研究省)、オーストリアのカトリック・プロスタント両教会、ウィーン市などの公的機関、さらにはいくつかの企業が協賛して経費の支援をしてくれています。キリスト教の学会にこのような財政支援が第三者それも公的機関からなされるというあたり、やはり西欧は今でもキリスト教に手厚い社会なのだと実感します。


ウィーン大学本館、正面側。


ウィーン市庁舎。この地下にあるレストラン(Rathauskeller)が食事会場でした。

大会プログラムは、会長講演、上に述べた4本のメインペーパ―(50分の発表と40分の質疑応答。発表者は学会から指名)と、15会場に分かれての分科会(セミナー。90分×3回)、そして申込制の研究発表(45分×3回。6会場に分かれますので、18本の発表がありました)から成ります。コーヒーブレイクや食事の時間、さらに夜のレセプションの時間などもたっぷり取ってありますが、親交を深めるというだけでなく、発表内容についての個人的な意見交換もその場で頻繁になされますから、気は抜けません。「シンポジウム」という語は元来、「共に飲む」を意味していますが、まさにその精神が今でも生きているわけです。学問的討議から「飲む」ことを排除しようとする大学関係者(とくに管理側)が日本では多いですが、学問、とくに人文系のそれは、共に飲み食いする場で議論が深められるということが理解されていないようで残念です。


2日目の午後に行われたメインペーパー(1)の光景。


発表者は、ルーマニア・シビウ(Sibiu)大学の Vasile Mihoc 教授。この学会には珍しく、イコンが持つ解釈学上の意味についての発表でした。発表はフランス語で行われましたが、会場では英訳原稿も配布されました。

写真では、人の入りが若干少なく見えますが、これは会場の大講堂(Auditorium Maximum)が大きいせいでもあり、また、フランス語の発表だと、パスする人もいるためです。


大講堂の前から客席側中央部を見た光景(Mihoc教授の発表時のものではありません。発表時にはもっとたくさん人がいました)。実際にはもっと広く感じます。

今回のメインペーパーは、フランス語1本、英語1本、ドイツ語2本でしたが、英語の発表に一番人が集まったように感じます(午前のプログラムだったせいもありますが)。フランス語やドイツ語での発表だと、英語しか解さない人が避ける傾向があるようです。質疑応答は英語・ドイツ語でなされることが多く(フランス語での発表だとフランス語か英語)、私も、ドイツ語で発表原稿を読みましたが、質疑応答は英語でも受け付けざるを得ませんでした。ドイツ語以上にしどろもどろになりましたが。

私の発表は、3日目午後でした。ちょうど広島原爆記念日だったので、冒頭でそのことに触れた後、発表原稿を読みました。質疑応答は必死でこなしましたが(音響が悪かったせいもあり、よく聞こえなかったので、余計に必死でした)、全体にはまぁまぁ好意的な反応だったように思います。終わった後も、質問や意見をたくさん個人的にもらいましたが、肯定的に評価してくれる人も多かったです。(発表原稿は、学会誌 New Testament Studies に掲載される予定です)。

次回以降は、学問的プログラム以外のことも紹介します。