今日、「第12回 全国紙芝居まつり松山大会」が無事終了した。
午前中、近くの生石公民館も会場になっているというのでチャリンコを踏みながら覗きに行く。
入るときに近くの保育園の子どもたちとすれ違う。
とてもちっちゃい子どもたちばかり。
引率の先生は、制御不可能な子どもたちを上手にコントロールする。
ちょうど、帰るところだったのである。
満足そうな笑みを見て、面白かったんだなと感じる。
会場となっている大会議室に入ると、たくさんの子どもや大人たちでいっぱいだ。
ときおり起こる子どもたちの爆笑。
この事業を陰で支えてきた地域学習振興課の山本彰一君の顔が見えた。
思えば、NPOのぼ~るの佐伯代表が創られた「正岡子規」の紙芝居からの出会いからすべてが始まった。
佐伯代表が演じる「正岡子規」を見ながら、鳥肌が立つのを覚える。
代表は、2つのことを胸に抱いていた。
この紙芝居を一人でも多くの子どもたちに見てもらいたい。
そして、全国紙芝居まつりをこの地・松山で開催したい。
でも、私たちだけでは実現できそうもないというのである。
この感動を形にしなければならないといった、使命感にも似たようなものを感じる。
傍らに目をやると山本彰一君がいた。
彼に一言、「なんとかして!」
そこで、まず事業名称を何にするかの会議に入る。
ああでもない、こうでもないと言いながら、最後に残ったのが「夢紙芝居事業」である。
※事業名称が、カラオケの曲「夢芝居」からきているのだが、予算化するまでこのことは一切口にしなかった。
ベクトルとして指示したのは、まず受け皿となる組織づくり。
きちんと自覚をもち、自己責任としてしっかり受け止められるメンバーをそろえること。
そして、全国紙芝居までやりきる情熱をもった人たちを集めること。
さらには、裾野を広げるための人材育成プログラムをつくり、定期的に研修会を行うこと。
このことで、受け皿となる組織に人を育てる大切さを身につけてもらいたかったのと、持続可能な組織に仕立てるには後継者が育つ仕組みを組み込む必要があったからだ。
そして、研修を受講するにあたって一部助成しても原則受益者負担にすること。
この理由は、都会の方では子どもの誕生会に呼ばれて紙芝居を披露するコミュニティビジネスがはやり始めており、その時給が夜のお仕事よりよかったからである。
次に、当時の市長さんが推し進めていた「坂の上の雲のまちづくり」にひっかけて観光と上手に絡めることができれば、認知度と実績を積み重ね、そこから貢献度が高まると考えたからである。
そこで、道後温泉駅近くのからくり時計広場で、月一回定期的に観光客向けに紙芝居を上演してもらった。
そこに引き続いて、坂の上の雲のドラマ館でも定期上演が決まった。(これは地域学習振興課のOBのA君がこの事業を追いかけてくれていて彼の骨折りで実現した)
これにより、松山に来られた観光客が、紙芝居を見ながら正岡子規の生き様と子どものころの郷愁を感じ取ってもらえれば、松山に対するイメージががらっと変わるのではないかと考えた。
実は、これからの観光施策は形のないものをどれだけ売れるかが都市間競争の中で勝ち残れる要素だと思っていたからである。
しかも、そのときに高い水あめを売りつけた。
でも、その水あめが高い理由は、チャレンジドの子どもたちがラッピングしていたからである。
つまり、アトリエ(作業所)の収益向上につながったのである。
後日談だが、佐伯代表がこのアトリエの作業を見てみたいというのでお連れした。
帰りの車の中で、「好きなことをしながら、あの子たちの役に立つんですね」と言われながら、目を潤ませていたのが印象に残った。
これらをすべて形にしたのは山本君をはじめ、それに関係してくれたたくさんの人たち。
特に、山本君には無茶振りをした。苦労をかけた。
でも、それらすべてをやってのけた。
前例のあることなら誰にでもできる。
本当に苦労したと思う。
だが、弱音をはかなかった。
そして、今日、それが結実した。
本当にご苦労様でした。
心から、感謝いたします。
午前中、近くの生石公民館も会場になっているというのでチャリンコを踏みながら覗きに行く。
入るときに近くの保育園の子どもたちとすれ違う。
とてもちっちゃい子どもたちばかり。
引率の先生は、制御不可能な子どもたちを上手にコントロールする。
ちょうど、帰るところだったのである。
満足そうな笑みを見て、面白かったんだなと感じる。
会場となっている大会議室に入ると、たくさんの子どもや大人たちでいっぱいだ。
ときおり起こる子どもたちの爆笑。
この事業を陰で支えてきた地域学習振興課の山本彰一君の顔が見えた。
思えば、NPOのぼ~るの佐伯代表が創られた「正岡子規」の紙芝居からの出会いからすべてが始まった。
佐伯代表が演じる「正岡子規」を見ながら、鳥肌が立つのを覚える。
代表は、2つのことを胸に抱いていた。
この紙芝居を一人でも多くの子どもたちに見てもらいたい。
そして、全国紙芝居まつりをこの地・松山で開催したい。
でも、私たちだけでは実現できそうもないというのである。
この感動を形にしなければならないといった、使命感にも似たようなものを感じる。
傍らに目をやると山本彰一君がいた。
彼に一言、「なんとかして!」
そこで、まず事業名称を何にするかの会議に入る。
ああでもない、こうでもないと言いながら、最後に残ったのが「夢紙芝居事業」である。
※事業名称が、カラオケの曲「夢芝居」からきているのだが、予算化するまでこのことは一切口にしなかった。
ベクトルとして指示したのは、まず受け皿となる組織づくり。
きちんと自覚をもち、自己責任としてしっかり受け止められるメンバーをそろえること。
そして、全国紙芝居までやりきる情熱をもった人たちを集めること。
さらには、裾野を広げるための人材育成プログラムをつくり、定期的に研修会を行うこと。
このことで、受け皿となる組織に人を育てる大切さを身につけてもらいたかったのと、持続可能な組織に仕立てるには後継者が育つ仕組みを組み込む必要があったからだ。
そして、研修を受講するにあたって一部助成しても原則受益者負担にすること。
この理由は、都会の方では子どもの誕生会に呼ばれて紙芝居を披露するコミュニティビジネスがはやり始めており、その時給が夜のお仕事よりよかったからである。
次に、当時の市長さんが推し進めていた「坂の上の雲のまちづくり」にひっかけて観光と上手に絡めることができれば、認知度と実績を積み重ね、そこから貢献度が高まると考えたからである。
そこで、道後温泉駅近くのからくり時計広場で、月一回定期的に観光客向けに紙芝居を上演してもらった。
そこに引き続いて、坂の上の雲のドラマ館でも定期上演が決まった。(これは地域学習振興課のOBのA君がこの事業を追いかけてくれていて彼の骨折りで実現した)
これにより、松山に来られた観光客が、紙芝居を見ながら正岡子規の生き様と子どものころの郷愁を感じ取ってもらえれば、松山に対するイメージががらっと変わるのではないかと考えた。
実は、これからの観光施策は形のないものをどれだけ売れるかが都市間競争の中で勝ち残れる要素だと思っていたからである。
しかも、そのときに高い水あめを売りつけた。
でも、その水あめが高い理由は、チャレンジドの子どもたちがラッピングしていたからである。
つまり、アトリエ(作業所)の収益向上につながったのである。
後日談だが、佐伯代表がこのアトリエの作業を見てみたいというのでお連れした。
帰りの車の中で、「好きなことをしながら、あの子たちの役に立つんですね」と言われながら、目を潤ませていたのが印象に残った。
これらをすべて形にしたのは山本君をはじめ、それに関係してくれたたくさんの人たち。
特に、山本君には無茶振りをした。苦労をかけた。
でも、それらすべてをやってのけた。
前例のあることなら誰にでもできる。
本当に苦労したと思う。
だが、弱音をはかなかった。
そして、今日、それが結実した。
本当にご苦労様でした。
心から、感謝いたします。