「イエスマン」と言えば、上司のご機嫌取りというイメージがある。
イエスマンはどの分野にもいる。
このイエスマン、年を追うごとに増殖してているという。
なぜこのようなことになったのか?
戦後、この国は物質的な安定を人生の目標にする人が圧倒的に増えたため、もの目標のために、ものをいう勇気を失ったからだという人もいる。
出世、サラリー、そして安定した生活。
物言わぬ方が確かに得かもしれない。
いっぱい血を流すよりも、その方がずっと大人なのかもしれない。
しかし、人生を振り返った時、本当にそういう生き方で満足するのであろうか。
市民のために、地域のためにといった信念を持つならば、言うべきことはいい、時には自分の立場をなげうってでも自分の信念を通すべきなのではないか。
青いといわれるかもしれないが、よくよく考えると職員生活もあと三年とちょっと。
いまさらイエスマンになれたとしても幸せを感じるとは思わない。
平素から覚悟を持って生きていれば怖いものなどないと思っている。
振り返った時に、自分が考え、判断したことに、エラそうな言い方だが時代が追い付いてきたような気がしている。
だからといって自慢しているわけでない。
高所大所から物事を見る目を養ってきたからこそだと思っている。
そして、何よりも、現場、現物、現実の「三現主義」に拘(こだわ)ったからこその結果であろうと思っている。
自分の魂を売ってまで生きても仕方がない。
こういいながら、所詮はイエスマンになれなかった負け惜しみかもしれない...