近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都市右京区太秦の片平大塚古墳(伝仲野親王高畠陵)とは!

2009年08月02日 | 歴史
片平大塚古墳は、主軸方向をほぼ東西にとる、全長約65mの前方後円墳で、南側くびれ部には造出を有し、南側が平地で台地上にある。

「第50代・桓武天皇皇子・仲野親王高畠陵」(867年没)として伝承されているが、学術的には、この古墳は蛇塚古墳より少し古いので、仲野親王とは年代は全く合わない。







写真は上から、宮内庁管理下の陵墓を裏付ける看板を背景にした仲野親王高畠陵・片平大塚古墳遠景と正面及び厳重そうな栫柵。

本古墳は、太秦・垂箕山町にあり、宮内庁管理の形になっている。

5世紀後半から6世紀後半の古墳時代後期の主な前方後円墳は、太秦・嵯峨野一帯に集中しているが、その一つが片平大塚古墳で、秦氏が築いたものと考えられている。

当時ヤマト葛城地方から移住してきた渡来系の秦氏は、京都市東部と西部に勢力をもっていたと云う。

古墳時代後期に、この地域の首長墓として造られたものが、平安時代初期になって古墳の上に親王の墓を重ねて造つたと言われている。

桓武天皇の皇子といえば、平城天皇陵とされる、市庭古墳も陵墓に指定されているが、この時期、古墳を陵墓として再利用することが流行っていたようだ。




写真は、嵐山が覗き見られる、本古墳脇のお濠跡と民家に隣接したお濠跡。

写真の通り、本古墳の周囲に濠があったと思われる痕跡が、今現在も残っており、又主体部は横穴式石室ではないかと考えられている。

前方部が後円部よりはるかに大きいので、古墳が後期に造られたものと言われており、御陵であるため、古墳の状態は良好に保存されているが、古墳内部についは調査されていないと云う。




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