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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府亀岡市の千歳車塚古墳とは!

2009年09月02日 | 歴史
千歳車塚古墳は、亀岡盆地の東北部に位置し、牛桧山から西へ緩やかに延びる台地上に築かれた前方後円墳。

亀岡市は、山背国・摂津国と境を接し、政治・文化・交通などの面から河内政権・大和政権とも深い関係があったことは、史料・古墳の分布状況や出土品などからもうかがえる。

延喜式内・出雲大神宮の西方約600mの水田中にあり、墳丘には樹木もなく古墳が造られた当時に近い姿をしている。







写真は、千歳車塚古墳現場で、前方後円墳の形が窺い知れる。それと国の重要文化財である最寄りの出雲大神宮。

“国史跡”指定を受けた丹波地方に現存する最大の前方後円墳で、出土した埴輪から6世紀前半・古墳時代中期の築造と推定されている。

しかし本古墳の最大の特色は、墳丘・周壕とも左右対称にはならない、いびつな前方後円墳。

前方部が西北を向き、全長80mほど、後円部は直径約41m・高さ約7.5m、前方部の幅45.5m・高さ6mほどの精美な姿を残している。

外形では築段が認められるほか、後円部の直径に比べて前方部は幅が広く、くびれた部分の方形の造り出しを持つ。

本古墳の被葬者は“倭彦王”との説が有力視されている。

『日本書紀』によれば、6世紀の初め、皇位継承者の途絶えた朝廷が、天皇の血筋にあった“倭彦王”を迎えようとしたと記されている。

しかし丹波の亀岡にいた倭彦王は、迎えの兵に驚いて逃亡したため、その後、朝廷は、越前から継体天皇を迎えたとされている。

本古墳の最近の発掘調査で、構造が二重の濠を持ち、前方と後円の中間のくびれている部分から6世紀前半の埴輪が出土したと云う。

本古墳は、高槻市の第21代・継体天皇陵と黙されている、“今城塚前方後円墳”と構造・時期共全く同じで、更に出土した埴輪が高槻市の埴輪工房造りと云うことで、本古墳の被葬者は、継体天皇と強い関わりがあった、倭彦王の墓説が有力視されているわけ。





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