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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “明治天皇”

2007年06月08日 | 歴史
明治時代を概観すると、憲法制定・国会開設までの前期は、自由民権運動から絶対主義政権の確立期で、経済的には資本主義が発達し、産業革命を迎えた。
後期は日清戦争・日露戦争 により,軍部と結んだ重工業の発展と資本主義の発達がみられ,国家主義的傾向を強めた反面,労働問題・社会主義運動が起こった時代。



写真は、明治天皇の肖像。
明治天皇は孝明天皇を父として、若干・16歳で即位したため、側近の岩倉具視が、絶対主義政府の専制支配者として内治優先・天皇制確立の政策を主導していた。

公武合体論者・孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変させるのに十分で、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進んだ。

明治天皇は、慶喜に大政奉還の勅許を与えると共に、薩長両藩主に討幕の密勅を下し、王政復古の大号令を発して新政府を樹立し、1868年1月からの戊辰戦争で旧幕府勢力を打倒、同年3月に“五箇条のご誓文”を発して、新政府の基本方針を宣言した。



写真は、大日本帝国憲法の原本。

1871(明治4)年6月に、廃藩置県を断行して中央集権体制を実現し、1885年には、内閣総理大臣並びに大臣を置く“合議体内閣制”を施行し、更に1889(明治22)年に大日本帝国憲法を発布した。

明治天皇は、“帝国議会”開設後には、政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を遂行し、日清・日露戦争では、大本営で戦争指導の重要な役割を果たした。

大日本帝国憲法は、天皇が立法・行政・司法の三権のみならず、軍事大権も総攬する、絶対統治権者であることを定めたことで、国家運営の根幹を歪め、忌まわしい戦争に至る破局への道の出発点となったと云える。

元来律令制が確立されて以降は、天皇家は政治の実権を他に委ね、権力の座から遠い位置にあって、その存続が保たれてきた。
しかし南北朝時代など天皇家が政治権力を掌握しようとした時には、権力を巡る闘いを激化させ、世は乱れ、政治の瓦解を早めた教訓は歴然と残っている。

そして幕末の尊王・王政復古という大義名分は、山県有朋ほか明治の元勲たちが、近代化の推進に天皇の権威を借り、天皇の名で大改革を実行し、政治の実権はあくまで元勲・元老たちが手中に留めていた。

天皇への権力集中は、形の上だけで、実際には何らの実権も与えられていなかったとも云える。
法形式と実態とが乖離していた体制が誕生してしまった。

そして明治の元勲・元老たちが時代と共に、政治の舞台から消えていくに連れて、旧帝国憲法の欠陥は繕い難くなり、新たな指導者たちが軍部の実権を掌握するに及んで、その後の軍事化と共に、大正・昭和にかけて、破局を迎えることになった。

しかし一方で、帝国日本の統治者として、日清・日露の戦争を勝ち抜いた明治天皇に対しては、「君臨すれども統治せず」とする従来の天皇像が見直され、政治・戦争の指導にも積極的にかかわる「統治する天皇」として再評価され、称えられたが・・・・・・・・。


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