近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県河合町の川合大塚山古墳群とは!

2011年02月22日 | 歴史
奈良盆地を流れる水系のすべてが、河合町の北で大和川に合流するところは、奈良盆地内で最も低い平地らしい。地名としての「河合」或いは「川合」はこうした自然の地勢に由来した名称。

大塚山古墳は、河合町川合に所在する前方後円墳で、馬見丘陵が北に延びて低地に消えるあたりの田園の中に位置しているが、前方部を南に向けた前方後円墳。

川合平地には、城山古墳・高山古墳・九僧古墳など8基の古墳が残っており、分布状況や古墳群構成から、まとまった古墳群として重視され、昭和31年12月に一括で国指定史跡に指定された。

大塚山古墳群の被葬者や古墳を造った人びとが、どのような人びとであったかは不明だが、5世紀後半に大和川水運を掌握し、政権中枢に深く係わってきた人びとだろうと考えられている。









写真は上から、大塚山古墳空撮、田圃に浮かぶ古墳全景、前方部の田圃と化した周濠光景及び同古墳東側の周濠光景。

本古墳は、5世紀中頃から後半に築造された3段築成の前方後円墳で、葺石・埴輪列があり、墳丘全長は約215m・後円部径約108m・高さ約15.8m・前方部幅約123m・高さ約16.9mを測り、同時期では、奈良盆地内で最大級の古墳。

墳丘の周囲には、写真の通り周濠の痕跡が水田として残っているが、周濠は後円部側で幅約32m、前方部側で約40mあり、最近の調査で、さらに外側に周堤・外周溝・外堤が巡る壮大な姿であったことが分かってきた。

後円部墳頂には窪地があり、かつて石材が散乱していたことから、埋葬施設は不明だが、竪穴式石室のものと推測される。









写真は上から、川合大塚山古墳への登入口、古墳内の遊歩道光景、後円部の墳丘光景及び同古墳前方部の明治天皇が立ち寄った記念碑。

前方部墳頂には、写真の通り、明治40年に行われた軍隊の大演習の際に、明治天皇が立ち寄ったことを示す石碑が建立されている。

出土した遺物には、埴輪・土師器・須恵器などがあり、埴輪は円筒埴輪のほか、朝顔形埴輪・家形埴輪・蓋形埴輪・盾形埴輪・人物埴輪など知られている。

本古墳は、これらの埴輪の特徴から、5世紀後半に造られたと見られる。

近くの廣瀬神社に伝わる『和州廣瀬郡廣瀬大明神之圖』(16世紀以前の作)では「王塚山」の名で描かれ、叉明治3年の川合村絵図には、「王墓山」と記されていると云う。



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