近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン “石棒に纏わるストーリー”とは!

2007年10月19日 | 歴史
近年、飯盛山系から流れる讃良川流域沿いにある、大阪四條畷市の縄文後・晩期の“更良岡山遺跡”が再び発掘調査され、“鍔を持つ大型石棒”という大変珍しい遺物が、近畿地方では初めて発見され、北陸産の石材で造られていることと合わせて、大きな話題となった。



写真は、大阪四條畷市の更良岡山遺跡現場。讃良川の工事中に発見されたと云う。
鍔を持つ大型石棒は、縄文中頃に富山県を中心に、石川県・新潟県・秋田県で出土したらしい。



写真は、当遺跡から出土した、鍔を持つ大型石棒の上層部分。
今回近畿地方で初めて発掘されたこの大型石棒は、北陸産の石英安山岩で造られており、北陸地方との交流が再確認された。

鍔を持つ1m大の石棒、正面上部にV字状の盛り上がりが見えるが、これが女性器を表現していると云われている。

今迄にはなかった“異文化の石棒”を受け入れることにより、農耕・狩猟をはじめとする豊かな大地の豊穣・恵みやムラ全体の子孫繁栄を、この石棒に祈り・託したのではないか????



写真は、鍔を持つ大型石棒の全体像描写図。
青色で塗った部分が今回出土した石棒破片で、赤色で塗った部分がV字状の盛り上がり箇所で、石棒本体の男性部分に絡ませることで交接の行為を示していと見られる。

長さ1m大の巨大石棒と共に見つかった、石川県手取川の小石や北陸産の磨石等々と合わせると相当の重量荷物を、何故わざわざ数百キロも運んだのか?
どのように運んだのか?

北陸地方では、縄文中期の終わり頃には、石棒を造りも使いもしていなかったことと考え合わせると、若しかして北陸地方が食料難に陥り、人口対自給食料にアンバランスが発生し、“子宝信仰”の石棒がむしろ邪魔になった?

一方更良岡山縄文人は、自然災害か或いは流行病か何かの理由で存続の危機に瀕し、ムラ全体の子孫繁栄を念ずる思い・執念から、石棒にすがり付いたのではないか。はたして真相如何のほどは????



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