近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

楠木正成物語 幕府との戦い ラウンド1

2006年10月24日 | 歴史
正成と鎌倉幕府との戦いは、1331年から1336年の湊川の合戦まで続いたが、この間を3つのフェーズに分けて追跡し、正成の生涯最後で最大の壮絶な戦いを振り返ってみる。

1331年、後醍醐天皇による親政時代を再現しようと、倒幕のため笠置山で挙兵の報を聞くと、正成はその傘下に入り、下赤坂城で挙兵した。これが元弘の変で、鎌倉幕府に対するクーデター。
後醍醐天皇が笠置山に遷幸の時、笠置行在所が危うくなれば、ここ下赤阪城で天皇をお迎えすべく急いで築城したと云う。





写真は上から京都府笠置町笠置山の後醍醐天皇行在所への入口、後醍醐天皇行在所址、そして京都府笠置山頂から望む光景。

笠置山の後醍醐天皇行在所は関東軍の総攻撃にあって陥落し、天皇は山城国で捕らえられ、その後隠岐に流された。



上の写真は、河内赤阪村の下赤阪城址。
下赤坂城は金剛山支脈の一端、甲取山に築かれたもので、北にかけての丘陵一帯に位置し、現在は写真の通り、「赤坂城址」の碑が建っている。
河内平野から金剛の千早城へ攻め入ろうとした場合、第一関門の役を果たしたのが、この下赤坂城であった。

笠置を陥れた鎌倉幕府勢は、勢いに乗じて下赤坂城を攻撃、にわか造りの城のため兵糧の用意も少なく、援軍もなかった中、正成軍は例のゲリラ戦法で善戦した。
しかし結局正成は風雨の激しい晩に城を焼き、自害して果てたように宣伝させ、金剛山に行方を眩ました。

正成はもともと陽動作戦を考えていたので、10日間ほどのゲリラ戦を潮時と見なし、逃げ隠れしたと云う。
そして1年2ヶ月後には護良親王と連絡をとり、各地の豪族の支援も得て、奇襲をかけ、当城を奪回した。



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