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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府亀岡市の坊主塚古墳とは!

2009年10月10日 | 歴史
坊主塚古墳は、亀岡市馬路町に所在する、平地に築かれた一辺約34m・高さ約5mの方墳で、墳丘は葺石で覆われた二段築成となっている。

1956年の発掘調査により、多くの福葬品が発見された。四神四獣鏡をはじめ冑・頸甲・肩甲・鉄剣・鉄鏃などのほか、須恵器片も見つかり、これらの発見調査から坊主塚古墳は、5世紀後半に築造されたと考えられている。

国指定史跡の千歳車塚古墳西側の道を北へ進むと“平の沢池”に出るが、そこから西に進むこと約600mのところに坊主塚古墳は立地している。







写真は上から、平の沢池のうち中池と下池境の堤、荒廃とした坊主塚古墳の墳丘及び看板が見える本古墳の近景。

1辺が約34メートルの方墳で、主体部は組み合わせ式木棺が直葬され、武具や装飾品を含め、豊富な副葬品が出土しており、叉墳丘には円筒埴輪が立てられていた。

車塚北西1.5km小さな丘の南側麓近くの水田中にある方墳で、完全裸の状態で墳丘も良好。発掘調査では周溝と葺石が確認され、叉南側では造出しの存在が予想されている。





写真は、本古墳から出土した、銅鏡・玉類・馬具・鉄製品・須恵器をはじめ円筒埴輪。

坊主塚古墳のすぐ西側にある方墳の“天神塚古墳”は、竹薮の中で詳細不明。



写真は、竹林そのものが天神塚古墳。

この坊主塚古墳の北西約100mのところに、坊主塚と並ぶように築かれているのが天神塚古墳で、1辺約30m・高さ約5mの方墳で、ここも二段に築成されている。

詳しいことは分かっていないが、坊主塚と同じ時期に築かれたものと見られ、一族あるいはその系列の墳墓と見られている。

この2の古墳の背後の丘陵には円墳27基からなる群集墳・池尻古墳群がある。



写真は、池尻天満宮全景。

池尻の集落は呉弥山の南側にあり、池尻天満宮は、その呉弥山の麓に鎮座する。
付近には5世紀後半の坊主塚と天神塚の2基の上円下方墳がある。呉弥山には円墳27基からなる群集墳、池尻古墳群がある。

最近、坊主塚古墳の前方から、大きな古代建築物の跡が見つかり、背後に墳墓を従えた建物としてみるとき、この地を支配していた豪族の存在が注目されることになった。

ここの北方、三俣川の右岸に、この地方では珍しい帆立貝式の前方後円墳・糠塚古墳があり、5世紀ごろ築造の全長約65mの大きな古墳と見られるが、これまた詳しいことはわかっていない。

亀岡にはこのほか、亀岡地域の初代首長墓と思われる向山古墳(4世紀後半)もある。

ところで、当地名の“馬路町”には、馬路の小豆と言われるものがあり、これは延暦13年、桓武天皇が京都に都を遷されたころより、丹波出雲の国、馬路の豪族が、上京の折々、この生頭を宮中へ献上されてきたと伝えられていると云う。






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