近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

アイヌ民族・文化 アイヌにかかわる“北方領土問題”とは!

2007年11月12日 | 歴史
千島・樺太アイヌ民族は、日露両国の進出、南北千島の分断統治、樺太と千島の交換、日露戦争、ロシアの北方領土占領などによって国際的に翻弄されてきた。



写真は、1854年の“日露和親条約”によって決められた国境。
千島・樺太の領土問題を振返ってみると、この“日露和親条約”によって、千島列島は日露両国が南北を分断・統治し、更に“択捉島”と“ウルップ島(得撫島)”の間に国境を引くことになったが、1875年には樺太と千島の交換条約に基づき、千島列島は全て日本の領土になった。





写真は上から、洋上に霞む樺太及び千島列島の景色。

その際千島列島の居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るかの選択を迫られたが、大部分が日本国籍を取得した。

第二次世界大戦で日本の敗戦に乗じたソ連による千島・北方領土の占領に伴い、千島アイヌ人を含む日本人居住者は、全て強制的に本土に移住させられ、各地に離散した。千島アイヌは実質消滅したと云える。



写真は、今も樺太に残るアイヌ民族痕跡の碑。

一方樺太アイヌも国際情勢変化の影響を強く受け、樺太・千島交換条約に伴って樺太がロシア領になったことから、樺太南部に居住して日本国籍を選択したアイヌ人は、宗谷に強制移住させられるなど、生活環境の変化に加え、コレラ・天然痘の流行が追い討ちをかけ、数多くの犠牲者を出したと云う。

1905年、日露戦勝によって南樺太が日本領になると、樺太アイヌ人は再び故郷の地を踏むことが出来るようになったが、その後第二次世界大戦で再び樺太アイヌ人のほとんどが北海道へ強制送還された。

1951年、サンフランシスコ平和条約により、日本は千島列島と南樺太の権利・請求権を放棄したが、千島列島には固有の領土である北方四島は含まれていなかった。












写真は上から、北方四島の位置関係地図及び択捉島・国後島・色丹島・歯舞島の光景。

1945年8月、日ソ中立条約を無視して対日参戦したソ連軍は、択捉・国後・色丹・歯舞の北方四島を不法占拠していた。

終戦時、北方四島には約1万7,000人の日本人が居住していたが、その約半数は、ソ連軍の占拠による不安と恐怖のあまり、自力で四島を脱出した。
それ以外の島民はそのまま抑留され、それぞれ苦しい生活を送った後、1947~49年にかけて日本本土に強制送還させられた。

1956年、“日ソ共同宣言”で日ソ間の外交関係が回復したが、領土問題については、“日ソ平和条約”締結後に、「歯舞諸島・色丹島をソ連が日本に引渡す」という条文が共同宣言に盛り込まれた。

1960年、岸信介内閣が“日米安全保障条約”改定を行ったことに対して、ソ連が反発し、ソ連は歯舞諸島・色丹島の引渡しは、「両国間の友好関係に基づいた、本来ソ連領である同地域の引渡し・・・・」として、引渡し条件を付けた。

1973年、田中・ブレジネフ会談で、日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。

1991年、ソビエト連邦が解体され、ロシア連邦として独立し、領土問題を引継いだ。

現在のロシア連邦・プーチン大統領は「四島がロシアの主権下にあることは国際法によって確定されており、第二次大戦の結果だ。議論の用意はまったくない」と繰返し主張しているが、一方で「四島の問題はロシアにとっても日本にとっても非常に敏感な問題だ。善意に基づいて、両国と島の住民を満足させる解決策を見つけられる、と確信している」とも述べている。

プーチン大統領は、「平和条約交渉は、引続き話し合いを続けていく」と述べ、平成20年3月の大統領選挙以降も、交渉に関与する姿勢を明確にした。

というように、両政府が解決に向けて努力してきたが、これら北方四島は、戦後60年以上が経過した今日もなお、ロシアの不法占拠下に置かれたままの状態が続いている。

現在北方領土問題で日本政府は、「北方四島は日本人の祖先が開拓した我が国固有の領土」などと称しているが、アイヌ通の識者は、北方領土はアイヌのものであり、北方領土はアイヌにこそ返されるべきであると云う。



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