八幡市の東車塚古墳巡りを更に続けるが、ここからは、松花堂庭園内の東車塚古墳を紹介する。
写真は上から、東車塚古墳の石碑、内園から見える後円部全体像、後円部墳丘状況と庭園の一部である本古墳墳丘の光景。
松花堂庭園の内庭の築山には、写真の通り、“東車塚古墳”碑が建てられている。
本庭園は、東車塚古墳の跡地一帯に造園されており、後円部が内庭の築山として残存している。庭園は内園と外園に別れており、内園は東車塚古墳を利用して造られている。
周辺は平坦だが、この地は小山になっていたため、その景観を取り入れ庭園を築いたが、この小山が前方後円墳だったので、古墳であることを知らないまま、庭園を築いたらしい。
写真は、松花堂庭園入口の奥に広がる東車塚古墳遠景及び竹林に囲まれた本古墳後円部の正面像。
本古墳は、全長約94m・後円部径約53m・前方部幅約30mを測り、後円部と前方部にそれぞれ埋葬施設があったと云う。
後円部は粘土槨で、銅鏡・勾玉・素環頭大刀・鉄剣・鉄鏃・甲冑・鉄斧などが出土。
一方前方部は木棺直葬と推定され、新山古墳と同笵の三角縁神獣鏡・内行花文鏡・盤龍鏡などが出土。
本古墳の築造は、埋葬品から4世紀末から5世紀初頭と推定されている。
しかし発掘調査が明治時代であったこともあり、これら貴重な埋葬品は、散在・拡散されてしまい、ほとんど行方不明の状況らしい。
本古墳の被葬者は、かつて男山東麓を支配していた豪族で、石清水八幡宮遷座前の中心地であったことが窺い知れる。
写真は上から、東車塚古墳の石碑、内園から見える後円部全体像、後円部墳丘状況と庭園の一部である本古墳墳丘の光景。
松花堂庭園の内庭の築山には、写真の通り、“東車塚古墳”碑が建てられている。
本庭園は、東車塚古墳の跡地一帯に造園されており、後円部が内庭の築山として残存している。庭園は内園と外園に別れており、内園は東車塚古墳を利用して造られている。
周辺は平坦だが、この地は小山になっていたため、その景観を取り入れ庭園を築いたが、この小山が前方後円墳だったので、古墳であることを知らないまま、庭園を築いたらしい。
写真は、松花堂庭園入口の奥に広がる東車塚古墳遠景及び竹林に囲まれた本古墳後円部の正面像。
本古墳は、全長約94m・後円部径約53m・前方部幅約30mを測り、後円部と前方部にそれぞれ埋葬施設があったと云う。
後円部は粘土槨で、銅鏡・勾玉・素環頭大刀・鉄剣・鉄鏃・甲冑・鉄斧などが出土。
一方前方部は木棺直葬と推定され、新山古墳と同笵の三角縁神獣鏡・内行花文鏡・盤龍鏡などが出土。
本古墳の築造は、埋葬品から4世紀末から5世紀初頭と推定されている。
しかし発掘調査が明治時代であったこともあり、これら貴重な埋葬品は、散在・拡散されてしまい、ほとんど行方不明の状況らしい。
本古墳の被葬者は、かつて男山東麓を支配していた豪族で、石清水八幡宮遷座前の中心地であったことが窺い知れる。
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