歴代北畠家継承の中で、戦国時代に入ると7代北畠晴具が現われて勢力を拡大し、戦国大名化し、最盛期を迎えたが、晴具の子・具教のときに織田信長の侵攻を受け、1569年に信長の次男・信雄を養子に迎えるという降伏に近い形で屈服することになった。
具教は北畠家8代目国司で、7代晴具の嫡男として誕生、幼くして文武両道の教育を受け、後世にみる名国司の素養を培った。
10歳で敘爵、27歳で従三位権中納言、31歳で正三位にまで叙せられた。
初代北畠親房は「源氏長者」に任ぜられたほどの公家名門で、代々天皇家と深い結びつきがあったことも幸いし、高官位を得ることができたと思われる。
又長い間抗争が続いた、北勢の長野氏と和睦が成立したことにより、北勢攻略への足がかりを固めた。
そして織田信長の南勢襲来を想定して、居城も多芸・霧山城から大河内城に移し、家督も9代目具房に譲った。
1568年、遂に織田信長が伊勢に進撃し、その軍勢は5万とも7万とも云われ、一方大河内城に籠城する北畠軍はせいぜい7千~1万がいいところ、北畠軍善戦の中、攻城戦は膠着状態のまま遂に50日にも及んだと云う。
信長は大河内城を力攻めで落とすことを諦め、信長の次男・信雄を具房の養子とすることで和睦が成立したが、伊勢北畠家は織田の軍門に下ることとなった。
1570年具教は出家し、居館も現在の大台町三瀬に移して隠居したものの、黒幕として隠然たる影響力を持続していた。



写真は、三重県大台町にある北畠具教郷の三瀬御所址の紅葉風景。
本年11月末、最盛期は過ぎたものの、名所に相応しい姿を留めていた紅葉光景。

写真は、“三瀬の変”後、葬られたという具教胴塚。
一帯は北畠史跡公園として整備されている。
信長は、具教の強力な存在・院政に危機感を抱き、暗殺を決意した。
結果具教は、信長の謀略により、三瀬御所で旧家臣の襲撃に倒れ、49歳で自刃して、北畠家は名実共に滅亡した。(“三瀬の変”と呼ばれている)
文武に秀でた武将として評された具教は、剣聖・塚原卜伝から、鹿島新当流「一つの太刀」を伝授された剣豪大名としても名高い。
卜伝が武者修行で多芸を訪れた際、具教は屋敷を用意して、長期にわたり剣の指導を受けたと云う。
具教には、ひとかたならぬ兵法家としての才能があった証左と云える。
ところで近年発見された、北畠家ゆかりの地でもある、和歌山の長覚寺の古文書の中に、具教が“三瀬の変”後、家臣と共に三瀬を脱出し、熊野経由で和歌山に逃れ、弥勒寺を興したという記述が発見されたと云う。
そして和歌山の地で、従者に守られ68歳まで生きながらえたと伝えているが、果たして真実のほどは?
具教は北畠家8代目国司で、7代晴具の嫡男として誕生、幼くして文武両道の教育を受け、後世にみる名国司の素養を培った。
10歳で敘爵、27歳で従三位権中納言、31歳で正三位にまで叙せられた。
初代北畠親房は「源氏長者」に任ぜられたほどの公家名門で、代々天皇家と深い結びつきがあったことも幸いし、高官位を得ることができたと思われる。
又長い間抗争が続いた、北勢の長野氏と和睦が成立したことにより、北勢攻略への足がかりを固めた。
そして織田信長の南勢襲来を想定して、居城も多芸・霧山城から大河内城に移し、家督も9代目具房に譲った。
1568年、遂に織田信長が伊勢に進撃し、その軍勢は5万とも7万とも云われ、一方大河内城に籠城する北畠軍はせいぜい7千~1万がいいところ、北畠軍善戦の中、攻城戦は膠着状態のまま遂に50日にも及んだと云う。
信長は大河内城を力攻めで落とすことを諦め、信長の次男・信雄を具房の養子とすることで和睦が成立したが、伊勢北畠家は織田の軍門に下ることとなった。
1570年具教は出家し、居館も現在の大台町三瀬に移して隠居したものの、黒幕として隠然たる影響力を持続していた。



写真は、三重県大台町にある北畠具教郷の三瀬御所址の紅葉風景。
本年11月末、最盛期は過ぎたものの、名所に相応しい姿を留めていた紅葉光景。

写真は、“三瀬の変”後、葬られたという具教胴塚。
一帯は北畠史跡公園として整備されている。
信長は、具教の強力な存在・院政に危機感を抱き、暗殺を決意した。
結果具教は、信長の謀略により、三瀬御所で旧家臣の襲撃に倒れ、49歳で自刃して、北畠家は名実共に滅亡した。(“三瀬の変”と呼ばれている)
文武に秀でた武将として評された具教は、剣聖・塚原卜伝から、鹿島新当流「一つの太刀」を伝授された剣豪大名としても名高い。
卜伝が武者修行で多芸を訪れた際、具教は屋敷を用意して、長期にわたり剣の指導を受けたと云う。
具教には、ひとかたならぬ兵法家としての才能があった証左と云える。
ところで近年発見された、北畠家ゆかりの地でもある、和歌山の長覚寺の古文書の中に、具教が“三瀬の変”後、家臣と共に三瀬を脱出し、熊野経由で和歌山に逃れ、弥勒寺を興したという記述が発見されたと云う。
そして和歌山の地で、従者に守られ68歳まで生きながらえたと伝えているが、果たして真実のほどは?
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