近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 水戸藩・保守派VS改革派

2007年05月14日 | 歴史
長州藩に代わって、もう一つの雄藩・水戸藩について、1863年から1865年頃の動向にスポットを当ててみよう。

水戸藩主第2代徳川光圀が“彰考館”で始めた、大日本史編纂事業は、1906年の完成までに、光圀公死去から実に250年ほどを要した。
“水戸学”は歴史学の一派へと発展し、水戸藩士は水戸学・特に尊皇思想の影響を大きく受けた。



写真は、左側が水戸藩士・立原翠軒の肖像。
大日本史編纂事業を停滞期から復興させたのが、立原翠軒であった。

立原の門下生の一人で、藤田東湖の父・藤田幽谷は、幕府老中の松平定信に認められた才能の持ち主であった。
しかし立原翠軒と藤田幽谷の師弟は、次第に対立するようになった。
立原派は保守派、藤田派は改革派として、政治的対立が続いた。

両者の対立は派閥間の主導権争いに発展していった。
大日本史編纂の継続的思想は、藤田の改革派の考えを踏襲したため、立原の保守派は、反主流派として、表舞台から遠のいた。

しかし安政の大地震により東湖が圧死すると、調停役を失った水戸藩内の抗争は一気に泥沼化し、血の粛清へと発展した。

水戸学の基本思想である、“尊皇攘夷”思想のうち、保守派は“天皇に弓矢を向けない”尊皇思想が強く、幕政に恭順的姿勢を保持しているのに対して、改革派は攘夷思想が強く、攘夷を堅持するグループで、長州藩の桂小五郎らとの交流が際立っていた。

改革派は、“桜田門外の変”を主導し、井伊直弼を暗殺した。
水戸藩を大きく揺れ動かしたハプニングに、無勅許で日米修好通商条約を調印した、井伊直弼・幕府に激怒した孝明天皇は、アンチ幕政の姿勢が顕著であった水戸藩に対して直接勅書を下賜した。



写真は、京都御所・蛤門に近い、水戸藩邸跡。

幕府は水戸藩へ、幕府を飛び越えての直接密勅が、倒幕を画策する意図があると捉え、水戸藩に対して勅書の幕府への引渡しを命じた。

水戸藩内は、勅書の幕府返納に関して、保守派の返納支持と、改革派の反対論とに二分して対立した。
結局藩論としては、朝廷に直接返納することで統一されたが、返納反対の改革派への弾圧は一層激しくなった。
謹慎中の斉昭は「返納阻止は、天意に反する」と、返納すべき立場を取ったため、改革派は江戸に向け脱出した。

攘夷か開国かを巡り、会津藩主・松平容保などによる朝廷工作もあって、巧みに攘夷実行を遅らせることに成功した幕府であったが、攘夷派の不満は募る一方であった。



写真は、筑波山神社にある、藤田小四郎の銅像。

そして攘夷強硬派は、東湖の四男・藤田小四郎らが幕府に攘夷決行を迫るため、1864年5月、同志62人が遂に筑波山で挙兵し、筑波から関東北部の各地に兵を移動するにつれ、浪士・町民・農民ら賛同者は膨らんでいった。

そして最も勢いがあった時期には1,000人ほどの大規模な武力集団に膨れ上がった。“天狗党”の結成であった。“天狗党”とは、成り上がり者が天狗になっているとか? 改革派が世直しをするため、自らを天狗と称したとか?

保守派・改革派の両派とも、斉昭・東湖と云うリーダーを失い、抗争は益々泥沼化して、問題解決・修復の自助能力を失って、自己破滅の道を突っ走った。


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1 コメント

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Unknown (aruku42)
2007-05-19 16:04:45
新撰組。明智。織田、豊臣。義経ウオークして研究を続けております。これからもよろしくお願いします。aruku42及び南百済をブロクしてください。
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