大和天神山古墳は天理市柳本町に所在し、行燈山古墳(崇神天皇陵)の前方部の西方にある、墳丘長約113mの前方後円墳で、築造年代は4世紀後半ごろの古墳時代前期初頭のもので、奈良県指定の史跡。
本古墳は、大型の行燈山古墳のほかに、渋谷向山古墳(景行天皇陵)を中心に13基で構成される柳本古墳群の中の1基。




写真は上から、大和天神山古墳入口の伊射奈岐(いざなき)神社鳥居、豊穣の田圃に浮かぶ本古墳全景、本古墳東側の道路に隣接した様子及び伊射奈岐神社境内から覗く本古墳墳丘。
本古墳は台地上に立地し、短めの前方部はわずかに撥形に開いており、その開きは後円部の直径を超えるものではない。葺石や埴輪は見つかっておらず、段築や周濠も不明瞭で、本来なかった可能性も指摘されている。
本古墳は、“伊射奈岐神社境内古墳”として調査が進められたが、古墳名に人物名が混じらないという方針により、地元の呼称をとって天神山古墳とされた。同名の古墳は各地にあるので、大和をつけて命名されたらしい。
本古墳は遺体を埋納した形跡がないらしく、東側にある崇神天皇陵の遺物のみを埋納した陪塚とも考えられている。

写真は、発掘当初の大和天神山古墳の石室内部と銅鏡出土状況。
1960年に県道拡張工事で、後円部の一部が削られたのを機会に緊急発掘調査が行われた結果、天井石を設けない特異な竪穴式石室が出土。
竪穴式石室の側壁石は石室内に落ち込んでいたが、自然倒壊によるものだった。検出されたものは何も錯乱しておらず、盗掘の被害は受けていなかったと云う。
本古墳後円部のほぼ中央に、長さ6.1mの竪穴式石室が検出されたが、石室の中央部には、現存の長さ2.6mほどの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切られていた。
石室の内部には、一見木棺のような木櫃(“もくひつ”とは、重要な遺品を納めた木製の箱)のような、大きな木製容器が置かれていたと云う。
この木櫃の底板は、長さ2.6m・幅75cmほどで、断面は緩やかなU字形を呈している。しかし、巨木を刳り抜いたものではなく、縦に長い三枚の板を合わせたもので、従って内部の底面は水平でなく、両端がカーブしてあがっている。





写真は上から、復元された、木櫃と水銀朱が塗られた石室内部、本古墳出土の流雲文縁方格規炬鏡、画文帯神獣鏡、内行花文鏡及び獣形鏡。
木櫃からは、約41㎏の水銀朱が納められていたと云う。出土遺物には他に、23面の青銅製の鏡、鉄剣、鉄鏃、刀子、鎌、ヤリガンナ、板状鉄斧など。
出土した計23面の銅鏡は、大陸からの輸入品の舶載鏡だが、三角縁神獣鏡は含まれていなかったと云う。
銅鏡の内訳は、方格規矩鏡6面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面、三角縁変形神獣鏡2面、人物鳥獣文鏡1面など計23面が出土。
20面の銅鏡は、写真の通り、木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれていて、前期古墳にしばしば見られるように一面だけ中央に置いてあるという配列とは異なっている。
今回の銅鏡大量発見は、当時古墳の被葬者たちが、己の権力や財力を誇示するために、畿内の鏡造り集団から買い求めたものかもしれないと云う。
古代では、銅鏡は、“破邪の霊力”があるとされていた。
本古墳は、大型の行燈山古墳のほかに、渋谷向山古墳(景行天皇陵)を中心に13基で構成される柳本古墳群の中の1基。




写真は上から、大和天神山古墳入口の伊射奈岐(いざなき)神社鳥居、豊穣の田圃に浮かぶ本古墳全景、本古墳東側の道路に隣接した様子及び伊射奈岐神社境内から覗く本古墳墳丘。
本古墳は台地上に立地し、短めの前方部はわずかに撥形に開いており、その開きは後円部の直径を超えるものではない。葺石や埴輪は見つかっておらず、段築や周濠も不明瞭で、本来なかった可能性も指摘されている。
本古墳は、“伊射奈岐神社境内古墳”として調査が進められたが、古墳名に人物名が混じらないという方針により、地元の呼称をとって天神山古墳とされた。同名の古墳は各地にあるので、大和をつけて命名されたらしい。
本古墳は遺体を埋納した形跡がないらしく、東側にある崇神天皇陵の遺物のみを埋納した陪塚とも考えられている。


写真は、発掘当初の大和天神山古墳の石室内部と銅鏡出土状況。
1960年に県道拡張工事で、後円部の一部が削られたのを機会に緊急発掘調査が行われた結果、天井石を設けない特異な竪穴式石室が出土。
竪穴式石室の側壁石は石室内に落ち込んでいたが、自然倒壊によるものだった。検出されたものは何も錯乱しておらず、盗掘の被害は受けていなかったと云う。
本古墳後円部のほぼ中央に、長さ6.1mの竪穴式石室が検出されたが、石室の中央部には、現存の長さ2.6mほどの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切られていた。
石室の内部には、一見木棺のような木櫃(“もくひつ”とは、重要な遺品を納めた木製の箱)のような、大きな木製容器が置かれていたと云う。
この木櫃の底板は、長さ2.6m・幅75cmほどで、断面は緩やかなU字形を呈している。しかし、巨木を刳り抜いたものではなく、縦に長い三枚の板を合わせたもので、従って内部の底面は水平でなく、両端がカーブしてあがっている。






写真は上から、復元された、木櫃と水銀朱が塗られた石室内部、本古墳出土の流雲文縁方格規炬鏡、画文帯神獣鏡、内行花文鏡及び獣形鏡。
木櫃からは、約41㎏の水銀朱が納められていたと云う。出土遺物には他に、23面の青銅製の鏡、鉄剣、鉄鏃、刀子、鎌、ヤリガンナ、板状鉄斧など。
出土した計23面の銅鏡は、大陸からの輸入品の舶載鏡だが、三角縁神獣鏡は含まれていなかったと云う。

銅鏡の内訳は、方格規矩鏡6面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面、三角縁変形神獣鏡2面、人物鳥獣文鏡1面など計23面が出土。
20面の銅鏡は、写真の通り、木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれていて、前期古墳にしばしば見られるように一面だけ中央に置いてあるという配列とは異なっている。
今回の銅鏡大量発見は、当時古墳の被葬者たちが、己の権力や財力を誇示するために、畿内の鏡造り集団から買い求めたものかもしれないと云う。

古代では、銅鏡は、“破邪の霊力”があるとされていた。
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