ここからは、先週末に現地説明会のあった、長尾山古墳の特徴について紹介したい。
特に今回話題となった、最大・最古級の未盗掘「粘土槨」の発見について触れたい。
長尾山古墳は、猪名川流域に残された数少ない前方後円墳で、何よりも山手台南公園に隣接した、誰もが気軽に立ち寄る場所に立地している。
標高100mほどの長尾山丘陵地の山手台ニュータウンは、1986年以降、阪急電鉄グループなどが開発を進めてきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ae/a38b53bd515b9baf6920ef0c22bfe9b8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/eb/a2c7b8c63723ae853af774cf7515c6c1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/82/14904cd8a298b05f62fbb7e0c3822f49.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/7b/b3c50d8c8674ef1c2a11e164930ec775.jpg)
写真は上から、長尾山古墳周辺に広がる山手台ニュータウン、同古墳墳頂から望む大阪市街地方面、地上から見上げる長尾山古墳の森及び同古墳墳丘の様子。
本古墳からは眼下に大阪国際空港、そして梅田や難波のビル街という21世紀の街並みとともに、生駒山から二上山に続く山並み、そして大阪湾と、淡路島という1700年前と変わらない景観が共存している。
本古墳は、1960年代までは前方後円墳と考えられていたが、1969〜70年に行われた測量調査の結果、前方後方墳の可能性も指摘されていた。この時の調査では、墳丘の規模が長さ約36mと推定され、また古墳の頂上部分に埋葬施設の一部が見えていたらしい。
しかしその後、調査らしい調査はなされておらず、正確な墳形・墳丘規模・時期など、その全容は謎に包まれたまま。
そして平成19年に続き20・21年と、長尾山古墳の発掘調査が続けられた結果、墳長約40mの前方後円墳で、出土した埴輪片などから4世紀初頭に遡る猪名川流域では最古の古墳であることが判明。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_2.gif)
叉後円部墳頂には墓坑の存在を確信したが、後円部の段築成の構造・墳丘北側のクビレ部の位置・埋葬施設の詳細などは不明であった。
そこで、平成22年8月以降これまでの発掘調査の結果、以下のような新発見が明るみに出た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/ae/0d358d4d6f067438868b83f727e20e25.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/3a/f7d5fe5efd0a18dc0946302cd2f5def8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/8a/811675926b7270e6b23d62d23f3c8101.jpg)
写真は、平成22年10月、長尾山古墳の現地説明会光景、今回最大発見の本古墳粘土槨全景及び墓坑に埋められた粘土槨の様子。
長尾山古墳の規模は、墳丘長さ約40m・後円部径約25m・前方部長15mほどで、前方部・後円部とも2段築成の前方後円墳であることが判明。
粘土槨は、古墳前期前半の4世紀初頭頃に畿内で成立した新しい埋葬施設で、竪穴式石室と併存しながら、竪穴式石室の被葬者に次ぐ階層の埋葬施設として用いられたらしい。
本古墳が、最新の埋葬施設をいち早く取り入れている点から、被葬者は大和政権との間に密接な政治関係を結んでいた猪名川流域最初の有力豪族と見られる。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
長尾山古墳の存在は、猪名川流域の歴史を探るうえで重要なポイントとなる。
特に今回話題となった、最大・最古級の未盗掘「粘土槨」の発見について触れたい。
長尾山古墳は、猪名川流域に残された数少ない前方後円墳で、何よりも山手台南公園に隣接した、誰もが気軽に立ち寄る場所に立地している。
標高100mほどの長尾山丘陵地の山手台ニュータウンは、1986年以降、阪急電鉄グループなどが開発を進めてきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ae/a38b53bd515b9baf6920ef0c22bfe9b8.jpg)
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写真は上から、長尾山古墳周辺に広がる山手台ニュータウン、同古墳墳頂から望む大阪市街地方面、地上から見上げる長尾山古墳の森及び同古墳墳丘の様子。
本古墳からは眼下に大阪国際空港、そして梅田や難波のビル街という21世紀の街並みとともに、生駒山から二上山に続く山並み、そして大阪湾と、淡路島という1700年前と変わらない景観が共存している。
本古墳は、1960年代までは前方後円墳と考えられていたが、1969〜70年に行われた測量調査の結果、前方後方墳の可能性も指摘されていた。この時の調査では、墳丘の規模が長さ約36mと推定され、また古墳の頂上部分に埋葬施設の一部が見えていたらしい。
しかしその後、調査らしい調査はなされておらず、正確な墳形・墳丘規模・時期など、その全容は謎に包まれたまま。
そして平成19年に続き20・21年と、長尾山古墳の発掘調査が続けられた結果、墳長約40mの前方後円墳で、出土した埴輪片などから4世紀初頭に遡る猪名川流域では最古の古墳であることが判明。
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叉後円部墳頂には墓坑の存在を確信したが、後円部の段築成の構造・墳丘北側のクビレ部の位置・埋葬施設の詳細などは不明であった。
そこで、平成22年8月以降これまでの発掘調査の結果、以下のような新発見が明るみに出た。
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写真は、平成22年10月、長尾山古墳の現地説明会光景、今回最大発見の本古墳粘土槨全景及び墓坑に埋められた粘土槨の様子。
長尾山古墳の規模は、墳丘長さ約40m・後円部径約25m・前方部長15mほどで、前方部・後円部とも2段築成の前方後円墳であることが判明。
粘土槨は、古墳前期前半の4世紀初頭頃に畿内で成立した新しい埋葬施設で、竪穴式石室と併存しながら、竪穴式石室の被葬者に次ぐ階層の埋葬施設として用いられたらしい。
本古墳が、最新の埋葬施設をいち早く取り入れている点から、被葬者は大和政権との間に密接な政治関係を結んでいた猪名川流域最初の有力豪族と見られる。
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長尾山古墳の存在は、猪名川流域の歴史を探るうえで重要なポイントとなる。
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