近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県明日香村の斉明天皇陵の真相とは!そのⅡ

2010年10月16日 | 歴史
斉明天皇陵の真相について更に続けます。

斉明天皇は、巨石による土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ確実になったと云う。





写真は、牽午子塚古墳墳丘の様子及び八角形の輪郭が残る土盛。

明日香村教委は、飛鳥地方の古墳群と藤原宮跡の世界遺産登録に向け、牽牛子塚古墳を平成21年9月から調査。高さ約4.5mの墳丘の裾は、上からみると八角形状に削られており、北西の裾から3m辺分の石敷き(長さは約14m)が見つかった。

縦40~60cm・横30~40cmの凝灰岩の切り石が石畳のように、幅約1mで3列にすき間なく並べられており、八角形になるように途中で約135度の角度で折れ曲がっていたと云う。

写真のように、墳丘は対辺の長さが、約22mで3段構成だったと推定され、石敷きの外側に敷かれた砂利部分を含めると約32mに及ぶという。

三角柱状に削った白い切り石やその破片が数百個以上出土し、村教委は、これらの石約7,200個をピラミッド状に積み上げて斜面を飾っていたとみている。





写真は、牽午子塚古墳の石槨入口及び石槨内部の構造。

また、墳丘内の石室(幅5m・奥行き3.5m・高さ2.5mほど)の側面が柱状の巨大な16の安山岩の切り石(高さ約2.8m・幅1.2m・厚さ70cmほど)で囲まれていたことも確認された。

過去の調査では、写真の通り、石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。

斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が合葬されたとみられる横口式石槨の入り口から、約80トンの凝灰岩の巨石を刳り抜いて造られた内部を覗き見ることができた。

「石槨に使われている石が非常に巨大で迫力があった」とのコメントも聞かれたが、「どのように運んできたのかを考えると不思議で、葬られた人の力の大きさを感じる」との話も聞かれた。

斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか、漆と麻布を交互に塗り固めて作る、最高級の夾紵棺(きょうちょかん)の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。

これまでの発掘成果と合わせ、「一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない」など、専門家らの意見はほぼ一致している。





写真は、高取町の車木ケンノウ古墳・斉明天皇陵及び地図上、その東北に位置する牽午子塚古墳。

宮内庁は牽午子塚古墳の南西、約2.5km離れた、直径約45mの円墳・“車木(くるまぎ)ケンノウ古墳”を、文献や伝承などから斉明天皇陵に指定。

今回の新発見に対して、宮内庁は「墓誌など明らかな証拠が出ない限り、指定は変えない」としている。

出土遺物については、夾紵棺片や七宝亀甲形座金具、ガラス玉等があり、夾紵棺の一部や閉塞石の内扉は、明日香村埋蔵文化財展示室で常設展示されている。

築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃と考えられている。





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