近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市堺区の永山古墳とは!

2011年07月02日 | 歴史
ここから暫くは、百舌鳥古墳群のうち、仁徳天皇陵周辺の陪塚古墳を紹介する。





写真は、仁徳天皇陵を中心とした百舌鳥古墳群のうち、同天皇陵の陪塚古墳群のマッピング及びその上空写真から望む陪塚古墳群。

これらの陪塚古墳群のうち、写真左上の⑧永山古墳と⑩丸保山古墳並びに、右下の⑨長塚古墳と⑮収古墳を以下紹介する。

先ず永山古墳は、仁徳陵古墳の北西約50mにある、前方部を南に向けた、全長約104mの前方後円墳で、墳丘は2段に築かれ、葺石と埴輪が配置され、周囲には幅15mほどの盾型の周濠が巡っている。







写真は、大阪中央環状線越しに望む永山古墳全景、同古墳の深い森に覆われた墳丘の様子及び同古墳の周濠の佇まい。

本古墳は、全長約104m・後円部径約63m・高さ約9m・前方部幅約67m・高さ8mで、西部のくびれ部には造出しが認められる。

墳丘は宮内庁により陪塚として管理されているが、造出しがあり、前方部と後円部が同じ大きさという墳丘形態や、全長100m以上の規模を有する前方後円墳であることから、陪塚とは考えにくい独立した古墳と見られている。

本古墳は、伝承によれば、応神16年(西暦282年)に百済から来日し、「論語」や「千字文」(中国古代より児童が文字を学ぶ初歩の教科書)などを伝えた“王仁”(ワニと読むが、応神天皇の時、百済からの渡来人で、祖は漢の高祖と云われている)の墓との説がある。





写真は、大阪中央環状線に削り取られた永山古墳南端及び同古墳南側の周濠の様子。

現在、周濠の南側に接して大阪中央環状線が通り、周濠の一部をまたいでいる。

本古墳は、今日まで調査されていないため、主体部の構造は不明であり、副葬品の内容や性格も分かっていないが、5世紀中頃の築造とされている。





写真は、釣堀化した永山古墳の西側周濠の光景及び柵で囲まれた同古墳。

本古墳は堺市のほか、羽曳野市、藤井寺市とともに、世界遺産登録を目指す仁徳天皇陵などの古墳群の一つであるが、写真の通り本古墳の周濠が長年にわたって民間の釣堀として使われている。

周濠は市有地で、市は立ち退きを求めて、近く民事調停を申し立てることを決めたが、業者側は「明治初めに水利組合から借りた」と主張していると云う。

本古墳は、仁徳天皇陵と道路を挟んで反対側にあるが、釣り客が絶えないため、釣堀のイメージが定着し、世界遺産候補地としては印象が悪く、このままでは得策でない。






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