近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 101体の人骨が語りかけるストーリーとは!

2007年08月01日 | 歴史
茨城県取手市の“中妻貝塚”は、明治時代から考古学上、その名が知られた有名な遺跡で、墓壙からは101体もの人骨が発見されたという。

 縄文時代の葬制には、単なる墓壙への埋葬、ベンガラを大量に散布したモノ、火葬、埋葬した遺体を掘り出して甕に収納し直す再葬、石で囲むモノ、立石を置くモノ、副葬品を伴うモノ等々多様に及び、当時の生活慣習・社会情勢を反映している。
縄文時代後期・晩期の中妻貝塚は101体の再葬墓と云われる。



写真は、茨城県取手市の中妻貝塚現場。
小貝川に面した台地上に形成された貝塚の一つで、現在は“福永寺”墓地の一角が貝塚跡として保存されている。
写真の通り、墓地一帯が貝殻で蔽われ、貝塚の規模が伝わってくる。

中妻貝塚が形成された縄文時代後期(約3,000年前)には海岸線が後退して、小貝川などの河川の河口には砂浜が発達し、貝の成育に適した環境になったと見られる。



写真は、中妻貝塚の貝層断面。
貝層に見えるのは、河口から内陸に生息する“シジミ”がほとんどであり、魚骨は外洋に面する海岸では漁労が盛んであった証左として、マダイ・クロダイ・スズキが多く見られ、又淡水のウナギ・コイなども点在している。

 一方河川の流域には湿地帯が広がっていたと見られ、ハクチョウ・ガン・カモ類の鳥骨やシカ・イノシシ・キツネ・タヌキ・アナグマなど大小の動物の骨も出土したと云う。
河川・海岸・湿地帯・森に接し囲まれた好環境に恵まれ、豊かな生活痕跡が窺える。



写真は、中妻貝塚出土の土偶。
物質面のみならず精神生活面も充実していたと考えられ、土偶・石棒などが見つかっている。
中妻村民の再生・子孫繁栄を願ったものと見られる。

以上のように、豊富な水産・自然環境や温暖な気候と合わせて、豊かな精神文化にも恵まれ、発展していた中妻ムラに何が起こったのであろうか?
101体の人骨が一緒に埋葬されていたという事実は何を物語っているのであろうか?



写真は、中妻貝塚出土の再葬人骨。
頭蓋骨の大小が明らかに識別される。
“歯の計測値比較”による血縁関係や歯根から採った“DNA分析”による遺伝子データから驚くべき事実が明らかになった。

 彼等は“一家系に属する母系集団”の可能性が高く、又DNAデータ配列がモンゴル人と共通している人骨が全体の約60%もあり、大陸の人々に祖先を持つことが分かったと云う。

直径約2m・深さ約1mの土壙から101体もの埋葬人骨が発見されたのは、全国でも初めてと云われる。
人骨の歯・頭の形などから成人約60体、うち男約40・女約20体で、4歳から18歳までの人骨約40体と分析されている。
乳児は別の埋設土器に入れられたと見られる。この分析結果は何を意味しているのであろうか?

成人と青少年の割合が6対4というアンバランス、成人男女の比は男が女の2倍という構成比のアンバランスは何を物語っているのであろうか?

男性が女性以上に犠牲になったのは、疫病か天変地変に立ち向かったためか?
疫病か天変地変による突然死を悼み、一括共同埋葬をして再生を祈願したのではないか!


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1 コメント

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中妻貝塚の近所のものです。 ()
2007-12-11 14:50:07
はじめてお邪魔します。
中妻貝塚のある取手市在住のものです。
発掘中は見学に行ったのですが、人骨は大変なインパクトがありました。
貝塚は、現在はお寺の敷地にあるのですが、人骨が出たところのすぐ脇は墓所です。
貝塚の場所は現在も見晴らしが良く、何か人を引きつけるような気配のある良い土地です。小生の家の敷地とは雲泥の差です。
記事で詳しいことがわかり、理解が深まり大変嬉しかったです。ありがとうございました。
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