近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

滋賀県近江八幡市の浅小井遺跡とは!

2009年12月07日 | 歴史
高木・浅小井遺跡は、西の湖南岸の中央、近江八幡市の東端と安土町との町界を境に、長田町・西ノ庄・浅小井町付近の水田地帯に広がる遺跡。

昭和60年の発掘調査結果、当遺跡は弥生時代から近世に至るまでの複合遺跡とされ、弥生時代後期(約1900年前)のは、前方後方形墳丘墓を始め、多数の方形周溝墓や土坑墓等から構成される、大きな墓域が形成されている。





写真は、前方後方形の墳墓が広がる畑地及び墳墓の説明看板。

前方後方形の墳墓は、前方後方形周溝墓と呼ばれる古墳が造られる直前の時代に属するもので、全国的にも珍しく、墓域の規模・構造から、この墓の主は、西の湖周辺に大きな勢力を誇っていたと考えられる。

全長約35mで埋葬施設があったと見られる後方部は、一辺25mの方形で、幅約12m・長さ約10mの小さな前方部が付き、周囲には幅3~7m・深さ約0.45mの溝が巡っている。

埋葬施設は、後世に削り取られて不明だが、本来後方部は余り高く盛土されていなかったらしい。周溝からは弥生時代後期の土器が出土した。

本遺跡は、広範な遺跡のため、遺跡の北部と南部でそれぞれ、中心時期や、性格に違いが見られ、北部からは、弥生時代中期(2100年前)~後期を中心時期とした集落と大規模な墓域が発見されている。

この墳墓に埋葬された首長は、周辺に築かれた方形周溝墓と呼ばれる小規模な墳墓とは細い溝で区別されているが、集落の共同墓地に築造され民衆との身分の格差が余りないように見える。





写真は、石垣が残る浅小井城跡及び遺跡の東西を横切る下ツ街道。

浅小井城は、湖畔に築かれた水城であるが、現在の浅小井城跡の周囲は、戦後の干拓で田んぼに変わっている。

写真のように、田畑の中に残る、60m×70mほどの本丸跡は微高地で畑地となっており、畑地の西側に石積みが確認できるが当時のものかどうか不明。

中世後期には、南部の長田町付近において、居館を中心に集落が営まれていたらしい。北部の浅小井町には、佐々木六角氏の家臣・浅小井氏の居城とされる浅小井城跡が残った。

本遺跡の東西を下ツ道と呼ばれる街道(後の朝鮮人街道)が貫いていることから、交通経路上、重要な位置を占めていた遺跡であると考えられる。



写真は、浅小井城跡を物語る石垣。

現在は、石垣保存のため、埋め戻されている。

浅小井城跡で堀と石垣が見つかった当時、堀は少なくとも16世紀には埋められており、浅小井城の存続年代を考える上で重要な資料と云える。

1496年、伊庭貞隆が一族の浅小井元秀に命じて築かせたというが、一説には、1501年だとも云われている。城址は今も“お城”と称され、田園の中に石塁の一部が残る。



写真は、自然湧水群を有する“湧水の里”光景。

近江八幡市内からやや離れた浅小井集落地区には、いくつかの湧水がある。

自噴井戸や自然湧水など5箇所の湧水があり、湧水の里として整備されている。六郷湧水群を思わせる湧水の里の風情がある。




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