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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪府羽曳野市の墓山古墳とは!

2011年04月16日 | 歴史
墓山古墳は、羽曳野市のほぼ中央にある、古市古墳群の中で第5位の規模をもつ大型の前方後円墳で、5世紀初め(約1,600年前)に造られたと推定される。

全長約225m・後円部の直径135m・高さ21m・前方部の幅153m・高さ19mほどで、盛り土は3段に積まれている。











写真は上から、墓山古墳空撮、先日4月上旬に満開の桜越しに望む墓山古墳遠景、同古墳後円部から望む前方部光景、後円部墳丘の近景及び前方部墳丘の様子。

羽曳野市役所の西側にあり、宮内庁が伝応神陵・誉田山古墳の陪塚として、伝応神天皇陵古墳の名で管理していると云う。

陪塚というには余りに巨大であり、周囲に中・小規模の古墳が配されている、堂々とした王陵と見なしてもおかしくない。

後円部と前方部のつなぎ目には造り出しがあり、周囲には濠が掘られ、その外側には幅約25mの堤がめぐっている。

墳丘の斜面は石でおおわれ、平坦部には埴輪が列になって並べられている。中心部には竪穴式の石室が造られ、長持形石棺が納められていたらしい。







写真は、墓山古墳の民家と市役所に隣接した過密光景、同古墳脇の駐車場と桜越しに望む羽曳野市役所及び後円部沿いの民家に囲まれた周濠光景。

かつての外堤は、写真のように、現在は羽曳野市役所の駐車場に利用されている。その駐車場と周濠の間を、狭い遊歩道が後円部の円周に沿って築かれていたと云う。

叉写真のように、近年宅地開発の進展により、現在では周濠に隣接して民家が密集している。

墓山古墳のすぐ北にある野中古墳は、墓山古墳に付属する陪塚と考えられているが、この古墳には鉄で作った多量の武器や農工具が納められており、墓山古墳の被葬者が貴重な鉄を多量に所有していた実力者であったことが推定できる。





写真は、墓山古墳陪の向墓山古墳光景及び石碑を伴う宮内庁の柵で囲まれた向墓山古墳墳丘の様子。

墓山古墳の周囲には野中古墳とは別に、写真の向墓山のほか、浄元寺山・西墓山という3基の陪塚が配されており、典型的な中期大型古墳の様相をみせている。

墓山古墳は、3段構成で墳丘が築かれ、くびれ部の両側に造出しを設けているが、さらに、一重の周濠と外堤を巡らし、外部施設として河原石が葺かれ、円筒埴輪や人物埴輪などが立てられていたことも分かっている。

後円部の頂には格子状に彫られた長持形石棺の蓋が露出しており、津堂山古墳の石棺との類似性が指摘されている。多量の滑石製勾玉も見つかっている。

前方部の幅と後円部の直径の関係を見ると、前方部の幅が後円部の直径を若干上回っている。こうした形態は、古墳時代中期に典型的なものらしい。

興味深いのは、その規模から判断して、市野山古墳(允恭天皇陵)や茨木市太田にある継体天皇陵と同一築造企画で構築されたと考えられていること。

出土した円筒埴輪は、野焼きと考えられる黒斑のある埴輪と窖窯(あながま)焼成による黒斑のない埴輪の2種類が存在したと云う。

ということは、この古墳に並べられていた円筒埴輪は、埴輪焼成法の変換期のものであると推察できる。

形象埴輪には、楯・衣蓋・靱(“うつぼ”と読み、矢を入れる道具)・家形・人物・短甲などが見られる。

はたして大王級の墓山古墳被葬者は誰であろうか?





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