<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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6月22日朝7時40分。
母が旅立った。
令和に代わったばかりの5月3日。
87回目の誕生日を迎えたばかりの母は今月に入ってから容体が急変。病院のスタッフの皆さんの懸命な介護も虚しく夏を前にして旅立ってしまったのだった。
今悲しみはありながら、なんとなく妙な感覚にとらわれている。
入院していた病院へ行くとまだ会えるような感覚と、今も施設でゆっくりと夕食を食べているんじゃないかという感覚だ。
また実家へ行って帰る時に見送りに出た母が私の姿が見えなくなるまで玄関先で手を降っているような、そんな感覚がある。
でもその姿を今後永遠に見ることはない。
これが寂しさというものなのだろうかと考えることしきりだ。

先々週の木曜日だったか金曜日だったか。
病院のベッドに寝ている母の横で丸椅子に腰をかけていたら、母が私の顔を見て、
「...元気にしいな」
と病と認知症に侵された弱々しい声で言った。

認知症と診断されて1年と半年。
次第に母は意識や記憶が混沌としているのか何を言っているのかわからないことが多くなった。
「今朝、お寿司作ったから持って帰るか?」
と言ってみたり、
「漬物そこにつけてあるから持って帰り」
と他の人のベッドの方へ行こうとしたり、正直どう対応したらいいのかわからないことも少なくなかった。
ところが「..元気にしいや」という一言がやけに正常でそれが別れの定型句の1つであるだけに私は心配になってしまった。
「何言うてんねん。ほら元気やで」
と言い返して私はその不安感を払拭しようとしていた。
安物のテレビのドラマや小説で肉親がそれとなく別れの挨拶をしてそれが最期の言葉になってしまうというようなことを想像してしまったのだ。
この後、なんとなく帰宅しずらくなったものの、まさかと思って後ろ髪引かれる思いは抱えつつ母の入院する病院から家路についたのだった。

あくる日。
夕食を食べさせに病院へ行ってみると昨日と同じ状態の母がいた。
ご飯を八割がた食べさせてデザートのヨーグルトを食べるかと訊いたところ食べるというのでゆっくりと食べさせてその後の様子を見て帰宅した。
さらに一日をおいて夕食時に訪れた。
配膳がまだ始まっていなかったので母のベッドの横の丸椅子に腰をおろしてぼんやりとその寝顔を見ていた。
めちゃくちゃ痩せたな。
昨年のお正月にはちゃんとお雑煮も作ってくれたのに、などと考えていると母がふいに目を開けた。
そして私の顔を見て、
「.......なんでずーっと黙ってるんや......」
と言った。
認知症になってから私の雰囲気をつかんで話しかけることはほとんどなかった。
なのに今度は私が黙っていたことを不思議に思ったのだ。
黙っているからと言葉をどう絞り出そうかと思案している瞬間に、
「三人でな....〇△☓〇☓....なあ」
と母。
「おかあさん、何言うてんのかわからへんわ」
私は母の「三人で」のところ以外は聞き取ることができず、それが面白いように感じていると母が思うように笑いながら言ったものの「三人で仲良く元気にしいや」と言ったのではないかと思われてならなかった。
なぜなら私の家族は妻と娘と私の三人だからだ。
それとも父と母と私の三人のことを言っているのだろうか。
その後、母は私の手を取って震える手で自分の胸元に持っていった。

夕食が運ばれてきたのでベッドのリモコンボタンを操作して母の上半身を起した。
そして母の口にスプーンとフォークで細かく切ったおかずやご飯を運ぶ。
喉を詰めないように時々味噌汁を飲ませながら口に運ぶ。
今夜は九割は食べきり、デザートについていた桃の缶詰を口元へ運ぶと美味しそうに食べきった。
「はーい、ごちそうさまやな」
「食べた...」
食べながら母の体が傾いてくるのが気になったが食べた量が他の患者さんよりも多いような気がしたし看護師の方も「よく食べましたね」と笑顔で言ったのでまだ大丈夫かなと思った。
「帰るよ、お母さん」
食事が終わって落ち着いたところで私は母の手を握ってから病室を出た。出る時に振り返ると少しだけ微笑んで母が弱々しく手を降っていた。
「気いつけや」
と小さな声で実家の玄関先で降ってくれていたときと同じように。

結果的に母に食事を食べさせたのはこれが最期になった。
それに実質的に会話をしたのもこれが最期だった。
看護師さんによると翌日母はいつもどおり朝食と昼食を食べたのだが、午後の床ずれの治療の後に眠り込んだ。
この日も夕食を食べさせようと母の元へ行った私は鼾をあげて寝ている母を見て、
「気持ちよさそうに寝ているな」
と思ってそのまま帰宅したのだ。
その夜から母は昏睡状態に陥いり三日後に帰らぬ人となった。

「元気にしいや」

どう思ってそう呟いたのか。
人は自分の死期を悟り、大切な家族への言葉を残すこともあるのか。
子供だった戦争中、家庭の事情で十分に学校へも行くことができなかった母。
一人息子に残した言葉は凡庸だが母にとっては重要なメッセージだったのかもわからない。





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