<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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二年前の夏の終わり、
「来期は名古屋勤務だから」
と決算日の前日に私は直属の上司だった事業部長に異動転勤を言い渡された。そしてその後すぐ家族と相談してその日のうちに会社を退職することを決断したのだった。
カミさんが「なんとでもなるわよ」と言った一言が効いたのはもちろんだが、家よりも会社を取れと暗に示唆した上司に対して元々煮えたぎりそうになっていた不信感が確固としたものに変わったのも大きかった。
しかし、それよりももっと大きな問題があった。

両親の介護の問題だ。

会社への不満があったことはもちろんだが当時私の父母は双方とも80代後半になり、生活に関して肉体的に若い時と同様の機動力を失いつつあった。
毎週実家に行っては自動車で買い物に連れて行く。
毎月の病院通いを同行する。
金銭の管理。
その他諸々。

とりわけ気になりだしていたのは母のボケ具合。
何か障害があるというわけではなかったのだが、料理のレシピを忘れるような記憶の問題が起こってきていることと、足が悪いので歩行が大変になってきていることだった。
肉体面はともかく記憶についてが特に心配だった。

仕事の関係で毎週のように大阪から東京、仙台を往復するような出張生活をしていたので、どこかで転勤を申し渡されるのではないかと思っていたが、ついにその時が来たのかと思った。
出張だと毎週確実に両親の様子をこの目で伺うことができるが、転勤すれば帰阪することはままならなくなる。
このとき、年明けには娘の大学受験も控えていた。
私が大阪を離れるとカミさんが多くを一人で見なければならなくなる。
カミさんのほうにも一人暮らしの義母がいる。
カミさんへの負担は最小限にとどめたいとも考えていたのだ。

退職を決意してから次の仕事先を探していみたが年齢が年齢だ。
50を過ぎた男が簡単に仕事を見つけることなどできるわけはない。
会社を騙し透かししながら引き伸ばしに伸ばした退職日には無職となることが決定していた。
同僚たち、かつての部下たちは心配してくれたが自分が選んだ生き方なので特に辛いという感覚はなかった。
ただ生活をどうするのかという問題があった。

退職金は残っていた実家のマンションのローンへの繰り上げ返済に投入。
借金を完納させた。
私は退職金は暫くの生活の糧に必要かと思っていた。だが「借金がないほうが気持ちの上で有利やで」というカミさんの後ろ押しがあって全額はたいて支払ったのだ。
依願退職なので失業保険が出るまで3ヶ月。
その間は私の貯金を切り崩すことにした。

「生活、大丈夫なんか?」
面倒を見ているはずの実家の両親が心配する。
その都度、
「大丈夫。転職は初めてやないやろ。信用しておいて。」
というしかなかった。

その間も就職活動を続けるが芳しくない。
転職サイトに登録もした。
でも、オファーが来るのはタクシー運転手、バス運転手、塾の経営、内装フランチャイズ、不動産営業のようなものばかり。
私の専門と関連したものは特殊なのでなかなか見つからない。

たまにバイトをしたり、交流会、異業種会に出ては方向性を探るが就職は難しそうだった。
やがて失業手当が給付されはじめた。
でも仕事は見つからない。
その結果、意を決して決断したのは、
「もう会社には就職しない。自分でやる」
という起業なのであった。

起業するとすると何をやるのかというと、最後の仕事だった企画・マーケッティングおよび設計という総合的なデザインに関する業務だった。
でも心配が頭をよぎる。
個人としてのデザイナーの実績のない私と付き合ってくれる会社があるのか。
相手にもされないのではないか。
果たしてできるかどうか未知ではあったが、やるしかない。
まずは私は会社員時代に付き合いのあった当時のお客さんを手当たり次第に回ることにした。
ほんとは退職した会社との取り決めで、そこが取引する会社には一定期間出入りしないという取り決めがあったのだが、そんなことは言ってられなかった。

親の面倒を見る必要がある。
家族の面倒を見る必要がある。
娘の大学生活を支援してやる必要がある。
生きなければならなかったからだ。

回り始めて初めてわかったのだが、かつての取引先は私をしっかりと見てくれていたことだった。
辞めた会社で私が何をして、どんな実績を作っていたのか、どんなアイデアでもって実行している人間なのか、といったことを。
「会社との取り決めがあって、ホントは」
というと、
「秘密を守ればいいんです。出入りしないとか仕事をしてはいけないというのは憲法違反ですよ。」
と笑いながら言ってくれる会社もあった。
正直、一言一言が嬉しくて勇気が湧いてきたのだった。

暫く東京、大阪を回っているとある日、JRの駅で電車を待っているときに、
「今どうしています?元気にされていますか。相談があるんです。手伝ってほしいことがあって。少し難しい案件があるんです。」
と携帯に電話がかかってきた。
仲の良かったある会社の営業マンからの電話だった。
これが起業後、私の初めての仕事になった。
安定して食べられるほどではなかったけれどもしっかりした会社の仕事だったし、専門分野でもあったので金額も決めずに承諾した。

退職してから最初の仕事を貰えるまで約5ヶ月。
この間に娘の受験があり、父が誤飲性肺炎で生死の間をさまようこともあり、しかも私自身が咳が止まらずCT診察してもらうと肺がんのステージ1の疑いがあるとの診断が出て検査入院をするなど大変な5ヶ月だった。
私にがんの疑いが出たときだけは流石にカミさんは泣いた。
「酒は飲むけどタバコ吸わんのに肺がんなんてありえへんで」
と言って慰めたが、検査結果が出るまで不安は拭えず、思えばこの時期が一番つらかったかもしれない。
検査入院中に母が実家から悪い足をひきずってタクシーで見舞いに来てくれたことがあった。
病院は呼吸器専門の大型病院で結核患者も多いことから高齢の母になにかあってはとならないと思い、追い返すように帰らせたことを今も時々思い出す。
検査の結果は軽度の肺炎なのであった。

最初の仕事をもらってから2年少しが経過した。

その間、悪い予感は当たるようで生死の縁をさまよった父は2ヶ月の入院の後に退院。
肥満した体はガリガリに痩せてしまった。
勢いはなくなってしまったが、記憶力が年相応になったことを除けば認知症の気配は微塵もない。
それとは対象的に父の入院をきっかけに母が衰弱した。
物忘れだけではなく、買い物の決断もままならなくなってきたので専門医に見てもらうと認知症との診断。
アルツハイマーかどうかはわからないが、水頭症があるとも言われ母を連れての病院めぐりが始まった。
かかりつけの病院から認知症診断の専門病院、脳神経外科、内科などなど。

もし異動転勤を受け入れていたら、こんな対応はできなかったに違いない。
自営業だからこそ、自分で時間を割り振りして家族の面倒もみることができる。
もちろん仕事も熟す必要があるので朝早くから深夜まで資料作りや打ち合わせでアクセクすることも少なくない。残業何時間なんて関係ない世界だ。

昨年は会社員時代に所属した研究会の理事の一人から連絡を受け、その研究会の仕事をさせてもらったことをきっかけに研究会に復帰。
「わたし、個人資格で再参加させていただいていでしょうか?」
と聞いたところ、メンバー幹事の大学や研究所の先生方、かつての取引先や競合先の皆さんから「大歓迎」の返答をもらい、しかも歓迎会まで開いていただいた。
まだまだ安定しきってはいないものの、家族と一緒にいられて親を看取れて、会社員でありつづけるよりも、この判断は良かったのだとつくづく感じているところだ。

介護を理由に会社を退職する人が多く、それが社会問題になっているという。
親の介護をするには私のように50を超えて、ということがほんとどなのだろう。
日本の社会では高齢化社会と言いながら中高年の転職は難しい環境が続いている。
終身雇用が当たり前の感覚も崩壊しつつある今、働き方改革を進める上で中高年の転職環境の整備は重要だとつくづく感じている。
フリーランス、副業の奨励など。
現在の政府が取り組んでいる様々な試みはこのような社会情勢を背景に見据えたものに違いない。


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