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相撲は国技である。
私はもしかすると野球のほうが国技ではないかと思う時も無くはないのだが、神代の時代から神様への奉納や祭、イベントなどで再三繰り返されてきた興業物である相撲はやはり日本の国技なのだ。
とはいいながら、ここ19年間もの長きに渡り日本人横綱が一人も排出されることはなかったのは驚きだ。
横綱はほとんどがモンゴル人なのであった。
つまり外国人の相撲取りなのあった。

外国人の相撲取りというと私のような1960年代生まれの者にとってはやはり高見山が思い出される。
ハワイ州出身。
毛深く、愛嬌のある姿。
強いようで強くなく、弱いようで強かった大関で、ハワイ人らしく歌もうまく踊りもうまかった。
「おー!マルハチ♪」
というような、エンタテナーな相撲取りなのであった。
高見山が歌や踊りよりという特技はともかく、多くの相撲ファンに人気があった理由は、やはり控えめな印象が強かったからかもしれない。
日本人は自己主張の強い人は、どちらかというと敬遠したくなるというところがある。

これに対してモンゴル人は困った存在であった。
まず、外国人だが外見が日本人にそっくりである。
これは仕方がない。
我々のようなアジア人の一部を人類学上はモンゴリアンと呼び、生まれた時にケツが青いという共通点もある。
従って普通に見ている分については外国人に見えず、日本人が相撲を取っているという錯覚に陥る。
最新のCGを用いなくても特殊効果が発揮されるというわけだ。
次に、モンゴルの国技も相撲であるという勘違いがある。
これはいわゆるモンゴル相撲と言われるもので、実際は相撲ではなくレスリングではないかと私は思っている。
だが世間一般では「モンゴル相撲」などと呼んでいるために「お、相撲の親戚か?」と一般人を騙すことができる。
で、最も深刻な問題は、モンゴル人は強欲であるということであった。

朝青龍は本性を早い段階で露呈して日本相撲界から追放された。
白鵬は朝青龍とは違うだろうと思っていたが、そんな一般的な日本人の期待を時間の経過とともに徐々に裏切り、今や立派なヒール横綱である。
彼らに共通するのは「金(カネ)」であって「相撲」はそれを得るための手段でしか無い。
横綱になる時に「相撲道に邁進し」などと言ったものがいたようだが、相撲を相撲道と呼ばなければならない「ごまかし」が存在するのが昨今の相撲なのであった。
もちろん相撲も他のプロスポーツと同様に興業物なので「金」が目的であることは間違いないのだが、日本人は「金欲」を露骨に見せることを良しとしない。
従って徐々にではあったが、今は露骨にモンゴル人相撲取りを応援する気にならない人も少なく無いはずだ。

兵庫県芦屋市生まれで栃木県育ちの稀勢の里が横綱に昇進した。
横綱の挨拶に四文字熟語を使わないところにわざとらしさを感じないが、年齢が年齢でもありこれからどれくらい活躍してくれるのか大いに気になるところだ。
平成最後の横綱は日本人で締めくくりたい。
そんな想いも交錯する大相撲のニュースであった。

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