<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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新年最初の映画は映画館ではなく自宅のリビング。
レンタルしてきたピクサアニメーションの「インサイドヘッド」を鑑賞した。
この映画はロードショーされていた時は最寄りの劇場では日本語吹替版しか公開されておらず、なかなか劇場に足を向けることができずに結局見逃してしまった作品だ。
最近の洋画は字幕ではなく吹き替えで公開されることが少なくない。
吹き替えは大きな画面の劇場で鑑賞するにはいささか難がありついつい敬遠してしまう。
とりわけ子供が主な観客になりそうな映画は吹き替えなので面白そうと思っても劇場に行かない事が多い。。
見たら見たでリジナルの雰囲気が楽しめず、幻滅することになる。
これまで日本語版で最悪だったのがシュレックの日本語版と怪盗グルーの日本語版。
主人公が声優としては素人の関西弁丸出しのお笑い芸人を充てるのは観客に対して失礼ではないかと思う。

そういうこともあってアニメ作品はDVDになってからレンタルで見ることが多くなった。

ピクサーの「インサイドヘッド」は人の基本的な5つの感情に人格を持たせて、記憶の世界と人の世界を結びつけて展開する冒険物語だった。
いや、冒険物語と一言で片付けてはいけない。
人の世界の方は家族の物語で、頭の中が冒険物語。
この2つが絶妙な繋がりを見せることで楽しさと感動が引き出されている。
そういう物語なのであった。

ピクサーの映画は「カールじいさんの空飛ぶ家」あたりからしんみりとさせる作品が増えてきた。
笑いあり、驚きあり、アクションあり。
最後に涙がある。
かなり古い例えだけれども藤山寛美が座長をしていた頃の松竹新喜劇のキャッチフレーズ「泣き笑い劇場」。
観客を笑わせながらクライマックスで涙に誘い、そしてエンディングで笑いを呼び起こす。
何か相通じるものがあるように感じられるのだ。
ピクサーは演劇としてのオーソドックスな手法を正当に駆使しているのかもしれないと思った。

もうひとつ、この映画を見ていると技術的なことにも目が留まった。
映画に登場するサンフランシスコの街並みや人の表現がCGということはわかるのだが、随分リアルであり、かつ絵画的であったことだ。
「トイ・ストーリー」が発表された頃のCGには描画には技術的制約が無数にあり、リアルな人物や街を描くのが超不得意であった。
形状の単純な「おもちゃ」を主人公にした映画だったのにも、そのあたりに原因があったのだと思う。
数年後に作られた「トイ・ストーリー2」でプレミア玩具の販売を行っている悪人が居眠りをしているシーンがある。
主人公ウッディーがその悪人の顔によじ登るのだが、その時の皮膚の産毛まで表現されていたことが当時の日経CGだったか、月刊PIXELだっかたの専門誌で絶賛されていたことを思い出した。
「インサイドヘッド」
を見る限りもうそんなことは当たり前。
CGアニメは観客の感情にどのように訴えるのか。
技術が発達した一方、その技法にもはや限界はなくなりつつあるだけに、描画の苦労は明らかに違う方向へ向いていることが感じられた。

なお「インサイド ヘッド」というタイトルは間抜けな邦題だ。
そもそも心は頭の中にあるのか。
「心はどこですか?」
と単純に訊ねたら、多分多くの人は自分の胸に手を充てるのではないだろうか。
記憶は脳細胞に蓄積されるのだから「インサイドヘッド」か。
それってちょっと短絡的すぎはしないか。
原題の「インサイド・アウト」は物語と関連したそれなりに深い意味があるのだが、インサイドだけ引き継いで映画の表面しか捉えていないのではないか。
ディズニー日本のスタッフのセンスも案外「?」ではないかと思ったのであった。

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