全英連参加者のブログ

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Japan and the Netherlands

2006-04-02 09:33:42 | 全英連参加者 2006

【日蘭交流の話し2題】

 1日の読売新聞ウェブサイトや朝のニュースで、長崎出島(跡)の修復作業が終わり、一般公開が始まったことを伝えていた。
 完成したのは、オランダ商館長の住居「カピタン部屋」、輸入した砂糖や酒を納めた「三番蔵」など10棟。
 出島の周辺は、明治30年代までに三方が埋め立てられた。長崎市は、中央、東部分の計15棟を2010年までに復元した後、周囲に堀を巡らし扇形の島を復元する予定で、今回竣工分の工事は出島復元工事の第2期分。これで2000年完成分5棟と合わせて計10棟。19世紀初頭の出島を完全復元する夢に一歩近づいた。

 一般公開に先立って、式典があったようだが、市長とアルフォンス・ハーメル駐日オランダ大使ら関係者約700人が出席したとのこと。
 市長
 「出島は海外の学術や文化が入ってきた歴史的に貴重な文化遺産。往時の雰囲気を体感し、新しい魅力を発信したい」
 ハーメル大使
 「オランダと日本両国に情報や文化を伝えてきた出島が美しく再現され、感慨深い。両国の交流の歩みを現在も記憶している出島の歴史を生きたものにしてくれた」

 全英連長崎大会は1999年に長崎市内で開催された。その時宿泊した長崎ワシントンホテルから出島の工事をしているところまでほんの数分だった。

出島和蘭商館跡周辺

 大会前日の夜、飛行機で長崎に着き、空港から高速バスで長崎駅に着いたのが9時過ぎだったか。駅前から路面電車に乗ればよかったのに、よくわからなくて歩いてホテルまで行った覚えがある。翌日はホテルから築町停まで歩き、そこから電車に乗って、茂里町停の長崎ブリックホールまで出かけた。
 1日目の研修会の後、帰りは長崎駅前で降りて、町をぶらぶらした。出島(跡)は読売の記事にあるように埋め立てられて陸続きになっており、かつての出島の範囲を示すため、道路上にへりを示すタイルが示されているだけだった。そのヘリの示された道路を、路面電車が走っていたことを覚えている。あのとき工事中だったものが完成したのが翌年の2000年。今回のはその続きの工事だったわけだ。
 懐かしいな。。。
 この出島復元事業は1996年開始。建物25棟を15年で建設する短・中期計画と、扇形の島を完全復元する長期計画からなる。総事業費は計約170億円。出島は明治以降私有地になった場所もあり、これらの土地の公有化(購入)なども含めて15年間で170億円は公共事業としては安いのかもしれない。経済効果は工事にかかるお金+観光客誘致の効果を考えれば、元は取れるのだろう。

*****

 こちらは毎日新聞から
 ゲースベルト・ヘンミィ(掛川で客死のオランダ商館長)、200年ぶり墓石修復/静岡

 この人は江戸時代のオランダ商館長。掛川城下で病死した。掛川市の天然寺というお寺にお墓がある。
 江戸時代実質的に唯一の外交関係があったオランダ。そこの商館長だってたくさんいたのだから、日本でなくなった方もいたのだね。

 ヘンミィは1798(寛政10)年、長崎出島から江戸に出て将軍に謁見、掛川宿本陣で発病し、死亡。天然寺に葬られた。墓は砂岩製のかまぼこ型墓石(長さ170cm、幅85cm、高さ17cm)でオランダ語の碑文が刻まれている。当時のかまぼこ型墓は現在、国内では長崎市にあるだけという。
 墓石は玉石を積んだ台座上に安置され石サクで囲まれているが、製作から200年以上経過し傷みが激しくなったためオランダ大使館と同市が共同で修復を計画。昨年10月から、墓石表面の汚れを除き石材を薬剤に浸して強化した。
 ハーメル大使
 「これで22世紀まで持ちこたえられるでしょう」
 戸塚進也掛川市長
 「ヘンミィ氏はオランダで大変有名な人と聞いている。両国の友情を深めたい」

 ヘンミィは1746年生まれ。92年に出島商館長になった。98年の2回目の江戸参府で将軍・家斉に拝謁したが6月、掛川で客死。

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