tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

パパってなに?

2007-09-03 19:34:02 | cinema

父親の役割ってなんだろう。家族のあり方が多様化している現在、一律的に父親の役割を論じることは難しいのだが、少なくとも従来は母子のように密着した関係を維持する役割ではなく、子どもの社会化を支援し人生の良くも悪くも手本となることだとされてきたように思う。しかし、厳格な父親は減り、子ども中心に物事を考え、母親と子どもの関係の延長線上にいる優しい父親が増えているし、そういう存在である事を要求される世の中になってきている。
女性の就業、社会参加の機会の多い現在の社会では、父親の積極的育児参加が必須であり、父親の役割に母親の役割をオーバーラップすることも必要になってきているのは間違いない。しかしながら、子離れ、親離れのできない母子癒着や、育児ノイローゼ、また、家庭内暴力などの問題行動や心身症を発生させる家庭が増大する現状をみると、どこかが間違っているのかと疑わざるを得ないのも事実だ。

6歳の少年サーニャは、生まれる前に父を戦争でなくしている。彼が、生涯、父親と呼べる人間と共に暮らしたのは、6歳のごくわずかな一時期でしかない。しかし、そのわずかな時間で、彼は父親と呼べる男から、多くのことを学ぶ。人生を送る上で大切な事柄だ。
子供のけんかに親が出て行くのはなんと言っても卑怯だ。今の日本では、これが普通に行われる。いじめにあって死んだりでもしたら大変じゃないかという。だから、子供をいじめるやつらを、今度は保護者達が集団でいじめにかかる。いじめられたいじめっ子は、さらにいじめられっこをいじめる。いじめのダブルスパイラルだ。どこかで、断ち切らなければならない。当然、大人がいじめをやめればよい。
親として必要な事は、いじめっ子を矯正することではなく、子供がいじめ社会で生きていく勇気や知恵を授ける事だ。それには、こどもの喧嘩に立ち会うことも必要な場合がある。手出しはせずに、喧嘩に勝つまでやらせる。子供は、親の視線を感じて勇気を出す。「けんかしちゃダメよ」はオンナ・コドモに任せておけばよい。
人間と言うものを教える事。いじめっ子は必ず集団化する。弱いからつるむ。その連中に、相手が動けなくなるまで徹底的にやるという姿を見せれば恐くなって絶対にやってこない。堂々としていれば向こうは喧嘩を売ってこないのだ。ただ、向こうの土俵で戦うことになれば、何をされるかわからない。集団はエスカレートする。呼び出されたなら、イマスグそこで堂々とやることだ。
サーニャは、それなりに腹のくくりかたを覚える。そして、父親どおしの喧嘩に発展した時に、卑怯と思えるような手を使って相手をぶちのめす父の姿を見る。これが喧嘩のやりかたなんだ。鼻血をはでに出して戦意を喪失した相手は、最初の威勢はどっかに行ってしまっている。

父親が、卑怯な男であろうが泥棒であろうが、子供が人生を学ぶ上で父親の存在は大きい。サーニャが妊娠中絶に失敗して死んだ母親の敵を討ったのは、ごくほんのわずかの期間に父親と呼べる存在であった男の人生を乗り越えた時だった。この先、彼がどんな生き方をしていくのかはわからないが、少なくとも、「けんかしちゃダメよ」とオンナ・コドモのような事は口にすまい。彼は、人生を生き抜く勇気を男から与えられたのだから。