彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❷八木城②―最後の城主・内藤ジョアンの流転

2021-01-29 09:07:21 | 滞在記

 

  2010年に八木城を訪れた際には、本郭(本丸曲輪)と二の丸曲輪ぐらいしか見ていなかったので、今回は巨大な山城全体を見て廻るつもりで来ていた。この日、この八木城の麓から車で30分ほどの所にある南丹市国際交流会館「八木城と内藤氏」に関する講演会が予定されていて、参加申し込みをしていた。このため12時半頃には下山して車で向かう必要があったが、講演会よりも城全域を廻る方を優先した。まだ下山に要する時間は30分ほどなので1時間ほど見て廻る時間がゆうにあった。

 二の丸曲輪から北の丸曲輪群に向かう。山の尾根にそって雛壇(ひなだん)に曲輪が続く。途中、防御のための堀切や崩れた石垣も見られた。

 小さな洞穴があった。そこに説明版があって、「姫の洞窟―明智軍との戦いの際、内藤一族の姫がこの洞窟から逃げたとの伝説あり」と記されていた。北郭群の先端まで下りた。

 次に南西支城郭(曲輪)群に向かう。ここはこの曲輪群だけで一つの山城となる規模があるようだ。一旦、二の丸曲輪に戻り、深く大きな堀切に下りてから南西支城郭群に向かった。20分ほどかけてこの曲輪群を見て廻る。

 下山にとりかかる。この1年間、オンライン授業のために座りながら腰を少ししゃがめる姿勢が続いていたので、最近は腰の調子がよくない。下山は腰にかなりの負担をかけるので、これまたゆっくりと進む。青空とまだ少し残る木々のコントラストが美しい。1合目の北屋敷跡地付近の登山道は落ち葉が分厚く敷き詰められ、坂道ではスキーのように滑ってしまった。枯れ沢が山の方から続いている。この山城の山頂付近には井戸はなかった。籠城の際の水確保の問題はちよっと深刻だったかもしれない。

 登山口付近には内藤ジョアンの✝クロスの石碑や武将ジョアンが書かれた幟(のぼり)。大きな城案内板が設置されている。「明智光秀丹波攻略の地—戦国ロマン!八木城跡―JR八木駅から徒歩20分  登山口から八木城本丸まで約40分」と書かれ、最近作られた城の絵図が掲載されていた。

 八木城の麓には、内藤氏一族の菩提寺「東雲寺」があった。石垣がまるで城のような寺院だった。ここから八木城を見上げる。車を走らせながら八木城の山容をいくつかの場所から眺めた。紅葉がまだ残っているところも。

 午後1時ちょうどに南丹市国際交流会館に到着した。この日は「丹波八木城にせまる」と題した三浦正幸氏(広島大学名誉教授)の講演が行われた。「八木城と内藤氏~戦国争乱の丹波~」をテーマとした講演会や野外見学会が南丹市文化博物館の主催でこの秋に開催されてきていた。11月8日は「明智光秀と丹波攻略」(講師:渡邊大門氏)、11月28日は「織田信長と内藤ジョアンについて」(講師:福島克彦氏)。渡邊氏と福島氏のこの二人の優れた歴史家の講演はとても聞きたかったのだが、事前申し込みの電話をした段階で定員満杯となっていて締め切られていた。

 南丹市文化博物館では、10月24日~12月6日まで「八木城と内藤氏」の企画展示、亀岡市文化資料館では、10月24日~12月13日まで「丹波決戦と本能寺の変」の企画展示が開催されていた。京都府福知山市も企画展示を行っていたようで、「NHK大河ドラマに明智光秀を!」の招致活動をここ10年間ほど熱心に取り組んできた京都府の三つの市は、郷土の通史的な歴史についての教育活動が盛んな町だ。

 ―内藤如安(ジョアン)―

 1550年頃の生まれとされる。本名は内藤忠俊。如安はキリスト教入信の受洗名・ジョアンの音訳名。1564年、ルイス・フロイトによりキリスト教に入信(14歳のころ)。翌年には父・内藤宗勝の突然の戦死にともない内藤家を継承し八木城主となる。1573年、将軍足利義昭が反織田信長の旗を掲げて挙兵すると、将軍方支援のため600の騎馬兵・1400の兵卒を率いて京都に出兵。

 1575年、信長の有力武将・明智光秀軍に八木城を攻められ落城。(25歳)   西国方面に逃れた。その後の消息は不明となるが、1982年には義昭が滞在していた鞆の浦(広島県福山市)に如安も滞在していたことが記録に残る。1585年、豊臣秀吉政権下の有力武将・小西行長(クリスチャン大名)に仕え、朝鮮出兵に共に出陣する。1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した小西行長は斬首される。この時、如安は50歳。 九州のクリスチャン大名・有馬晴信の手引きで長崎の平戸に逃れる。その後、九州熊本の加藤清正の客将となる。

 1603年、加賀・前田家に客将として迎えられる。金沢城にはすでに如安と志を同じくする戦国武将・高山右近(元・大阪高槻城城主)が滞在していた。1614年、徳川幕府による「キリシタン禁止令」の発布により、如安は高山右近らとともにフィリピンのマニラに追放された。マニラではフィリピン総督以下住民たちが祝砲を打って迎え入れた。マニラのサンミゲル地区に日本人クリスチャン町をつくる。1626年、マニラにて死去。地元のサンミゲル教会の墓地に墓があるようだ。(享年76歳)

 八木城のある京都府八木町とフィリピン・マニラ市は姉妹都市となる。その後の市町村合併後の京都府南丹市とも姉妹都市関係を新たに締結して今日に至っている。