本丸を中心とした山上曲輪群から東南方向に城道が下りている。次に目指すのは籠城戦の命の要、城の水場であった「朝路池」。「どこにあるのだろう、行き過ぎてしまったのか?」と思いながら平坦になった尾根道を歩き始めると「伝 池東番所」の標識が見えた。ここの近くに池があるのだと確信した。更に城道を下ると分岐点が。右の道を少し下りると深い堀切があった。その堀切の道をさらに下に行く小道があった。
小道を下ると広い場所にポツンと小さな池が見えた。こんな山中に水を今もたたえている池の光景に心が沸き立った。池に近づいて眺める。1年半にわたる何千人という籠城兵士たちの命の綱だったこの「朝路池」。この「八上城」巡りで最も心が震える場所だった。この池を防御するための「池東番所曲輪」と対(つい)になっている「池西番所曲輪」も見える。その曲輪の先端はかなり深い堀切があり防御力を高めていた。ここもまた、籠城戦での激戦地だったと思われる。ここを攻城軍に占拠されたら戦いは継続できなくなる。
この「朝路池」には二つの伝承がある。一つは、落城の時に城主・波多野秀治の娘である朝路姫が池に身をなげたと伝わる。もう一つは、一人で池のほとりに立ち、水面に映った自分の姿が美女に見えたなら、年内に必ず死ぬという。この日は12月26日、年内だとあと5日間くらいの命、今回はまだもう少し生きたいので、水面に顔は映さなかった。こののち、もうここらあたりで命を閉じようと思える時が来たら、再びこの朝路池を訪れたくなるかもしれないと、ふと思った。それにしても、この池にたった一人で佇む(たたずむ)のは、ちょっと寒気もする場所だった。いわゆる「霊」(れい)を感じやすい場所に思えた。
分岐点まで戻り、東尾根曲輪群を目指す。もう一つ今回ぜひに見ておきたい場所があった。「伝 磔(ハリツケ)の松」だ。どこにあるのだろうとそれらしい松の大木を探しながら東尾根曲輪群の城道を下る。突然に、「伝 はりつけ松跡」の標識が見えた。ここにあった松の木の大木が「はりつけ松」だったのだろう。もう400年以上も昔のことなので松は老木となって朽ちたのかもしれないが、標識の所に伐採された松の木が置かれてもいた。
当時はこのあたりの木々も伐採されていたのだから、はりつけの様子は麓の攻城軍からも見えたのだろうか。ここで磔(はりつけ)になったとの伝承があるのは明智光秀の母・「お牧の方」とその侍女たちだった。当時、光秀は52歳なので、母の年齢は70歳を超えている老女かと思われる。この地点の下には八上城のもう一つの水場であった「血洗ケ池」がある。
東尾根曲輪群を進む。かなりの広域な尾根筋の曲輪群だ。「茶屋の壇」、「馬駈場」などの曲輪を通り、曲輪群の先端「芥丸郭(曲輪)」「西蔵丸郭(曲輪)」に至った。ここは「藤木坂口」という城道からの敵の侵入を防御する最前線だった。赤く紅葉している松の大木があった。はりつけに用いる松としてはまさにこんな松かと思った。藤木坂口の城道を下る。自然自生している松の小さな苗がたくさんみえた。この曲輪群一帯は松の木の樹林帯だった。
藤木坂口を目指して山を下りる。本丸を後にしてからは、ずっと人っ子一人出会わない。細い山道のそばを細い渓流が流れていた。分厚く積もった枯葉の道に夕陽の光が帯になって差し込んでいる。山を下りると人家があり旧山陰道(篠山街道)の細い道が通っていた。旧山陰道から八上城のある高城山を遠望する。
車を駐車していた春日神社口(右衛門道=大手道)に戻る。ここの旧山陰道沿いに「国宝堂」という骨董店がある。13年前にこの店に立ち寄った時に、当時60歳くらいの私と年齢の近い店主と話したことがあった。その時に、「以前に、歴史作家の安倍龍之介さんが立ち寄りましたわ」と話していた。話がはずむうちに、明智家の紋・桔梗(キキョウ)紋のある兜(かぶと)を見せてもらった。私は若い時から明智光秀という人にとても親近感をもっていたので、「ほしいなあ‥」と話したことを思い出す。
今回13年ぶりに店主と話したかったので、店に入った。あの兜は今もここにあるのだろうか。店の中の佇まいも依然と違って何かちよっとさびれている気がした。女の人が家の奥から出て来た。聞いてみると「父は亡くなりましてえ‥」とのことだった。かっての店主の娘さんのようだ。
店の中には、「本能寺の変の謎は 丹波篠山にあり」の題字の、磔にされている光秀の母、光秀、八上城主・波多野秀治の3人が描かれたポスターや「11月7日講演会(丹波篠山市) 光秀の丹波平定―八上城攻めに寄せて 講師:桐野作人氏~明智光秀が苦闘した 波多野秀治の戦いの全貌が語られる」のポスターなどが貼られていた。
あらためて、その13年ほど前のパソコンに保存してあった写真を見る。(上記4枚の写真) 旧山陰道に面した店の前にも骨董が陳列されている。明智の桔梗紋が左右に入った兜を持つちょび髭の店主の姿。娘さんに兜のことを聞くと、「あれは まだ父が生きていた頃にい 誰かに買われたんですわ‥」とのことだった。今、あの兜はどこにあるのだろうか。
2004年初版の『戦国の山城をゆく―信長や秀吉に滅ぼされた世界』安部龍太郎著(集英社新書)を読み返してみると、第九章に「光秀の母は殺されたのか(丹波八上城)」がある。この章に、この「国宝堂」のことが記述それている。「街道沿いに国宝堂と大書された骨董屋があり‥‥八上城の麓だけに、何か由緒があるかもしれないと思って立ち寄ってみた。応対に出られたのは、五十がらみの恰幅のいいご主人である。話をうかがううちに、この方が八上城の城代家老であった喜多川氏の末孫であることが分かった。」
この喜多川氏は足利将軍家とも深い繋がりのある家系で、第13代将軍・義輝が1565年に三好軍に攻められ京都二条御所で殺された時、三歳になる義輝の長子を連れて都を脱出し、八上城下で養育した。(※その子は長じて仏門に入り、八上城下の谷に「清浄山 誓願寺」を開山する。義輝の弟で第15代将軍義昭の甥っ子にあたる。) 安部龍太郎はこの店で喜多川一族ゆかりの品々を見せてもらい、長さ一寸六尺ばかりの名工「備州長船祐定」の銘のある太刀を購入し、京都の仕事場の部屋に置いているという。これも何かの縁で、いつの日か波多野氏の物語を書くことになるかもしれないと記していた。
◆安部龍太郎氏は最近では、雑誌サライに「半島をゆく」シリーズで各地の城址を訪ねる連載をおこなっている。
13年前の本丸郭(曲輪)群は木々の大木樹木に囲まれ篠山盆地は現在のように一望はできなかった。(上記写真)