彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❸八上城①波多野一族の巨大山城、すごい眺望が

2021-01-30 19:24:48 | 滞在記

 丹波篠山市にある八上城(やがみじょう)は、1575年~79年の織田軍団の明智光秀軍による5年間にわたる丹波国攻略(平定戦)の中でも最も激しい1年半にもわたる籠城戦が繰り広げられ、餓死者も続出し落城した巨大山城である。落城にまつわる悲話など、その歴史性がとても高い山城だ。13~4年前にこの八上城に一度登ったことがあった。この時は主郭群を中心に城域の半分くらいだけを見て廻った。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」での丹波平定戦が12月頃から始まったので、城山に積雪がまだない日までには、この八上城に再度登り、今度は城の全域を見て廻りたいと思い12月26日(土)、京都府亀岡市から山陰街道(篠山街道)を通って八上城の麓に来た。

 紅葉が残る12月2日には、八上城の東方面の有力な支城であり、明智軍に頑強な抵抗・籠城戦をおこなった籾井城と細工所城を訪れていた。丹波三大山城の一つで国史跡ともなっている八上城跡は、「丹波富士」とも称される高城山(標高462m)に築かれた八上城を中心に、奥谷の城下を挟んで法光寺山の法光寺城や高城山の麓にある奥谷城を配した東西3km、南北2kmほどにも及ぶ大規模な中世山城である。本丸曲輪からは丹波篠山盆地が一望できる。

 本城・八上城は山上曲輪(郭)群を中心に、西尾根曲輪群、東尾根曲輪群、南郭群からなる。高城山の北麓には古山陰道(篠山街道)が東西に通じる。また、南東の街道や南西の街道を通じて大阪の能勢や兵庫の三田や西脇とも近い。

 午後1時頃に八上城山麓の春日神社登り口に着く。「麒麟がくる」の放映もあってか、無料駐車場がつくられていて車が数台駐車されていた。登り口には新しい城についての説明看板が2枚、新しく設置されていた。13年ほど前に来た時の古く字が消えかけている看板もまだあった。この八上城は京都府八木町の八木城と同じくらいの大規模な巨大山城だ。

 春日神社の鳥居をくぐり城域に入る。今にも崩れそうな古色蒼然とした春日神社。小学生1年と3年ぐらいの男の子の孫2人と私と同じくらいの年齢のおじいちゃんの3人づれが来た。孫たちの後をついて行くこの男性は、「いやぁ、こいつらと山を登るのは えらい大変なんですわ ついていくのが‥」と笑顔で話しかけてきた。まあ、「これは 楽しいことではあるが 猟犬のように駆けていく孫たちと行くのは辛いだろうなあ‥」と思った。

 ここ春日神社から本丸曲輪まで60分とあるが、私は1.5倍の90分くらいのペースでゆっくり登る。すぐに「主膳屋敷跡地」の標識が。ここは家臣たちの北方方面の番所や屋敷地があった場所。急こう配な大手道の山道を登り続けて20分くらいすると「鴻ノ巣」曲輪に着いた。明智軍の侵攻だけでなく、1500年代において7回の攻城戦・籠城戦が繰り広げられた八上城でも、この曲輪やさらに上にある「茶屋の丸」曲輪あたりは、最も激しく戦闘が行われた城域かと思われる。

 「鴻ノ巣」曲輪からのものすごい急こう配の道を登り切ると「茶屋の丸」曲輪に着く。休み休みだが息が上がり、足にきていた。ここからは丹波篠山盆地や篠山市街がかなり一望に望めはじめた。長く平坦な尾根道(大手道)の先の高所の山の本丸曲輪群が遠望できる。まだ城の半分くらいまでしか登っていない。平坦部の尾根道(中の壇)が終るとまたまた急こう配の山道が続く。ここには段々畑のように小さな曲輪群が連続する。藪椿が数輪もう開花していた。春日神社からここまでが「西尾根曲輪群」と呼ばれる城域。

 西曲輪群が終わりようやく山上曲輪群が見え始めてきた。「右衛門丸郭」の周囲は石垣が施されている。さらに登ると「三の丸郭」、「二の丸郭」と続く。二つともかなり広い郭だ。13年ほど前に来た時は木々の大木が繁っていて樹幹越しに丹波篠山盆地をのぞき見したが、今回来たら、樹木が伐採されて大展望が開けていた。地元有志たちの仕事なのだろう。素晴らしい眺望だった。

 伐採された大木が二の丸と本丸の間に置かれていた。本丸郭が見えてきた。本丸郭の周囲は石垣で囲まれている。古色蒼然とした古城の風格がある山城だ。

 本丸郭下の岡田丸郭に行く。ここからは東方の京都府との県境の天引峠や支城の籾井城、細工所城のあった山が見える。山上曲輪群を防御する切岸は傾斜角度は50度以上ある。

 本丸郭に登る。ここからのはほぼ360度の眺望が開ける。

 本丸郭には顕彰碑がある。明治期に建立されたようだ。「贈 従三位波多野秀治公表忠碑 公爵毛利元昭 題」と刻まれている。ここ八上城の波多野氏や黒井城の赤井・荻野氏らの織田軍との戦いは、西国の大国・毛利軍との対織田軍との連携した戦いでもあった。長い籠城戦を耐え、毛利軍の派遣を心待ちにしていた戦いでもあったが、そのことはかなわなかった。毛利氏としては300年後の明治維新以降もそのことをずっと「すまない」と気にしていたのだろうか。題字は公爵となった毛利氏の末裔が書いていた。

 本丸郭にもまた八上城の説明や支城群の場所や城名が航空写真とともに記されていた。明智軍はこれら支城を一つ一つ落城させながら、本城「八上城」を完全包囲していった。