彦四郎の中国生活

中国滞在記

福州と沖縄❷―福州「琉球館」(在中国 琉球国大使館)その①―

2015-06-11 16:30:19 | 滞在記

 「絵地図にあった琉球館は一体どこにあるのだろう?」探し始めて2時間。「もう30分だけ捜してみよう。」と思い、洋館などの古い建物が壊されかけて空き地になっている場所に、再び行ってみた。しばらく空き地にたたずんでいると、これ以上は行き止まりだという場所を女の人が通り抜けて行った。「ああ、抜けれられる細い道があるんだ。」と思い、女の人が通り抜けた道(人が1人だけやっと通り抜けられる)を出たら、突然「琉球館」らしい建物があった。「これだ!」

 建物の前には、「柔远驿」という石碑があった。現在のこの建物の名前だ。そして隣の石碑には「琉球館」と刻まれ、「中日友好」の文字も見られた。この琉球館は、新しく建て直されたものらしい。中は小さな博物館として利用しているようだ。開館時間が書かれていた。「朝9:00~11:00、午後3:00~5:00」まで。何曜日が閉館なのか書かれていない。「今日は日曜日だから開館しているだろう。」と思い、1時間半後の3時に再び来ることにした。
 3時に戻って来た。建物の扉がまだ閉まっている。ドンドンと扉を敲く。しばらくすると中年の男が扉を少し開けて、「今天閉馆日了」と言う。「我从日本来的。请进我。」と頼むが、「不能不能」とそっけない返事。この日は入館をあきらめて、絵地図に書かれている古橋を探すことにした。

 琉球館を少し南に行くと大きな道路(工业路)に出る。いつも通勤で通る道だ。道端でおばあさんが果物を売っていた。昼食を兼ねて、「山桃」を買った。食べてみると美味しい。少し疲れがとれてくる。近くの運河のような川沿いに古橋があるはずだ。琉球と福州を行き来する大型帆船は、海から大河「閩江」に入り、30kmあまり河を遡り(さかのぼり)、この近くの旧福州港に停泊。小舟を利用して荷物や人を支流の小さな川伝いに琉球館近くにある「万寿橋」まで運んだり積み込んだりした様子が絵地図には描かれていた。
 小さい運河のような川沿いに古街を南に下ると、古い石橋が見えた。「この橋かもしれない!」。行ってみると、やはりこの橋だった。「万壽橋」と刻まれていた。相当古い歴史のある橋だ。

 1400年代から琉球の人たちは、この橋のたもとで生活していたんだと思うと感慨深い。橋の小さな「獅子」も人が何百年もなでてきたせいか、すり減っていた。舟形の石の橋脚が美しいと思った。
 橋の近くには、「天后宮」の建物があった。船の安全を祈願する「天后宮」は、女神(仏)を祀っている。この福建省と台湾に多い「天后宮」は、「媽祖(まそ)信仰」とも言われている。

 上の写真や絵は1800年代(清の時代)の福州の古写真と写真からの復元絵である。左の写真のほぼ中心に当時の福州の港や船が見える。真ん中の写真は、福州城のあった付近の写真だ。大きな門がある。1840~1842年のアヘン戦争にイギリスなどに負けた中国。この敗戦後、福州は貿易港として、広州・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海とともに西洋列強国に開港された。この開港により、琉球は「中国・日本・アジア」の貿易中継地としての存在意義を急激に失うことになった。

   ※ブログの前号で、「明治維新後の1970代」は、「明治維新後の1870年代」の間違いでした。



福州と沖縄❶—沖縄の歴史と遥かなる「琉球王国」―

2015-06-11 06:20:59 | 滞在記

 中国福建省福州市と沖縄の那覇市は、ほぼ同じ緯度にある。気候的にも同じ亜熱帯気候でもある。福州と那覇を直線で結ぶと約800km(京都-函館を直線で結んだ距離)。その直線の中間に「尖閣諸島(中国名は魚釣島)」がある。
 沖縄の歴史について、第二次世界大戦末期の1945年以降のことについては知っていたつもりだが、それ以前の歴史については、「かって琉球王国として独立した国の歴史があり、薩摩の軍勢が攻め入って日本の属国となった。」ぐらいの漠然とした知識しかなかった。福州に住むようになって、福州と沖縄は歴史的につながりが深いということを知るようにもなった。
 NHKの番組「歴史秘話ストーリー」で、「遥かなる琉球王国」を見る機会があった。そこには、沖縄と福州(中国)との歴史的な関係がかなり詳しく紹介もされていた。そこで、福州の街で「沖縄」に関係するものを調べてみたくなった。

 福州と沖縄で共通するものや似ているものを挙げると、島唄にも歌われる「デェイゴの花」や「ハイビスカスの花」、「亀甲墓」と呼ばれる墓や「シーサー」の原型となった「獅子」などがある。

 大学の周辺の村中には、村の有力者だった人の「亀甲墓」がある。また、村々の小高い山には、数えきれないほどの「亀甲墓」を見ることができる。私の研究室の窓からも、多くの墓が見える。最近でも、土葬が行われているようで、新しい墓が作られて、墓の周りに花輪が添えられている。ちなみに、一つの「亀甲墓」に土葬されるのは、「夫と妻」の2人だけであるということを、最近学生たちから教えてもらった。大都市や地方都市でも、最近は火葬がほとんどらしい。だが、福建省の都市周辺の農村地域では、「亀甲墓」での土葬習慣が残っている。沖縄の墓も、この福州あたりの影響を受けた墓のようだ。

 中国では、少し大きい会社や店の前、政府・省・市などの建物などの前には、ほとんど獅子が左右に置かれている。日本の神社に飾られる狛犬の由来も中国の影響だろうと思われる。左右二匹の獅子は雄と雌を表しているようである。小さな子獅子が雌獅子にまとわりついてものもあるし、ペニスが付いている雄獅子もある。
 福州市にある古い歴史的な橋にある獅子(狛犬)を見ると、沖縄で最も古い「シーサー」とそっくりだった。「シーサー」も中国の影響だと思う。

 さて、沖縄の歴史だが、1万年ほど前には、中国大陸と沖縄本島から奄美諸島までは陸続きだった。与論島などの海底遺跡は、その当時の遺跡の跡と言われている。旧石器時代の人骨としては、3万年ほど前の「山下洞人」や2万年ほど前の「港川人」が発見されている。
 沖縄に本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だと言われている。このころから、稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、沖縄島各地に小豪族が小国家を作った。14世紀に入ると、3つの国家に統合される。北部の「北山国」と中部の「中山国」と南部の「南山国」。この三国時代は100年あまり続いた。この頃、それぞれの国は、「グスク」と呼ばれる城を築いた。それぞれの国家は、中国に貢物を送り貿易をし、「我が国家こそ沖縄の正当な国家である」ことを主張し相争っていた。そして、15世紀の1429年までには、南山国の「尚氏」が沖縄本島に統一国家を樹立した。「琉球王国」の成立である。(※「琉球」という言葉は、もともと当時の中国人が沖縄を指して使っていた言葉であった。「沖縄」という言葉は、沖縄本島の人々が周辺の島々や宮古島、八重山諸島などに対する沖縄本島を指す言葉であった。)

 首里城を王国の中心とした「琉球王国」は、盛んに中国や日本、アジアの国々に出かけて行き、たくさんの品物の売り買いを行った。また、各国の船が「琉球」の港に来た。当時、中国の明は、半鎖国状態にあったため、外国に開かれている港は極めて少なく、貿易を制限していたため、琉球は「中継ぎ貿易」のアジアの中心地の一つとして大いに栄えることとなった。この財力をもとに、軍備を増強した琉球は、西の与那国島から東の沖永良部島までを占有することになった。さらに、奄美大島に兵を送り領土としようとした。このころまでは、中国に定期的に「貢物」を送って「独立国」の保障を形式的にもらう時代だった。中国側もそれで満足していた。「琉球王国の最盛期」時代であった。

 徳川幕府の時代となっていた1609年、奄美大島への琉球軍の一部進攻に危機感を抱いた薩摩藩は、幕府に琉球国進攻の許可をもらった。ただちに沖縄本島に3000人を派遣した。戦国時代や朝鮮侵攻を経験している薩摩軍を前にして、琉球軍はあっけなく敗北した。
 薩摩軍は撤退した。その後、「琉球王国」は、日本と中国の二重の従属国家としてかろうじて独立を保つことになった。中国側の使節団が来たときには、日本にも従属していることを隠すための工夫をして使節団を迎え入れた。(※薩摩藩は琉球を通じて密貿易を行い、大いに財力を蓄えた。この財力をもとに、明治維新に向けての戦いを行うことになる。)
 日本の明治維新後の1970代、琉球を日本の完全な領土とするための明治政府の政策に対して、中国の清政府は、「琉球分割」を提案してきた。すなわち、「沖縄本島以東を日本領土とし、宮古島以西を中国領土とする。」案であった。この案が通りそうな状況下、国家滅亡の危機を抱いた琉球の高官たちは、中国の清に助けを求めた。「那覇➡尖閣列島➡福州➡(陸路を北京へ)」と、北京に到着した使節団は、当時の最大実力者「李鴻章」と会い、命をかけて琉球分割を絶対しないことを切願した。切願により清政府は、分割案を当分批准しないことにした。
 その後、日本軍の台湾出兵などがあり、日本政府の力が増強し、一方で清は国力を弱めていった。1879年、琉球王国は完全になくなり、「沖縄県」となり、事実上日本領土となった。また、日清戦争後の1895年、日本と中国との「下関条約」により台湾は日本領土となった。そして、日本領土となつた「沖縄県」は、第二次世界大戦末期の1945年4月1日~6月23日までの約3か月間、アメリカ軍の攻撃を受け約26万人(内20万人が沖縄人)が死亡した。その後、アメリカの占領下をへて、ようやく1972年に日本に復帰した。

 中国版インターネットから、録画ドキュメントNHK「歴史秘話ストーリ―遥かなる琉球王国―」を視聴していたら、「福州琉球館」があったことが紹介されていた。ここは、中国の明の時代からの「琉球国大使館」であり、琉球人が在住していた場所だという。探してみようと思った。映像に映された古地図を見ると、いつも通勤している途中にある「南公園」の市バス駅の近くのようだ。5月10日(日)に探しに行った。この地域は、まだ古い建物が結構残っている。ほぼ、市の中心部。地区は迷路のようになっていた。行ったりきたりぐるぐるしながら1時間以上が経った。この地区に住んでいる人に何人か聞いてみたが、知らないという。2時間が経っても見つからなかった。もう取り壊されているのだろうか。捜すのをあきらめてきた。疲れたのだ。