長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

日本一美味いカレーを喰いにいく

2015-11-26 08:57:14 | Weblog

昨日は久しぶりのお休み。

水曜日は「ぶんかん」が「カレーの日」。店長のなつきくんは、ぼくの

蕎麦のお弟子様で、水曜日の一日店長の女性はぼくのお茶のお弟子様。

カレーを食べにくる人たちも顔なじみで、「年越しそばを打ちにいきます」

みたいな会話が肩肘張ることなく、普通にかわされる場所だ。

その前に、今年近くにできたシャアハウスに、いらなくなった大きなファイルを

届けにいく。ITをやっていた時に使っていた顧客データのファイル。

いらなくなったものを譲ったり、空いた時間や空間をシャアしたり、自分にできない

こと、持たないものを交換したりして、仲良くしていく。でも、むりくりの共同体ではなく、

「間」とか「無用の用」とか、荘子や老子の無為自然みたいな精神がどこかしこにある。

押上のこの界隈は、だいぶ変化してきたけど、そんなところが残っているし、よそからくる若者

たちも、その火を消さぬような努力をしている、そんな街だ。でもただこの街にぶらりと遊びにきたり、

引っ越してきてなんとなく住みついてみても、誰にも感じられるほど、しっかりしたものでもない。

「無用の用」といえば、今朝の新聞に、今全国に820万戸の空き家があり、それをテーマ

にした句が多くなってきた話がのっていた。

紹介された句

「ふるさとの 空き家に集まり 遺産わけ」

なるほど風景がうかぶ。こんなのも紹介されていた。

「まだ住める 空き家リユース シェアハウス」

古いものがなくなっていくのは、それだけではなく、そこの住む人たちの「こころ」

までも失なわれていく、ことだ。東京オリンピックという、二回目であまり夢も希望も

感じられないテーマに向かって、最近この界隈の古きよきものが消えていくスピード

がはやくなった気がする。もっとゆったり暮らしていく時代がきているように思うのは

ぼくだけなんやろか。白熱灯も製造しなくなる記事も一面にあった。LEDにはない

あのあたたかみが消える。「さみしい」だけではない大事な灯が消える。

夜は「おんなかっぽれ」だった。元気な女子たちが、浴衣を着て二階で「あ・かっぽれかっぽれ」

と愉快に踊る。ぼくは一階の厨房で、その後の「蕎麦会」の準備をしながら、炭火の上に

あたたままった土鍋に、志野の「燗鍋」を入れ、おでんの味見をしながら一献。

ちょうど昔の「華道」の本を読んでいたら「禁花」というのがあった。毒のある花や、

針のある花などは、生け花には向いていない、とのこと。利休さんは「花は野にあるがごとく」

といって、八重の花や妖艶な花は生けなかったらしいことが書いてある。

ちょうどそんな時、二階から「ずぼらん」が聴こえてきた。助平なおぼうさんがテーマのかっぽれ。

おんなかっぽれには、「禁花」のようなものだが、時代はやはり「めどき」である。

踊りがおわりおでんに熱燗で談論風発していたら、「おでん 熱燗 昔の女」

といエッセーを思い出した。これからは、女が男にかわるかもなんばん。


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