昨日は、昔の仲間との飲み会でした。
話をしていて、沢山の名前が出て来ました。
消息の分かる人もいますし、鬼籍に入った人もいました。
懐かしくて、楽しい飲み会でした。
今日のニュースの中で、
現在、奈良の国立博物館で開催されている正倉院展に、
奈良時代に女帝の称徳天皇に重用された
僧道鏡の直筆の文書が出展されていて、
その中に、天平宝字7年(763年)6月30日には、
経典を写す「写経所」を管轄する役所「造東大寺司」に、
6日以内に写経40巻を終わらせるように指示していたとの事です。
栄原永遠男東大寺史研究所長によると、
標準的に写経生1人が経典1巻を写すのに3日かかり、
1人2巻としても6日間で計20人は必要で、
道鏡が短期間に多くの写経生を動員させていたことがわかるとの事です。
また、「造東大寺司」が出した文書「続修正倉院古文書別集 第一巻」も
展示されていて、道鏡の命で大般若経を書写した
写経生の科野虫万呂(しなののむしまろ)が、
3か月で92日勤務したと記されているとの事です。
当時の役人は5日働くと1日休みとされていましたが、
3か月間休みなしだったことを示しており、
苛烈な労働がうかがえるとの事です。
当時は識字率も低く、書ける人も少なかったはずで、
写経所で働く人は、先端技術者であったと思うのですが、
綺麗な経典を作るのには、過酷な労働環境だったようです。
2007年の正倉院展に行った時に、
こうした経師たちの浄衣が残されていて、出展されていました。
その浄衣には、墨が付いていて驚きました。
なお、写経所の作業区分、写経生の報酬、写経生の待遇改善要求など、
以前に読んだ、大島正一さんの「漢字伝来」から
抜き書きした文書がありますので、
ご興味のある方は、下記をご覧下さい。
https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/dc4a8daec73b127fbfd188776fc435ef
道鏡は、宇佐八幡宮神託事件などの後、称徳天皇が崩御し、
栃木県の造下野薬師寺別当を命ぜられて下向し、ここで亡くなっています。
栃木県内には様々な伝説が残されていて面白いです。
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