たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

外国人に対する厳しさ

2005-06-18 08:50:25 | 社会
職場に海外から実習生が数名やってきました。会社とお金をやり取りするために銀行に口座を開設するのがいい(必須ではないけど便利)…ってことになったのですが,会社にATMがある銀行へ行くと「キャッシュカードはつくれない」とのこと。
よくよく聞くと,半年以上日本にいないとキャッシュカード付の口座はつくれない。ちなみに同銀行の他の支点に行くと「同市に住んでいる外国人じゃないと口座はつくれない」とも(実習生は寮が隣の市)。
職場にはATMはあるけど,窓口はないのでキャッシュカードがないとすごく不便。いちいち銀行までいかないとお金がおろせません。以前はそんなこと(半年以上いないとダメ)はなかったので,最近の外国人犯罪の問題で厳しくなったのかと思う…。
ですが…,結局この問題,実はOKになりました。うちの職場がその人の身分を保証するという形で…。
ちょっと驚いたのが銀行によって,この辺の対応が変わるのはわかるんですが,同じ銀行でも支店によってどうやらその辺の基準が揃ってない様子。そういうものなんですか…。まぁたしかに職場の身分保証とかは職場と取引があるかとかで変わってくるとは思いますが…。公的機関(つまり郵便局)だとこういうことないでしょうねぇ…。
それはいいとして思ったのが,なかなか日本で日本人やってると気づかないのですが日本って外国人に結構厳しい国なんですよね。入国ビザがなかなか下りないという話も良く聞きます。一般人レベルで外国人に抵抗があって…っていうのは,まぁそうあるかもしれませんが,こういう銀行とかの部分で不便があったりするのだろうし,あと警官から職務質問を受けたりとかあるんだろうな…と思います。
わたしが以前オランダに行ったときに警官と偽られて詐欺というかスリを受けたことがあるんですが,こういうのももしかしたら日本に旅行に来ている外国人の人も同じ様な目にあってるのかなぁ…と思ったんですが,そういうのあるんでしょうね。
わたしの中には日本にいる外国人にはすばらしい人もたくさんいて,また日本を良く思って欲しいという感情もあるし,一方で犯罪とかを行う危険な存在もいる…という感情もありなかなか複雑です。良くTVとかで日本にいる外国人が感情的に訴えている映像を見て,すごいなぁ…と思うんでしょうが,非常にきつい仕打を受けている人達もいるんだろうなぁ…と思います。
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理不尽な感情

2005-06-16 22:33:41 | ココロ
夏目房之介さんのブログでの話…。前半はマンガのリアリティの話で,途中から引用とかの話になってますが,そこの話はおいておいて,最後の方。「人は必ず『自分がもっとも愛して出会った瞬間のマンガ(音楽でも文学でもいい)』を自分の中で重要な価値指標にしますから…」のところです。その後「次第に『何だか面白くない』と感じる瞬間がきます」と続きますが,氏はこういうのを「理不尽な感情」といい,批評家としてそれを乗り越えるのに苦労したような事が書いてます。
夏目氏はプロの批評家なので,それを明確に自覚し乗りきったことことは必要に駆られてのことだと思いますが,こういう思いを乗り越えられることは,批評家にあらず,一個人としてもメリットがかなりある…,いやメリットというよりはその人自身が世界をネガティブに感じるか面白く感じるか…という事の大きな要素になるように思います。
わたし自身も単なる一音楽リスナーですが,今の音楽がつまらないという感情を払拭するために,それなりに自覚的になった時期はありますし,音楽だけではなく,社会自体,自分の環境自体,そういうものも含めてそれを乗り越えることを意識した時期があります。特別な時代というのは自分の中に存在するもので,自分の外に存在するわけではないので,社会自体が悪くなることは無いし,逆に自分がそうあれば,いつでも社会はとてもすばらしいものであるとわたしは思います。
夏目氏のこれに関する文は上記のページではそんなに量はありませんが,「ある種の『批判的』言語のもつワナ」とか,「言葉が優秀だとかなり頭よく見えちゃう」とか鋭い指摘をしっかりしてます。つまり「批判めいた事を述べることが評論」と思ってるような,個人の評論を見掛けることもありますが,それらはもしかするとその理不尽な感情から個人のルサンチマンとして述べられているのかもしれません。ですのでわたし自身は他の人が書いた批評はどうでもいいのですが,自分自身がネガティブな印象を持ったときにそれがいったいどこから出てくる感情なのか?…ということに関してはかなり自覚的に自問自答するようにしてます。そうして自分の感情を客観視し相対化すると,実は結構
楽にいきられる…と実感してます。
つまりは楽にいきられるかどうか…というのは,こういう物事に対する評論のなかにその姿勢が反映するわけで,ある意味批評というのは批評される作品というより批評する人の姿勢やココロの状態が赤裸々にみえるものだと言える気がします。
というわけで,批評というのは実はかなりこっぱずかしい行為だったりします(^^;)。
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はてな

2005-06-15 07:13:23 | 社会
わたしは「はてな」にIDをもっていたりするので,はてなの人力検索もみていたりします。なかなかおもしろいシステムだと思うのですがこの質問へのやりとりを読んでいて,はてなのシステムの限界を感じてしまいました。
というか,別にこの質問でなくてもいいんですが,要はここで質問されている内容というのは,ずばりわたしの専門分野であり,そのわたしからみてまったく適当な回答を導き出せてないというか質問者が有効な回答を得てない様に見えます。
はてなのシステムは有効な回答をしてくれた人にお金に当たるポイントを差し上げるというかたちなので,質問を出すと我先にいろんな人が答えます。一応答えるときにはURLを示すというルールになってるので(ダミーをいれる人もいますが),URLを示して,それにコメントを加えるという形でだいたいの人が回答をします。で,みんなが我先に答えちゃって,質問者は彼らに何らかのポイントを与えないといけないので,だいたい早々に締めきってしまう。まぁ今回のわたしに対していえば,わたしがこの質問に気づいたときには既に回答は締めきっていたのです。それはいいんですが,回答を見たら「あぁーぁ」って感じだったので。
見事に良くわかって無い人がネットで検索して,それらしいURLを挙げて,斜め読みした内容を挙げてるだけ…という感じです。自分で噛み砕いて説明していません。それでこれもよくあるんですが,回答者が質問者が聞きたいことを理解せずに単に自分が知ってる知識を書いてるだけ…っていうのもあります。だから質問者は結果として混乱して終わってます。
あとかならずURLを挙げるって言うのもどうなんですかねぇ…。URLがあれば信用できる…って話でもないかと思いますが…。わたしがここに適当に書いて,そこにリンクを張るとかもできるわけで…。
つまりポイント制にすることで迅速に回答が集まるのですが,決して有効な回答が集まるわけではなく,むしろ有効な回答を得るのを邪魔してるなぁ…と感じたのです。はてなにかんしてはここでアンケートをとってる人も良くいますが,こちらも早々に埋まってしまいます。「もしかしてここのアンケート結果を調査結果として納品してるシンクタンクとかないよな?」とか思うこともあるんですが:-p,ここのアンケートで得られる回答もその時たまたまネットをみていた人か,常時ネットをチェックしている人達ってことで,かなり片寄った母集団だなぁ…と思うのです。
まぁ,今日の日記はこれだけです(^^;)…。そういえば「わたしも回答が気になる」っていう質問には誰も答えないこともあるんですよね…。なかなかネットで情報を得るのは難しいようです。
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国家の適正サイズ

2005-06-14 05:05:29 | ひとこと
先日書いた天下統一の件は,要は世界は統一された方が安定するのだろうか?…という疑問だったのですが,極東ブログさんのところに国家の適正サイズという話があり,あぁーなるほど…と。
まぁ適正といっても何に対して適正なのか?…っていう話があって,別に世界の安定…という話でも無いのかも知れませんが,単純な統一主義とか多様主義…という話でもなく,国のサイズ…というので安定不安定,もしくは対外的な力…という意味でなにか意味があるのかも知れない…というのはわたしも思いました。
ただコメントの中にも結構鋭い指摘があって,インドが10億人を抱えていてそれなりに安定しているが,カースト制があるという話とか,中国は力で人民を圧させているという話。この辺の話は,以前読んだ「階級社会~グローバリズムと不平等(ジェレミー・シーブルック著)」という本にも書かれているように,例えば西洋は国内の下層階級の人の生活がある程度向上していくと,その貧民層の部分を海外に求めた…ということからわかるように,もしかしたら,国家の安定のために貧富の差というのは必須なのかもしれません。こういうことを書くとどうも絶望的な気分になってしまうのですが,300年鎖国して安定した日本の江戸時代も貧富があってこそのものだったのかもしれません。
国家の適正サイズ…というのは産業面,軍事面,という意味ではあるように思います。しかしそれゆえに時代によって変わる部分も多い気がします。ただ経済面という意味で考えると,国家内の経済格差を減らしていくとやっぱりそのしわ寄せを海外に求めるようになるんじゃないかなぁ…という気も…。
うーん,話がそれてる…。適正サイズって話に戻すと,では,すべての国が適正サイズに落ち着いたら安定するのか?…というとそういう事でも無い気がします。もちろんそういうことはだれも言っておらず,サイズの大小によって在り方が違うって話ですよね。世界がある程度同じサイズの共栄圏だけになったとき…,まぁそうなるにはかなりの奇跡が必要な気がしますが,そうなったときにその共栄圏どうしがどういう風にかかわり合うのか?…というのもイマイチ見えず,はてさて…どういうものか?…という気はします。冷戦もある種二大共栄圏の時代だったわけだし。
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オタク拡大が投資の鍵か

2005-06-13 06:49:35 | 時事
オタクがキャリア女性と恋に落ちたとか,その他にもモデルか女子アナがオタクと結ばれたとかいう話があったり(ソースが見つからないので勘違いかも),電車男の様な話があったり…。まるで「オタクでも女性にもてますよ」という様なメッセージを飛ばす報道が最近時々みられます。
こういう報道をオタクの人達がどういう風にとらえているかよくわかりませんが,「一体何を扇っているのだろう?」って思っている人もいるのではないでしょうか?。
こういう「オタクでももてる」という報道が一体誰に得をもたらすのかを考えたとき,思うのは,これらの報道はもともとオタクだった人を安心させる…というよりは,むしろ「隠れオタク」だった人をオタクにするのに役に立ち,その結果オタクの人口を増やし,オタクマーケットの消費拡大を狙っているのではないでしょうか?,とか思います。
そもそもステロタイプのオタクは,女性のもてることを放棄してコンテンツ等の趣味の世界に生きている人が多いととらえられているのですが(すみません,かなり言い過ぎです),一方世の中には女性にもてるため,社会に認められるために自分のスタイルを選んでいる人達がそれなりにいます。もてるためにファッションを勉強したり車を選んだり美味しいレストランを調べたり…という人もいるし,楽しい遊びを開拓したりする人もいるでしょう。社会から認められるためにいろいろ教養を身につけようとする人もいるでしょう。そういう人達は仮に自分の中にオタク的な要素があっても,それをどこかで卒業していっています。
しかし良く考えてみると,現在の日本人はおそらくほとんどの人が幼少の頃アニメを観てマンガをみてモデルで遊んで…というのを通過しています。従って現在アニメとかマンガとかに全く興味が無い人も,もともとはその素養をもっていたと思われます。しかしそういう人達が大人になる過程で,上記のようにオタクコンテンツへの趣味を卒業している人達がたくさんいるのでしょう。
しかし最近のオタクでもステキな恋ができる…という報道は,「オタクをやっていたら女性にもてない」という理由でオタクであることを隠している人達にオタク宣言をさせる働きがあります。もしかしたらこれが狙いでしょうか?。
単純に考えるとオタクが消費するものはほとんど国産のものです。一方オタク以外の青年が消費するものは服だったり車だったりしますが,国産もありますが海外のものが本物だったり,海外に安いものがあったりします。そういう風に考えると,国内にオタクの若者が増えると内需が増えるわけです。
「萌え市場」に大手銀行も投資しているような現状を考えると,オタクが増えることは好ましいわけです。そういう意味でいうと冒頭のような「オタクでももてる」という報道は,決して現在のオタクに希望をもたせる目的というよりは,隠れオタクをオタク行動に向かわせることにより,投資家に一山当てさせる…っていう目的ではないのだろうか?…とかいう気がしてきました。実際どうなんでしょう?。。
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役人は下僕か?

2005-06-12 09:22:48 | 時事
最近TVとかラジオとかを聞いていて時々聞くフレーズで,役人とかがなにか問題を起こしたときに「役人は国民に奉仕すべき」とか「税金払ってるんだから」って言葉…。ちょっと使われ過ぎな気がします。まぁ間違いではないのですが…。
先日「大臣(ミニスター)にはもともと下僕という意味がある」なんて言ってる人がいましたが,おもわず「そりゃ国民じゃなくて,国王の下僕って意味じゃないの?」って思ってしまいました。まぁ現在が国民に主権があるから「国民=国王」と言いたいのかもしれませんが。…
なんか非常に浅ましく感じるのは「自分は税金払ってるんだから役人よりえらい」と言いたいような言い方…。税金払ったらそんなに偉いのか?…と思ってしまう。なんか安い料理を注文して「オレは客だ,奉仕しろ」と切れる連中と重なって見えます。日本人の民度がそういうことになってるのか?…。
税金払うのも役目だし,役人の仕事も役目ですよね。どっちも法律にかかれてます。その役目を果たしてないから怒るっていうのはわかるんですが,何か「自分を客扱いしろ」っていうのは違うように思います。そんなにいうんだったら,自分が払ってる税金が幾らで,それは何人分の給料で,さらに経費にどれくらい使えるかとか計算してみて欲しい。でも違いますよね。行政というのは,そういう風に税金を払った分だけ…という思想じゃなくて,幾ら払おうが等しくサービスを受けられるものです。ですから,税金払ったから…じゃなくて国民の義務を果たしているからなのでしょ?…。なので勤労していない学生だった行政サービスを受けられるわけです。
というわけで,まぁ怒るのはいいけど,役人を下僕という言い方するのはかっこ悪いと思います。
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電車男

2005-06-10 21:34:52 | 時事
「電車男」は実はフィクションとのうわさが流れているようです。この手のうわさは何度か聞いてますが,正直「どうでもいい」と思ってます。ただ一つだけ気になっていたのが,著作権の扱いで,よくよく調べると2chにしか許諾をもらってないと新潮社はいっているとのこと。
良く考えるとこの最初のフィクションという話と新潮社の主張は矛盾があって,もしフィクションであるのであれば,最初に2chに書いた連中は新潮社関係者ということになります。そうであれば,今度は新潮社が嘘をついていることにもなります。
仮にフィクションを作ったのが新潮社じゃなくて,他の連中だった場合,彼らは新潮社に出版差し止めや著作料の請求が出来るのでしょうか?。それをやるには自分達が著作者であることを証明する必要があり,それは可能でしょうけど,ただそうすると出版前に電車男がフィクションであることがばれてしまい,当然世の中の熱は冷めます。そうならないためには新潮社も巻き込む必要があり,結局「フィクションであれば,新潮社が嘘をついている」という構造は揺るぎません。
というわけで,大手出版社として,それはありなのかな?…等と思うわけです。どうなんでしょ?…。
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出会いの場

2005-06-10 08:50:35 | 社会
日本がW杯出場を決めた興奮やめやらぬ今日ですが,他の人の話を聞いていると街頭のTVで見ていたとかいう話もありました。そういえばTVで中継してましたがスポーツバーでみてたりとかいうのもあります。そういうのが最近増えてるのかどうかは知りませんが,一時期に比べ,知らない人と何かをする(ダーツとか)…というようなバーが増えてるような気がします。
聞いた話ですが,今の日本では外に飲みにいっても居酒屋にしてもバーにしてもカフェにしてもだいたい一緒にいった人と喋って…って感じですが,ヨーロッパのバーは知らない客同士で喋る場だそうです。つまり出会いの場…ってことですね。日本にそういう場が無かった…というわけでもなく,日本でも本来は居酒屋がそういう場であることもあったはずです。わたしも現に居酒屋で客同士が盛り上がる店にいって声をかけられたこともありますから。
ただ現在(ちょっと前?)の日本はわりとそういう場が減っており,知らない人とは席を隣にしても話をしない,無視をする…という感じが増えてる気がします。
ところが,上記のようなスポーツバーとかはちょっとそういうのとは違い,くる客もおそらく知らない人と話をすることを期待して行くのでしょう。また昔あったディスコとかも知らない人出会う場…であったような気がしますし,現在のクラブとかもそうなのかも知れません。音楽のコンサートはとなりに座った客というのは大抵無視しますが,レイブとかは一緒に盛り上がることはママあります。某ソーシャルネットのコミュニティとかを見てると「お店の人(他の客)と喋れるお店はありますか?」とかいう質問があって,実際バーとかに出会いを求めて行く人も若い人にも結構いるのだなぁ…とか感じていたりします。
というわけで,「出会いの場」が少ないといわれる昨今の日本ですが,それを補うような場はあることはあるようです。
まぁでもそれがあまり外から見えないというのは,ちょっと不健全な気がします。上記のように出会いの場になり得ると書いたレイブやバーとかディスコとかは人によっては眉をしかめる場でしょうから…。
個人的にはこういう出会いの場はもっと表に出てきてみんなが普通に知らない人と一体感を感じるような社会になった方がいいように思います。それは出会いがあって楽しいというよりも,現在の日本は公共空間が個室化していて,それで他人の目を気にせずいろいろと問題のある行動をする人が増えているからです。公共空間が知り合い同士の場…という認識になればそういうことは減るでしょう。
まぁそういう意味じゃ街頭TVでもいいけど,みんなが見て盛り上がるっていう内容がまぁそうそうあるわけでもないよなぁ…と。
でも,出会いを求めている人は結構潜在的にはたくさんいて,そういう人のための場をもっと入って行きやすいかたちで作れば結構なビジネスチャンスだと思うんですが…。ネットとかとは別のリアルな世界で…。
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ネットコミュニティ形態と議論

2005-06-09 09:42:18 | ココロ
なんども書いてるので…またか…といわれそうですが,わたしはコミュニケーションの「場」っていうに興味があって,いろいろ世の中を見ては考えてしまいます。ずっと観察してるのはネット上のコミュニティーで,何度も書いてますが,わたしもインターネットをやりはじめて20年近くなっているわけで,メイル,ネットニュース,パソコン通信,掲示板などを見ていて,現行おもしろいなぁ…と思ってるのがソーシャルネットだったりします。
ただ見ていて思うのはやっぱり個人的にはネットニュースの頃が一番深い議論が出来ていたように思います。もしくはML。Webベースのコミュニケーションになって,どうもそうでも無くなった気がします。なぜでしょう?…。ネットニュースやMLの頃は引用をし,そこに意見を挟んでいくという形式だったのが,Webではそういう風になってないからでしょうか?。一次元のスレッドだと古い発言が埋もれてしまうからでしょうか?。ブログも印象的には同じです。それとも文化的な問題でしょうか?。ソーシャルネットを見ていてもあまり長文を書く人がいない気がします。
一つは自分でWebを持ってる人が増えていて,公共の空間に自分の情報を載せるのをけちってるというか,別に公共の空間に長々と文章を書く必要がない…って思ってる人が多いのかも知れませんね。かくいうわたしもまとまった文章はソーシャルネットには書かずにここに書いていたりしますし…。
ブログって古い文章にアクセスしにくいですからね,恒久的に文章が目につくようにしたいのであれば,Webの方を選ぶのだろうなと思います。ただ個人のページはコミュニケーションの場にはなりにくいですね。
ソーシャルネットを見ていてもどんどん自分でコミュニティを立ち上げてそっちに話を引っ張ろうと画策している人達もいるんですが,結局そういうのって分散するだけで,どこで話がされているかがわからなくなるだけのような気がします。
難しいですね…。
ところでネットではなくてリアルの世界も良くわかんなくて,ヨーロッパとかではバーでは知らない人に話しかけるのが当たり前…って文化らしいんですが,実は日本の飲み屋も場末にいくと結構そういうことあります。ただ普通の居酒屋はグループに閉じたセカイになるし,カラオケもスナックからボックスになってやっぱり狭くなった…。でもスポーツバーでのスポーツ観戦とかがあるようにそういう需要はあるようにも思います。
どうも個人主義という建前に振り回されて,場が見えにくくなっているような気も…。
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靖国問題 (高橋哲哉著)

2005-06-09 07:11:18 | 書評
昨今問題となっている靖国問題。実は意外に等の日本人が靖国神社とはなんなのか?…というのを正しく理解していない。その歴史,存在理由,そして靖国参拝と宗教,政教分離等の問題,そして外交問題等…。この本は歴史学者や宗教家ではなく哲学者であるところの著者が哲学的な論理で靖国問題を論考するという本です。
靖国問題,靖国神社については,どれくらいの人がどれくらいの事を知っているかはわたしはしりませんが,わたしは一応明治にできた神社ということとか,戦没者が祀られているとか,A級戦犯も合祀されているとか,西郷隆盛は祀られてない…とか, 一宗教法人である…とかいうのは知ってました。で,そのわたしがこの本を読んで,知ったことというは結構あって,そういう意味では読んで良かったと思います。ただ感想としては,結局論理的思考でも(ちょっと不適切な言い方ですが)バイアスがかかるのだろうなぁ…ということです。
というのは,論理的思考で靖国のことを語ろうとしても結局は資料から歴史的事実を引用するので,その選択により論考が影響をうけてしまうということ,あと論理的に突き詰めるとある意味実現不可能なところまでいってしまって,痛み分けとかしゃんしゃんみたいなところに落せないという事です。
まずこの本でいっていることで,わたしが読んで知って比較的驚いたことを書くと,(1)靖国神社は戦前戦中戦死した兵士を祀ることにより,遺族・家族は悲しみを喜びへ昇華できた。これにより国に命を捧げることを喜びと感じるようになった。(2)A級戦犯は歴史認識の一部であり,本来は植民地主義こそが問題である。(3)首相の靖国参拝を合憲とした司法判断はこれまでない。しかし宗教法人を国がいじることは憲法上無理だし,靖国神社を非宗教かすることがかえって戦前の国体へ向かう危険性をはらんでいる。(4)死者を祀るという風習がたしかに日本にはあるが,敵を祀っていない,戦争で被害者になった民間人を祀っていないという意味で靖国は日本の伝統文化に即しているわけではない。というあたりです。
(1)は靖国神社は国に命を捧げる兵士を作る装置として作られた事を示してます。戦没者の遺族を国費で招待して天皇陛下が祈るという行事を戦前は何度も行っていて,この時に遺族達は恍惚を感じたようです。逆にいうと,それだけの栄誉を感じたからこそ,現在でも靖国にこだわる遺族は多いという事です。(3)の靖国の非宗教化の危険性というのは,明治に政府は神道を国家宗教としようとしたが,仏教とキリスト教の反対を受けた結果,「神社に詣るのは宗教行為ではない」ということにし,神道を超宗教にしてしまったということ。つまりある意味無宗教なわけで,無宗教な施設が国民の献身のよりどころになる危険性を既に表しており,このことから靖国以外の非宗教施設を作るとかえって危険である…ということを著者は指摘してます。
この辺はなるほどと思ったのですが,(2)の植民地主義の問題というのはわたしとしては,あまり共感しませんでした。つまりA級戦犯をさばいても,中国や韓国の人達を傷付けた人達がいるのは事実だということですが,それをいうと結局日本以外のアメリカやイギリスも植民地時代に不当に現地人を迫害していたわけで,植民地主義をしたすべての国が罪を償うべきという議論になり,あまり現実的ではないとわたしは感じます。また組織的に行った行為を個人におしきせるのはおかしいと思います。
そういうわけで,この著者がいう結論は,どうもわたしには日本は徹底的に謝罪して中国にずっと頭を下げつつける…という風に読めてしまって,そこだけが同意できませんでした。ただ戦前における靖国の機能を考えると戦没者記念施設ですらある意味恐ろしさを感じますが,ただアメリカやヨーロッパにもそういうものがあり国威掲揚というか国民の意識を高めるためには利用されているのです。哲学者的には,こういう国のような組織が国民の意思をコントロールすべきではないという意見なのかもしれませんが,人間はそんなに賢い人ばかりではないし,実際に国の周りには国民の意思をコントロールして他国に圧力をかけている国があるわけですから,国がまとまる事をすべて否定するには,現実は理想的ではないようにわたしは思います。
というわけで,結論的にはあまり賛同はできませんでしたが,読みやすいし,いろいろ新しいことを知ったので,まぁ読んで良かったかとは思います。
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